第18話 百歩先の景色
翌朝、雲八は一人で稽古場に立った。
夜明け前の空はまだ紺色で、東の山の端がようやく白み始めていた。地面に霜が降りており、草の葉が白く輝いている。吐く息が白い。
弓を手に取った。
いつもより少し重く感じた。気のせいかもしれない。あるいは昨夜の酒が残っているのかもしれない。
(まあいい。引いてみれば分かる)
構えた。的は百歩先。夜明け前の薄い光の中に、的の輪郭が見える。
息を吸う。引き分ける。止める。
風が吹いた。頬に当たる冷気。草の揺れる音。遠くで鳥が鳴いた。
——放つ。
矢は飛んだ。暗い空を切り、百歩先に消えた。
的に当たった音がした。
(……うん。今日も、射れた)
それだけで十分だった。
次の矢を番えながら、雲八は思った。
(俺が史実通りに生きるなら、これからどんなことが起きるか分かっている。道三様の死、信長との出会い、本能寺の変、関ヶ原——全部、頭に入っている)
だから何だ、とも思う。
知っているからといって、どうにでもなるわけではない。変えられないことは変えられない。でも、その中でどう動くかは、自分で決められる。
(歴史は変えられない。でも、俺の選択は変えられる)
それが転生者として唯一できることだと、雲八は思っていた。
二本目を放った。また的に当たった。
三本目。四本目。五本目——すべて的の中心付近に集まった。
夜が明けてきた。空が群青から、薄い橙へと変わっていく。稽古場の向こうの山が、その稜線を鮮明にしていく。
「……大島様」
後ろから声がした。辰之助だった。まだ眠そうな目で、弓を持って立っている。
「早いな」
「大島様より早く来ようと思ったのですが」
「起きた時間は負けていたか」
「はい」辰之助は苦笑した。「大島様は何時に起きているんですか」
「夜明け前には稽古場にいる」
「……化け物ですね」
(化け物はあと五十年以上言われ続けることになるんだが、まあいいか)
「お前も来い。一緒に引こう」
「はい!」
二人で弓を引いた。朝の空気の中で、矢が飛ぶ。辰之助の矢はまだ散らばることがあるが、以前より格段に安定してきた。
「辰之助」
「はい」
「弓を引くのは好きか」
「大好きです」
「では、ずっと引け。どんな時代でも、どんな場所でも」
辰之助は真面目な顔で頷いた。「はい」
日が昇りきった頃、稽古場に松が来た。続いて仁助も来た。弓衆が集まり始めた。
いつもの朝が始まる。
(道三様がいて、才蔵兄上がいて、松さんがいて、辰之助がいて——俺はここに生きている)
大島雲八は弓を構えた。
百歩先に、的がある。
それだけで十分だった。
(続く)




