第28話 長良川——前夜と、開戦
弘治二年(一五五六年)四月。長良川の戦いが始まろうとしていた。
道三の軍勢は二千ほど。対する義龍の軍勢は一万を超えている。誰の目にも、勝敗は明らかだった。数の差だけではない。重臣の多くが義龍についた今、道三軍の指揮系統は薄い。精鋭は残っているが、数が少なかった。
それでも道三は戦う。
(この人が逃げないことは、もう分かってた)
雲八は夜明け前から稽古場に立っていた。月が出ていた。百歩先の的が、月明かりでぼんやりと見えた。矢を番える。引き分ける。止める。放つ。的に当たる音がした。それを繰り返した。何かを確かめるように。何かを刻み込むように。
松が来た。
「眠れなかったのか」
「そうでもないです。ただ、引きたかった」
松は隣に並んで、弓を構えた。引き分ける。放つ。的に当たった。二人でしばらく、黙って矢を射た。言葉は必要なかった。
夜が白んできた頃、松が言った。「大将」。
「なんですか」
「道三様は、俺が弓衆に入った頃から世話になった方だ。負ける戦だが、後悔はない」
「俺も同じです」と雲八は言った。「ただし、死ぬな。道三様が最後に言ってくれた——『長生きせよ』——その言葉を守る」
松は短く頷いた。夜明けとともに、弓衆は戦場へ向かった。
長良川の戦場は、河川沿いの平地だった。
四月の川は水量が多く、冷たい霧が川面から立ち上っていた。対岸に義龍軍の旗が並んでいる。その数を見た瞬間、雲八の胃が重くなった。
(五倍以上か。どう見ても勝てない)
弓衆は右翼の高台に陣を張った。雲八は弓衆に言った。「無駄に射るな。必ず当たる距離まで待て。焦りで矢を無駄にするな。そして、退けと言ったら即座に退け」
対岸で法螺貝が鳴った。戦が始まった。
最初の一時間は、道三軍が善戦した。道三直属の精兵が義龍軍の中央に当たり、一時は押し返す場面もあった。弓衆は高台から義龍軍の左翼に射撃を続けた。高台からの射撃は角度がつくため、盾の上から矢が降ってくる。義龍軍の左翼の動きが止まった。
「よし、続けろ」
雲八は矢を番えた。正確に、丁寧に、無駄なく射る。一本一本を確実に当てる。それが弓衆の仕事だ。感情を外に置いて、技術だけで矢を放つ。
しかし午後になって、流れが変わった。
義龍軍の別働隊が、道三軍の背後に回り込んできた。二手に分かれた軍勢に前後から挟まれ、道三軍の陣が崩れ始めた。中央が乱れ、右翼が後退した。
「高台を離れるぞ!」と松が叫んだ。
弓衆が移動を始める。しかし退路が塞がれつつあった。義龍軍の一部が、弓衆のいた高台へ向かってきている。
「あの山道を抜けろ!」
松が示した方向は、細い山道だった。馬では難しい。歩いて逃げるしかない。
「辰之助、新八、弓衆を連れて先に行け。俺が追撃を止める」
「大島様!」と辰之助が叫んだ。
「行け。これは命令だ」
辰之助は一瞬躊躇したが、新八の腕を掴んで走り出した。新八が振り返りながら叫んだ。「必ず来てください!」
雲八は弓を構えた。追撃してくる騎馬の先頭——大将格を狙う。距離、百三十歩。
(少し遠い。でも、やれる)
引き分ける。風を読む。放つ。先頭の騎馬の馬が倒れた。後続が乱れた。その隙に弓衆は山道の入り口まで逃げ切った。
雲八は走った。山道を駆け上がる。追撃の声が背後から聞こえる。足が痛い。肺が苦しい。それでも足を止めなかった。
(生きろ。道三様が長生きしろと言ってくれた。だから生きる)
山道を半分ほど上がったところで、辰之助が戻ってきた。手を伸ばしている。雲八はその手を掴み、一気に引き上げてもらった。
「遅い」と辰之助は言った。怒っている顔だった。
「すまない」
「怒っているんじゃないです」辰之助は走りながら言った。「怖かっただけです」
二人は山道を走り続けた。
(続く)




