第27話 最後の酒
弘治二年(一五五六年)の春、道三が義龍との決裂を公にした。
義龍に対して「義龍は長井家の子であり、斎藤の子ではない」という宣言をしたとも、義龍側から先に攻撃があったともいう。いずれにせよ、美濃は二つに割れた。重臣の大半は義龍に従い、道三についたのは一握りだった。
(来た。ついに来てしまった)
雲八はその日の朝から、何かが胃の奥に溜まっていく感覚があった。前の人生でも経験したことのある感覚——どうにもならないことが、どうにもならない速度で進んでいく、あの感覚だ。しかし今回は、その先に「誰かの死」があることを知っている分、よりきつかった。
道三の元へ上がった。
道三は意外にも、穏やかだった。興奮した様子もなく、怒っている様子もない。縁側に座って、いつものように茶を飲んでいた。城下の音が届いてくる。市の声、馬の音、人の気配。普段通りの音だ。しかしその音が、今日は少し遠く聞こえた。
「来たか、雲八」
「はい。弓衆、全員で馳せ参じます」
「……そうか」
道三はしばらく茶を飲んでいた。それからふと言った。「一杯飲まないか。酒を」。
昼間から酒を飲む道三を見たのは、初めてだった。断る理由はなかった。
縁側に並んで座り、二人で杯を傾けた。城下が見える。長良川も見える。春の光の中で、美濃の景色は穏やかだった。
「雲八、お前と出会ってから何年になるか」
「三十年ほどになります」
「そうか。早いものじゃな」
道三は杯を眺めた。
「お前は変な奴じゃったな。最初から」
「そうでしたか」
「ああ。十七の若者が、わしに向かって『道三様の弓になります』などと言う。普通はそんなことは言わん。だからこそ、面白いと思った。面白い奴だと思ったから、三十年そばに置いた」
(あの頃か。遠い記憶だ)
「私はあの頃から、道三様のそばにいることが楽しかったです」
「楽しかった、か。わしもじゃ」
道三は少し笑った。
「雲八、聞いていいか」
「はい」
「お前は——この戦の結末を、知っているのか」
雲八は一瞬止まった。
(この人は、やっぱり気づいていた)
「……知っている、という言い方はできません」
「では、予感があるか」
「……あります」
「悪い予感か」
「はい」
道三は静かに頷いた。咎めるでも、驚くでもなかった。
「そうか。まあ、そうじゃろうな」
それだけ言って、また酒を飲んだ。
「道三様、逃げることはできませんか。今ならまだ——」
「できん」
「なぜですか」
「逃げた後の儂に、何が残る。儂は美濃の蝮じゃ。美濃に根を張って、美濃で終わる。それだけじゃ」
雲八は言葉を失った。
道三はもう一度だけ笑った。今度は、とても穏やかな笑いだった。
「お前が来てくれたことで、わしの人生は少し面白くなった。それで十分じゃ」
「……道三様」
「泣くな。お前が泣いたら、わしが恥ずかしい」
(泣くもんか。でも、きつい)
「必ず、弓衆を守ります」
「お前のことじゃから、やるじゃろう」道三は立ち上がった。「さあ、戦の支度をせい。泣いてる暇はないぞ」
雲八も立ち上がった。一礼して、廊下を歩き出した。
背後から道三の声がした。「雲八」。
「はい」
「長生きせよ」
振り返らなかった。振り返ったら、こらえられない気がした。
「——はい」と答えて、廊下の先へ歩いた。春の光が差し込んでいた。
(続く)




