第3話 静かな崩壊
2027年6月18日、午後。
雨は二日目に入っていた。
古びたマンションは水を吸ったスポンジのように膨らみ、壁の奥まで冷たい湿気が入り込んでいる。
電気は一応戻っている。
だが安定していない。天井のLEDが、不規則に明滅していた。
キッチンでは、リ・ジーシーが排水口を見下ろしている。
「モラン、これ……逆流してる」
声は低い。
「臭い。腐ったネズミみたい。水も流れない」
ユ・モーランは近づき、しゃがみ込んだ。
排水口から、ぶく、と泡が浮く。弾けるたびに、臭いが広がる。
「……想定内だ」
ビニール袋を取り出し、排水口に押し込む。
その上から濡れた雑巾で、しっかりと塞いだ。
「配管が緩んだ。雨で排水も死んでる。下の汚物が上がってきてる」
臭いは強い。頭の奥を直接叩く。
昔の記憶がよぎる。
汲み取り式の便所。掃除。――同じ臭いだった。
文明が、後退している。
「七階でこれだ。一階は終わってる」
リビングの隅で、シャオユイがタブレットを抱えていた。
画面は黒いまま、何も映らない。
「パパ……動かない」
「基地局が壊れてる。すぐ直る」
ユ・モーランはそう言った。
嘘だった。
完全に切れていたわけではない。さっき、一瞬だけ電波が戻った。
4Gを二本。
その直後、スマートフォンが震え続けた。
止まらない通知。
一晩分が、まとめて流れ込んできた。
住民グループには、南城トンネルの写真。
そのあと、動画。
五秒だけの、短い映像。
画面は激しく揺れている。撮影者は草むらに身を隠しているようだった。
遠くに見えるのは、昨日壊されたスーパー。
歪んだシャッター。地面には砕けたガラスと、踏み潰された商品。
そこへ――
軍用色のトラックが走り抜ける。
荷台には兵士。構えられた銃。
スピーカーから流れるのは、ノイズ混じりの声。
「……自宅待機……集団行動禁止……略奪は処罰……復旧作業中……」
声は落ち着いている。だが、それが逆に冷たかった。
国はまだ機能している。
――それでも、ここまで来ている。
ユ・モーランはベランダに出て、カーテンをわずかに開けた。
通りは静まり返っていた。
昨日の狂乱が嘘のように、人影はない。
残っているのは、地面だけだ。
捨てられた傘。脱げた靴。
それらは黒い水に沈んでいる。
完全に終わったわけではない。
向かいの店。
シャッターは半分だけ閉じられ、地面にわずかな隙間がある。
そこに人影。
しゃがみ込み、紙幣を差し入れる。
中から手が伸び、何かを渡す。
取引は一瞬で終わる。
受け取った人間は周囲を見回し、壁に沿って走り去った。
「米、あと二食分」
後ろから、リ・ジーシーの声。
「野菜はない。減らすしかない」
ユ・モーランはポケットの現金に触れた。
昨夜、完全に停電した。
今は中途半端に戻っているが――電子決済はもう使えない。
「……行ってくる」
「ダメ」
腕を掴まれる。強い力だった。
「昨日、隣で……人、殴られた。米一袋で」
「大きい店には行かない。下だけ見る」
短く答える。
「今なら、まだある」
靴を履く。
ポケットにナイフを入れ、帽子を深くかぶった。
廊下は暗い。非常灯の赤だけが浮かんでいる。
空気は湿り、重い。
三階を過ぎたとき、扉の向こうから泣き声が聞こえた。
押し殺したような、鈍い音。
止まらない。
一階。
ガラス扉は割れ、雨が吹き込んでいる。床は滑る。
ユ・モーランは壁に沿って歩いた。音を立てないように。
店は、開いていた。
しゃがみ込み、隙間から中を見る。
老王。
鉄パイプを握り、外を警戒している。
ユ・モーランに気づくと、わずかに力を抜いた。
だが武器は下ろさない。
「現金だけだ。それか金」
声はかすれている。
「塩、麺、ソーセージ、缶詰、電池」
百元を差し入れる。
「塩はない」
金を抜き取り、電池を押し出す。
「これで五十。食い物は全部売れた。ビスケットだけだ。一袋五十」
「高すぎる」
「今はこれだ」
冷たい目だった。
「明日、この金が使えるか分からん」
ユ・モーランは何も言わず、受け取る。
さらに二百元を差し出した。
「全部ビスケット。あと水」
「水は一本十元」
「いい」
立ち上がる。
そのとき――
低い音が、遠くから近づいてきた。
雷ではない。
SUVが、水を蹴散らしながら突っ込んでくる。
速度が異常だった。
屋根には荷物が山のように積まれている。
泥水が跳ね、周囲に降りかかる。
運転席。
マスクの奥の目。
――壊れている。
いや、違う。
決めている。
逃げている目だった。
SUVは、そのまま走り去る。
音だけが、しばらく残った。
ユ・モーランは顔の水を拭う。
胸の奥で、不安がゆっくりと広がっていく。
部屋に戻る。
ドアを閉める。鍵をかける。
もう一度、確認する。
靴箱を引きずり、入口を塞いだ。
「買えた?」
リ・ジーシーが見る。
「これだけだ」
テーブルに置く。
その瞬間、照明が大きく揺れた。
一度。
二度。
そして――止まる。
暗闇。
完全に。
数秒後、冷蔵庫の音が途切れた。
部屋の中から、すべての生活音が消える。
誰も動かない。
ユ・モーランは立ったまま、理解する。
もう戻らない。
――何かが、決定的に壊れた。




