第2話 静かに狂い始める
声は、通気ダクトを通って響いてきた。
歪み、途切れ、潰れたような音。
まるで、人間の声が無理やり引き裂かれているようだった。
ユ・モランは動かなかった。
テーブルの上に置かれた、半分だけ残ったペットボトル。
その水面を、ただじっと見つめている。
頭の中では、同じ光景が何度も繰り返されていた。
動かないトラック。
消えた通信。
止まった物流。
――すべての歯車が、壊れている。
午前4時。
雨は少し弱まった。
だが、空は明るくならない。
これは夜ではない。
まるで世界全体に、厚い灰色の膜が被さっているようだった。
光が、どこにも届かない。
そのとき。
スマートフォンの画面が、一瞬だけ点いた。
圏外のはずなのに。
表示されたのは、キャッシュされたニュース。
再生時間、わずか3秒。
指が、勝手にそれをタップする。
画面が揺れる。
激しく。
車載カメラの映像のようだった。
高速道路。
その先の空が――
盛り上がる。
黒い。
巨大な。
水の壁。
それは、空へと伸びていた。
山よりも高く。
地平線から、空を覆い尽くすほどに。
次の瞬間。
映像は激しく回転し――途切れた。
静止。
ユ・モランの指が、画面の上で止まる。
もう一度再生しようとする。
だが。
「再読み込みしてください」
それだけが表示される。
彼は、何も言わずに画面を閉じた。
リ・ジーシーには見せなかった。
午前8時。
それでも、空は暗いままだった。
空気が、重い。
焦げたような匂い。
そして、下水のような腐臭。
家の中にある容器は、すべて水で満たされていた。
浴槽。
洗面器。
鍋。
その沈黙を破ったのは――
ドン!!ドン!!ドン!!
激しいノック音。
ドアが軋むほどの勢い。
リ・ジーシーが、びくっと身体を震わせた。
すぐにシャオユイを抱き寄せる。
ユ・モランは手で制した。
音を立てるな。
ゆっくりと、ドアへ近づく。
裸足のまま。
足音を殺しながら。
覗き穴を覗く。
そこにいたのは――
チャン老人だった。
いつもは穏やかで、下で将棋を打っている、あの男。
だが今は、別人のようだった。
シャツは濡れ、肌に張り付いている。
髪は乱れ、額に貼りつく。
そして――
目。
赤く充血し、見開かれている。
ユ・モランは、ドアをわずかに開けた。
チェーンは外さない。
「……どうしました」
「小于!!」
チャン老人は顔を隙間に押しつけた。
息が荒い。
汗の臭いが、強く流れ込んでくる。
「下が……おかしいんだ!!」
言葉が、途切れ途切れに飛び出す。
「スーパーが……壊された!!」
「みんな……みんな中に突っ込んで……」
「レジも通さないで……全部……!」
手が震えている。
ビニール袋を掲げる。
中には、インスタント麺が数個と、ラベルのない調味料。
「これしか……取れなかった……」
目が、ユ・モランを見据える。
「食べ物、あるか?」
その声は、もう“お願い”ではなかった。
「少しでいい……分けてくれ……金は払う……倍払う……」
その手が、伸びる。
ユ・モランは、その手を見た。
そして――
ゆっくりと、自分の腕を引いた。
「……うちも、何もない」
沈黙。
チャン老人の目の光が、消える。
その代わりに――
何か別のものが、浮かび上がる。
疑い。
彼は、じっとこちらを見つめた。
顔を、探るように。
やがて。
「……そうか」
力なく呟き、背を向ける。
足音は重く、引きずるようだった。
ユ・モランは、ドアを閉めた。
鍵をかける。
もう一度。
さらに、もう一度。
「……信じてない」
リ・ジーシーが、小さく言う。
ユ・モランは答えなかった。
窓の外を見る。
人が走っている。
荷物を抱えて。
それを追う影。
掴み合い。
怒号。
ガラス越しでも、はっきり聞こえる。
「パパ」
シャオユイが、服を引っ張る。
「お腹すいた」
「……ご飯にしよう」
朝食は、素麺だった。
具はない。
ただ、少しの調味料だけ。
「今日、学校ある?」
「ないわ」
リ・ジーシーが答える。
「連絡も来ないし……待つしかない」
シャオユイは、少し笑った。
「じゃあ、今日お休み?」
ユ・モランは、何も言えなかった。
食事の後。
彼は、キッチンに立った。
引き出しを開ける。
取り出したのは――
一本の包丁。
骨を外すための、鋭い刃。
テーブルにタオルを広げる。
包丁を置く。
巻く。
一周。
また一周。
強く。
滑らないように。
「……何をやってるんだ、俺は」
ふと、手が止まる。
数日もすれば、元に戻るかもしれない。
電気も。
通信も。
人も。
これは、ただの混乱かもしれない。
ここは、法治国家だ。
――その瞬間。
外から、悲鳴。
女の声。
喉が裂けるような叫び。
鈍い衝撃音。
「離せ!!」
男の怒鳴り声。
すぐ下の階からだった。
ユ・モランは、ゆっくりと視線を落とした。
そして。
再び、手を動かした。
タオルを、最後まで巻き切る。
強く。
深く。
血が出ても、滑らないように。
彼は立ち上がる。
玄関へ。
棚の中。
一番手を伸ばしやすい位置に、それを置く。
そして。
もう一度、手に取る。
握る。
ざらついた感触。
冷たい重み。
現実。
そのとき。
ドアの外で、足音が止まった。
動かない。
気配だけが、そこにある。
――自分の家の前で。




