第5話 稲葉山城の朝
道三の居城、稲葉山城——のちに岐阜城と呼ばれるその山城は、長良川を見下ろす急峻な山の上に建てられていた。
城下町から山頂まで一時間近くかかる急坂を、光義は毎朝上り下りしていた。道三の弓衆は城下の兵舎に詰めており、稽古は城下の広場で行われる。城に呼ばれるのは道三に何か用があるときだけだ。
(この山、毎日登るのか……足腰だけは鍛えられそうだ)
弓衆の仲間は十二人いた。大半は光義より年上で、三十代から四十代が多い。彼らにとって、十七歳の少年が突然「弓衆に加われ」と道三から命じられたことは面白くなかったようだ。
初日、松という名の弓衆のまとめ役が光義の前に立った。がっしりした体格の三十代の男で、目つきが鋭い。
「道三様のお眼鏡に叶うたとのことだが——実際のところ、どれほどのものか見せてもらおうか」
(ああ、これは試されてる)
光義は内心で溜息をついた。こういう場面は前の会社でも経験がある。新人が実力を示さないと誰も動いてくれない、あれと同じだ。
「承知しました。どの的を使いますか」
松は顎で示した。広場の端——七十歩ほどの距離に的が設置されている。
(余裕だな)
弓を受け取り、構えた。正面打起し。引き分ける。風を読む。放つ。
的の芯を射抜いた。
「もう一本」と松が言った。
また芯だった。
「さらに遠くを的にせよ」
松が指差したのは、広場の外れにある柱——百歩ほど離れている。
(これくらいなら問題ない)
構えて、放った。柱に矢が刺さった。
弓衆の面々がざわついた。松はしばらく無言で的を見ていた。それから振り返り、光義を見た。
「……なるほどな」
たったそれだけだったが、次の日から態度が変わった。仕事を教えてくれるようになり、飯の席に誘われるようにもなった。
(男の世界って、シンプルだな。実力さえ示せば認められる)
前の会社では、実力を示しても「若いくせに生意気」と言われることがあった。それに比べれば、この世界はわかりやすい。
弓衆の日課は厳しかった。
夜明けから二百本の矢を引く。午前中は矢の整備と弦の交換。午後は城下の警備と斥候の補助。夕方からまた稽古。
体が悲鳴を上げた。十七歳の体とはいえ、以前の光義よりずっと激しい稽古だ。腕が痛い。肩が張る。夜は倒れるように眠った。
(商社マンの残業より、体がつらい。でも不思議と嫌じゃない)
弓を引くことが純粋に好きだったのは、康介も光義も同じだった。痛みの中でも、矢が的に吸い込まれる瞬間の感触が、次の日の稽古への原動力になった。
一月後、道三に呼ばれた。
「慣れたか」
「おかげさまで」
「松は扱いにくくなかったか」
「最初だけです。実力を示せば、あの方は素直に認めてくださいます」
道三はそれを聞いて、小さく笑った。
「お前は面白い物の見方をするな。普通の若者なら、あいつは怖いとか、生意気とか、そういうことを言う」
(人を評価するのに、感情より機能で見る癖があるんです。商社マンの習性で)
「松は弓衆として優秀です。そういう人の指示に従うのは当然かと」
道三は扇を開き、顎に当てた。何かを考えている顔だった。
「ひとつ聞くが——お前は何がしたいんじゃ」
(何がしたい……か)
光義は少し考えた。
「弓で、役に立ちたいと思っています」
「誰の役に」
「道三様の。そして——この国の人たちの役に」
道三はしばらく光義を見ていた。それから静かに扇を閉じた。
「よかろう。精進せよ」
(この人と一緒にいると、なんか背筋が伸びる。変な感じだけど、嫌じゃない)
光義は頭を下げた。廊下に出ると、春の風が吹いた。
(続く)




