第14話 百歩の矢
信秀軍の反撃は素早かった。
中央を突破された斎藤軍の左翼が崩れ、弓衆のいる丘の方向に敵の騎馬隊が向かってきた。
「退くぞ!」と松が叫んだ。
弓衆が移動を始めた。しかし辰之助が足を滑らせて倒れた。斜面の土が雨で緩んでいた。
「辰之助!」
光義は走った。辰之助を引き起こし、肩を貸す。しかし斜面を下りるより、騎馬が早い。
(まずい。追いつかれる)
振り返ると、騎馬隊の先頭——一騎の大将格が真っすぐこちらに向かってきた。旗指物に信秀家の紋が見える。速い。このまま逃げ切れない。
光義は立ち止まった。
辰之助に言った。「お前は逃げろ。俺が時間を稼ぐ」
「でも——」
「行け!」
辰之助が走り出した。光義は向き直り、弓を構えた。
騎馬が近づいてくる。距離、百歩——いや、もう少し遠い。百二十歩か。
(百歩穿貫。俺の特典は百歩まで必中だ。百二十歩はどうだ?)
迷いは一瞬だった。引き分ける。風を読む。騎馬の速度を計算する。先読みして、少し前を狙う。
放った。
矢は放物線を描いた。
大将格の騎馬の馬に当たった。馬が棹立ちになり、大将が落馬した。
後続の騎馬が混乱した。先頭が倒れ、後ろが詰まる。四、五騎が絡み合い、速度が落ちた。
その隙に光義は走った。斜面を下り、仲間に合流した。
その夜、戦の後の野営地で、道三が弓衆を呼んだ。
「今日の戦で、信秀の騎馬隊の頭を射落とした者がいると聞く。誰じゃ」
松が光義を示した。
道三は光義を見た。
「何歩の距離じゃった」
「……百二十歩ほどかと」
弓衆がざわついた。百二十歩という距離が、この時代の弓の常識をどれほど超えているかを、全員が知っていた。
道三は静かに言った。
「百歩穿貫とは——百歩先を射抜くという意味の言葉じゃ。お前の弓は、今日それを超えた」
光義は黙って頭を下げた。
「今日より、お前を弓衆の大将とする。松、異存はないな」
松は無言で頭を下げた。その目が、承認の光を持っていた。
「そして——」
道三が続けた。
「今日より、お前の名は雲八とせよ。雲の彼方から矢を放ち、誰も届かぬ場所から射抜く。それがお前の弓じゃ」
大島雲八。
光義は顔を上げた。道三の顔を見た。この人が、俺にその名を与えてくれた。
(……ありがとう、道三様)
喉の奥が熱くなったが、こらえた。武将の前で泣くわけにはいかない。
「ありがたき御名、謹んでお受けします」
声が少し、かすれた。
(続く)




