第19話 平和な日々と、四十二歳の悩み
天文十九年(一五五〇年)。大島雲八は四十二歳だった。
見た目は三十代前半だ。肌にはりがある。体の動きが軽い。鏡——といってもこの時代は鏡の質が悪く、川面や金盥に映る程度だが——を覗くたびに、転生特典のありがたさを実感する。同年代の武将たちはすでに白髪が混じり、腰が曲がり始めている者もいる。それに対して雲八の髪は黒々とし、稽古場では二十代の若者と同じように動けた。
(体が若いのはいい。でも、一個だけ困ったことがある)
弓衆の仲間たちが、縁談を持ってくるのだ。
松が「そろそろ所帯を持たんと」と言う。仁助が「大将に跡継ぎがいないのは困る」と言う。辰之助などは「大島様が結婚しないなら自分もしない」などと言い出して、周囲を困惑させていた。本人は大真面目な顔をしているから、なお厄介だった。
問題は、雲八が結婚を避けていたわけでは決してない、ということだ。
前の人生——三島康介として生きた四十三年の記憶の中に、一度の結婚と、うまくいかなかった末の離婚がある。離婚そのものが嫌で避けていたわけでもなかった。問題は、この時代で「一緒に歩んでいける相手」とはどういう人物なのか、具体的なイメージが掴めないままでいた、ただそれだけだった。
(前の人生では、仕事に逃げた。残業を重ねて、妻との時間を削って、それが積み重なって二人の間に隙間ができた。それが離婚の本質だったと、今なら分かる。でもあのとき、俺は気づかなかった。気づいたのは、終わった後だ)
戦国時代の女性の生き方は、現代とはまるで違う。政略結婚が当たり前で、夫が戦で死ぬことも珍しくない。そういう時代に「一緒に歩んでいける人」を探すとはどういうことか、雲八には今ひとつ掴めていなかった。
「大将、難しい顔をして何を考えておるんですか」
稽古場の隅で矢の整備をしていた辰之助が、顔を上げた。いつの間にか三十歳を超えた辰之助は、弓衆の中核として欠かせない存在になっていた。射の腕は師匠には及ばないが、部下への指導は雲八より上手いくらいだ。
「縁談のことを考えていた」
「ついに?」
「ついに、というほどのことでもないが」
「でも考えてるんですよね」辰之助はにやにやした。「どんな方がいいとかありますか」
「……強いて言えば、俺の変な言動を笑って受け入れてくれる人がいい」
「変な言動って?」
「自分でも説明しにくいんだが、俺はたまに、この時代の常識からずれた話し方をすることがある。それを怖がらず、面白がってくれる人がいい」
辰之助はしばらく考えた。腕組みをして、本当に真剣に考えている。
「……それ、関の商家の娘さんじゃないですかね」
「どういう理由で」
「商家の人は、いろんな人と話すから、変わった人にも慣れています。それに、頭の回転が早い。大島様の話についていける人が商家には多い気がします」
(辰之助、なんか妙に鋭いな)
「……少し、考えてみる」
辰之助はまたにやにやした。「頑張ってください」
その夜、雲八は久しぶりに道三のもとへ報告に上がった帰り、城下の市を歩いた。この時代の夕暮れの市は賑やかで、野菜を売る農民、布を広げる商人、子供を連れた女性たちが行き交っている。炭火で焼かれる魚の匂いが漂い、子供の笑い声が路地から聞こえてくる。
(生きてる、って感じがする場所だな。道三様が「飢えない国を作りたい」と言っていた。こういう景色が続くことが、その答えだろう)
関の郷への帰り道を変えて、少し遠回りをした。理由は自分でも分からなかった。ただなんとなく、その夜は急ぎたくなかった。長良川沿いの道を選んで、川の音を聞きながらゆっくりと歩いた。
辰之助の言葉が、頭のどこかにひっかかっていた。
(続く)




