第23話 国境の小競り合い
天文二十二年(一五五三年)の秋。雲八は四十五歳だった。
美濃の北部国境で、越前・朝倉氏との小競り合いが続いていた。
大規模な合戦ではない。国境の山間に朝倉の斥候が出没し、美濃側の村を荒らすという事態が断続的に起きていた。馬が盗まれ、畑が踏み荒らされ、夜中に空き家に火をつけられた。どれも小さな嫌がらせだが、繰り返されると村の士気が落ちる。道三は弓衆を国境の砦に送り込み、斥候の動きを牽制するよう命じた。
「雲八、二十人連れて北の砦へ行け。一月ほど詰めてくれ」
「承知しました」
新八が「私も行きます」と言った。入って半年の新八だったが、すでに弓衆の即戦力になっていた。引き分けの精度が上がり、的中率が七割を超えていた。成長が速い。
「お前はまだ訓練中だ」
「訓練の続きは、本物の現場でできます」
「松さんはどう思いますか」
松は腕を組んで少し考えた。「連れて行っていいと思います。ただし、大将の傍から離れるな、と条件をつけて」
「分かりました。では来い、新八。ただし独断行動は禁止だ」
「はい」新八はきびきびと頷いた。
北の砦は、山間の狭い土地に建てられた粗末な構えだった。木の柵と土壁だけの、急ごしらえに近い代物だ。周囲は杉と松の森に囲まれ、視界が悪い。まさに弓が活きる地形だ。
砦に着いて三日目の早朝、斥候の一団が現れた。
猟師に扮した五人組が山道を歩いてきた。しかし動き方が猟師ではない。足音を殺している。視線が一点に集中している。農民や猟師ではない、訓練された動きだ。
「斥候です」と新八が小声で言った。「腰に何か刃物を隠しています。腰の重心が一般人と違う」
(新八、よく見ている)
雲八は弓衆に手で指示した。展開しろ。弓を構えろ。ただし、まだ射るな。二十人が山道の左右の木陰に静かに散った。
一団が砦の手前三十歩まで来たとき、雲八は声を上げた。
「そこで止まれ。弓衆二十人が構えている。動くな」
一団が止まった。迷いが出た。逃げるか、戦うか。その迷いが体に出ている。雲八は続けた。
「お前たちが何者かは分かっている。ここで余計なことをすれば、矢が飛ぶ。越前に帰れ。この砦には今後近づくな。以上だ」
一団は短い沈黙の後、引き返した。
新八が「射らなくて良かったんですか」と聞いた。
「射る必要がなければ射らない。道三様が言っていた——戦は最後の手段だ、と。斥候を追い返すだけなら、弓を見せれば十分だ。射れば死者が出る。死者が出れば、向こうも本気で仕返しを考える」
「でも、また来るかもしれません」
「来たら、また追い返す。それを繰り返せば、来なくなる」
「なぜ来なくなるんですか」
「斥候を送り込む側も、代償を考えている。何度試みても成果がなく、逆に損失が出るなら、やめる。商売と同じだ。採算が取れない商いは続けない」
新八はしばらく考えた。「大島様の話は、弓の技術だけじゃないですね」
「全部、繋がっているんだ」
一月の砦詰めの間に、斥候は三度現れた。
二度目は七人組だった。一度目より人数が多い。しかし弓衆二十人が展開した瞬間に足が止まり、やはり引き返した。
三度目は夜だった。
月のない夜で、視界が悪かった。物音で存在に気づいた。砦の柵に近づく足音が三人分。雲八は弓衆を二手に分けて、柵の内側と外側に展開させた。弦を引き絞った音が、静かな夜に低く響いた。
「来るなら来い。来てから考える」
新八が暗闇の中で囁いた。「大島様、方向は分かりますか」。
「音を聞け。人間の息遣いは、静かな夜なら聞こえる」
新八は耳を澄ませた。しばらくして「あの方向です」と小声で言い、北東を指した。
雲八も同じ方向を感じていた。正しい。
雲八は大声で言った。「聞こえているか。今夜は月がないが、俺たちには聞こえている。お前たちの位置も、人数も分かっている。来るなら来い。ただし、来れば矢が飛ぶ。それでも来るかどうかは、自分で決めろ」
長い沈黙があった。
足音が遠ざかった。三人が引き返した。
新八が「声だけで追い返した」と呟いた。
「夜の戦いは、音と心理が武器になる」と雲八は言った。「姿が見えない相手は怖い。その怖さを利用する。ただし、これが通じるのは、俺たちに本物の実力があるからだ。実力のない脅しは、すぐに見抜かれる」
砦詰めの最後の夜、焚き火を囲みながら新八が言った。「ここに来て、弓が戦場でどう使われるかが少し分かりました」
「どう分かった」
「弓は射ることが目的じゃない。射るかもしれないという圧力を使うことが、大きな目的のひとつだと分かりました。そして、その圧力が本物かどうかは、実力が裏付けているかどうかで決まる」
(新八、一月でそこまで理解したか)
「正しい。その理解は、矢を千本射ることより価値がある場合がある」
「では、矢を千本射る必要はないですか」
「ある。圧力が本物かどうかは、実力が裏付けているかどうかで決まる。だから毎日引く。それが順番だ」
新八は「分かりました」と言った。翌朝から、また稽古を再開した。
(続く)




