第24話 義龍の影
天文二十三年(一五五四年)。雲八は四十六歳になっていた。
美濃の空気が、少しずつ変わり始めていた。
表向きは変化がない。道三の支配は続いており、斎藤軍は美濃の国境を守り、城下は賑わっている。しかし雲八には分かっていた。この変化が何かを、歴史を知っている自分には分かってしまう。
義龍を中心とした派閥が、確実に大きくなっている。
道三の重臣のうち、いくつかの家が義龍の側に傾き始めていた。小言を言えば「あのような者の言うことを聞く必要はない」と言う者が増えた——「あのような者」とは道三のことだ。直接言わないが、義龍の前では道三への批判が許容される雰囲気がある。
雲八は松と二人で話した。
「松さんは、どう見ていますか」
「……割れる、と思う」
「義龍様の側に行く重臣が多いですか」
「半分は超えている。正直に言えば」
松は珍しく、苦い顔をしていた。この人は普段、感情をあまり表に出さない。その松が苦い顔をしているということは、内心ではもっと深刻に考えているはずだ。
「道三様は……知っておられますか」
「知っておられると思う。知らないような方ではない」
(やっぱりそうか。道三様は全部見えている。その上で、動かない)
雲八には、道三が動かない理由が少し分かる気がした。義龍は自分の息子だ。戦で戦えば、どちらかが死ぬ。それを避けようとして、道三は手を打てずにいるのだ。それとも——もう手遅れだと分かっていて、受け入れているのか。
(どちらにせよ、残酷な話だ)
雲八は道三に進言することを考えた。「逃げてください」と言えば聞いてもらえるだろうか。いや、この人は逃げない。それは知っている。では何を言えるのか。
「義龍様と、最後に一度だけ話す機会を作るよう、道三様にお願いしてみる」
「……聞いてもらえますかね」と松が言った。
「分からない。でも言わずにいれば、後で後悔する」
その夜、雲八はお玲に話した。詳細は話せないから、ぼかした言い方で。
「大事な人が、悪い方向に向かっているのを知っていても止められないとき、どうすれば良いと思いますか」
お玲はしばらく考えてから答えた。
「止めようとすること自体は、やめなくていいと思います。でも、止められなかったときのことも、同時に考えておく方がいいかもしれません」
「止められなかった後のことを?」
「はい。大事な人が傷ついた後で、あなたがそばにいられるかどうか。それも大事なことではないですか」
(……お玲は、深いところを見る)
「止めることと、止められなかった後のことを、同時に考えるのは難しい気がします」
「難しいですね。でも、あなたならできると思います」
「なぜそう思うんですか」
「あなたは、二つのことを同時に考えるのが上手い人だと思っているので」
雲八は少し黙った。「……ありがとうございます」
お玲は「お茶、もう一杯いれましょうか」と言って立ち上がった。さらりとしていた。それがこの人の良さだ、と雲八は思った。深いことを言って、でも重くならない。
その夜は、久しぶりによく眠れた。
(続く)




