第26話 嵐の足音
弘治元年(一五五五年)の秋。雲八は四十七歳だった。
義龍が動き始めた、という噂が城下に流れ始めた。
表向きは静かだ。義龍は相変わらず道三に礼を尽くしている。だが雲八の目には、その礼儀が以前と変わって見えた。以前の義龍の礼儀は「父への複雑な感情を抑えた上での礼儀」だった。今の義龍の礼儀は「決意した後の、形式だけの礼儀」に見えた。目が、別の場所を見ている。
(義龍様は、もう決めている)
それを確信したのは、ある軍議の席だった。
美濃の国境防衛の話をしていた最中に、義龍が言った。「美濃の守りは父上にお任せするより、若い者が担った方がよいかもしれません」。穏やかな言い方だったが、その場にいた全員が空気の変化を感じた。道三だけが、いつも通りの顔をしていた。
軍議の後、松が雲八に小声で言った。「来年か、再来年か」。雲八は頷いた。
弓衆の中でも、動揺が広がっていた。道三側につくか、義龍側につくか——明言する者はいなかったが、それぞれが自分の選択を考えていることが雲八には分かった。
雲八は弓衆を集め、言った。
「今から言うことは、命令ではない。私の考えだ」
全員の目が集まった。
「弓衆は道三様の弓衆として作られた。道三様が私に名前を与えてくださり、この組を任せてくださった。その恩を、私は忘れない。もし事が起きれば、私は道三様の側につく。だが——それを全員に強いるつもりはない。各自が自分の家族と立場を考えて、選択していい」
沈黙。
松が言った。「私は大将についていきます」。
仁助が言った。「私も」。
辰之助が言った。「当たり前です」。少し怒っているようにも見えた。
新八が言った。「大将が道三様の側なら、俺もそっちです」。
(全員か……ありがたい。そして、申し訳ない)
「ありがとう」と雲八は言った。「ただし、命を粗末にするな。生き延びることを優先しろ。弓衆は戦場に立つ必要はない。矢を射る立場でいろ」
新八が「矢を射ることが俺たちの仕事ですから」と言った。
(そうだ。それだけでいい)
その夜、雲八はお玲に「もし戦になったら、一時的に関の実家に戻っておいてほしい」と言った。
お玲は少し考えてから、頷いた。「分かりました。でも、終わったら必ず帰ってきてください」
「帰る」
「必ずですよ」
「必ず帰る」
お玲は雲八の顔を少し見ていた。それから「信じています」と言った。
雲八は翌朝も稽古場に立った。百歩先の的を、迷いなく射た。
(続く)




