第12話 弓と剣と、それぞれの道
三十歳を過ぎた頃から、光義の名は美濃の中で少しずつ広まっていた。
「大島の弓使い」「道三様の百歩の矢」——そういう呼ばれ方をするようになっていた。本人はあまり好きではなかったが、止める手段もない。
(名が広まるのは、諸刃の剣だ。敵に目をつけられるリスクもある)
その頃、弓衆に新しい若者が加わった。十六歳の少年で、名を辰之助といった。農民の出だが弓の才能が光るとして、道三が直接連れてきた。
「こいつの面倒を見てやれ」と道三は言った。
(師匠役か。やったことないな)
辰之助は背が高く、目が鋭く、何より「弓が好き」という気持ちが全身から滲み出ていた。初日に稽古場で矢を引かせると、フォームはひどいが矢の飛び方が独特だった。力の使い方が効率的で、体の素直さがある。
「お前、弓はいつから」
「三つの頃から、竹を削って遊んでおりました」
「正式に習ったことは?」
「ありません」
(独学か。変な癖がついていないのはいい。一から型を作れる)
「では一から教える。まず型からだ」
「はい!」
返事がいい。それだけで、この少年の伸びしろが分かった。
辰之助の指導は、思いのほか楽しかった。
自分がかつて(前世で)苦労して学んだことを整理して伝える作業は、自分の理解を深めることにもなる。「なぜこう引くのか」を言葉にすることで、自分自身の型がより明確になった。
(教えることは、学ぶことだ。これは現代でも戦国でも変わらない)
辰之助の上達は早かった。三月で基本の型を習得し、六月で的中率が安定してきた。松が「素直でいい奴だな」と言い、仁助が「先生に似てきた」と言った。
(仁助さん、まだ先生と呼ぶのか……)
指導しながら光義が気づいたのは、弓の技術の「言語化」の重要さだ。
この時代、師から弟子への技術の伝承は「見て覚えろ」が基本だ。言葉での説明が少ない。その結果、師匠の癖も一緒に伝わってしまうことが多い。
(型を言語化すれば、より多くの人に正確に伝えられる。それが技術の標準化だ)
光義は少しずつ、弓の射法を言葉で書き記し始めた。図も描いた。それが後に「弓の手引き書」になるとは、この時点では思っていなかったが。
その夜、光義は久しぶりに空を見上げた。
三十を過ぎた。転生してから十五年が経つ。
(大島光義として生きている時間が、三島康介として生きた時間の三分の一を超えた)
どちらの記憶も、今は等しく「自分のもの」だった。
(続く)




