第2話 この体の使い方
屋敷に戻ると、父が縁側で待っていた。
大島重長。大島家の当主で、関の郷に根を張る中規模の武士だ。頑固で口数が少なく、弓を何より重んじる人物だった。康介の記憶にある父の印象は「怖い」の一言で、幼い頃から失敗するたびに無言で見つめられ、その沈黙が叱責よりもきつかったという。
「遅かったな」
「申し訳ありません。少し遠くの木を的にして、的中を確かめておりました」
重長の眉が動いた。
「遠くの木、とは」
「百歩ほど先の、杉の幹です」
沈黙。重長は息子の顔を、じっと見た。何かを確かめるような目だった。
(値踏みされてる。この人、昔からこうだったのか)
「……明日、見せてみろ」
それだけ言って、重長は屋敷の中へ戻っていった。
翌朝、稽古場に連れられた。大島家の稽古場は屋敷の裏手にあり、最長でも五十歩ほどの距離に的が設置されていた。兄ふたりもいた。長兄の又兵衛は二十歳で、真面目な顔をして腕を組んでいる。次兄の才蔵は十八歳で、にやにやしながら「光義、張り切るなよ」と小声で言った。
(次兄、陽気な人だな)
光義は弓を受け取り、的の前に立った。
まず体の状態を確かめる。十五歳の体は細く、筋肉量は少ない。だが骨格はしっかりしている。引き分けの力は弱いが、それを補う「型の正確さ」で的中率を上げるしかない。
現代弓道の「正面打起し」という射法がある。弓を正面に持ち上げてから引き分ける方法で、矢の軌道が安定しやすい。この時代の弓引きはほとんどが斜め方向に打ち起こす「斜面打起し」を使っているが、正面の方が引き分け時のブレが少ない。
(試してみよう)
弓を構えた。正面に持ち上げ、両腕を開くように引き分ける。息を止める。照準——放つ。
的の中心を射抜いた。
「もう一本」と重長が言った。
もう一本。また中心だった。
「五本、続けて放て」
五本、すべて的の中心付近に集まった。最後の一本は的の芯から指二本分もずれなかった。
重長は長い間、何も言わなかった。息子の射を見つめ、的を見つめ、また息子の顔を見た。
「……射法が変わった」
「少し工夫してみました」
「どこで教わった」
「自分で考えました」
また沈黙。才蔵が「すごいじゃないか光義」と小声で言ったが、重長の一瞥で黙った。
「今日からその射法を、お前だけの基本とせよ。変えるな。磨け」
それだけ言って、重長は歩き去った。
(口数の少ない父親だな……でも、認めてくれた。それで十分だ)
稽古場に一人残った光義は、もう一度弓を構えた。
頭の中には改良案がいくつも浮かんでいた。まず矢羽根だ。この時代の矢羽根は整形が粗く、回転が安定していない。もう少し羽根を薄く削って角度を調整すれば、矢の直進性が上がるはずだ。それから弦の素材。今使っているのは麻をより合わせたものだが、撚り方を均一にすれば弦のブレが減る。
(やることは多い。でも時間はある——九十三歳まで、な)
矢を番えながら、光義は苦笑した。
九十三歳まで生きる予定の人間が、十五歳で焦る必要はない。ただし、ひとつだけ急がなければならないことがある。
このころ美濃を治めているのは、斎藤道三だ。
元は油商人から成り上がったという前代未聞の奸雄。史書には「美濃の蝮」と記され、謀略と戦略で美濃を手中に収めた人物だ。その道三が大島家に接触してくるのは、そう遠い話ではないはずだった。
(道三様か……俺の知識では、あなたは三十三年後に息子に殺されます。長良川の戦いで)
どうにもならないことを考えても仕方ない。
今は弓を引く。それだけだ。
風が稽古場を横切り、的が微かに揺れた。それでも矢は、まっすぐ飛んだ。




