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五章 真っ新な婚姻

 風の城に、変化が起こっていた。

「「ただいまー」」

リティルとインジュは応接間に飛び込んで来るなり、我先にとソファーまで飛んできた。

「おかえりなさい」「おかえりなさいまし」

ソファーに座る、2人の女性の姿を認めると、2人は同時に、デレデレとした笑顔を浮かべた。そして、人目もはばからずにそれぞれの妃に抱きついていく。

「何を見せられているのか?」

そう言いながら、ジュールはどこか嬉しそうだった。

「通常運転なので、無視してください。父さん、インジュ、そのままでいいので報告お願いします」

妃にベタベタする父と息子の様子にも、インファは顔色1つ変えない。だが、妃達は違うようで、シェラは微笑んだままリティルを無慈悲に引き離し、リャリスはグイッとインジュの顎を手で優しく、しかし手加減無しに突き上げた。

「仕事、してくださいまし」

もういいですわよね?と言わんばかりに立ち上がったリャリスの手を、インジュは掴んだ。

「わかりましたよぉ。リャリス、あとでアトリエ行きますよぉ?」

リャリスは一瞬答えに詰まったが、すぐに妖艶に微笑み「待っていますわ」と言ってそそくさと自室へ行ってしまった。

「はう!一言一言の破壊力がっ……!」

インジュは胸を押さえて、大げさにソファーに沈んだ。

「はは、おまえ、絶好調だな。ああ、報告な!情報通り、人型の大型魔王クラスだったぜ」

どの形状でも大型魔王クラスは、風の城でも気合いを入れてかからなければならない大物だ。それを、リティルとインジュは2人でやると言い張り、ルディルが監視するということで決着がついたのだ。ルディルとは現地集合現地解散だった。彼からは、問題なしの報告を受けている。

「1ひねりです!思ったより脆いですねぇ。魔王じゃなくて、魔騎士に降格でいいと思いますよぉ?ラスがあれの気配を捉えそこなったって、実際に戦ってみたかぎりじゃ信じられないですねぇ」

「脆いのはたぶん、オレが遭遇したヤツも同じだと思うぜ?リャリスの魔法でタコ殴りだったからな。ただ、弱くなったような気がするんだよな。大きさも縮んでるしな」

「門が閉じかかってるんじゃないんです?放っておいても閉じちゃうんですよねぇ?」

「らしいよな?門ってヤツをオレは感知できねーからな。ノインは?」

「フロインと門捜索です。目星はついているようなので、時間の問題ですかね」

「あのぉ、門の捜索できるのって、ノインしかいないんです?」

「リャリスもできるぞ?……心配するな。娘は出さん」

答えたジュールは、隣のインジュの頭をグシャグシャとなで回した。「何するんですかぁ!」と怒るインジュに「殺しそうな顔をしていたぞ?」とジュールはしれっと言い放った。「えっ!」とインジュは両頬を手で覆っていた。

「ただ、困ったことがあるのだ。門というヤツは、智の精霊にしか閉じることができん。だから、いちいち殺気立つな。自然と閉じるものなら、放っておけばいいだけの話だろう?」

インジュは再び、ジュールに顔面を掴まれていた。しかし、インジュには自分がどんな顔をしているのか、自覚がなかった。

「放っておけない状態は、自然と閉じない場合と、まだまだ閉じそうにない場合。ですかね?」

「そうだな。我々はリティルを長期にわたり危険に晒すことはできん。リャリスも承知しているぞ」

ジュールにそう言い切られてしまったら、インジュには何も言えない。また、リャリスが嫌な目に遭うのを、止めることができないかもしれないと、インジュは無力に俯いた。

 彼女は覚悟していた。反魂を行うときも。覚悟しきれなかったのは、インジュの事だけだ。リティルの為に危険を冒し、そして体に戻れなくなったシェラは、夫への愛や信頼のことで悩むことはない。リティルの想いは揺らがないと疑っていないのだ。

そんな風の王夫妻が羨ましい。インファは、あれだけ信じられるのは稀だと言っていたが、彼も「たまに、羨ましく思いますよ」と父には珍しく、情けなさを滲ませて微笑んでいた。


 リャリスがボクを、信じてくれればいいのに。今、思っていることを言えたら、いいのに。言えないのは、ボクがリャリスを信じていないから、なんだろうか?

「インジュ?どうかなさいまして?」

釜をグルグルと掻き混ぜていたはずのリャリスが、不思議そうな顔で椅子に座って頬杖をついているインジュを見ていた。

「えっ!ボク、変でしたぁ?」

「変というほどのこともないのですけれど。……疲れていまして?横になっていてもいいのですのよ?」

リャリスは自然と、カーテンの方に視線を送った。それには、インジュの方が意識してしまった。別に、何をしているというわけではない。ちょっと2人で寄り添って話をしたりしているだけだ。変化といえば2人では狭かったベッドを、ちょっと、大きなベッドに入れ替えただけだ。インジュは慌てて、視線をリャリスに戻す。

「あ、えっと、何か話しかけてましたぁ?」

「霊力の交換を使わずに、相手の霊力を得る方法ですわ。知りたいのでしょう?」

「教えてくれるんです?リャリスで試したいんですけど」

「私で試すのは……やめてくださいまし」

リャリスは、努めて感情を出さないようにいているような、微妙な表情で、歯切れ悪く拒否した。

「どうしてです?」

「……知らないと言うことは、罪ですわね。理由は、お兄様か、お父様に聞いてくださいまし。それで、その方法ですけれど――」

リャリスは流れるように説明してくれた。しかし、哀しいかなインジュにはその半分も理解できず、後日、たまたま会ったジュールに聞くこととなったのだった。

 何気なく問われたジュールは、とてもとてもいい笑顔でこう言った。

「説明されても理解できんだろう?わたしがおまえを使って、実践してやろう」

「ひっ!いや、あのぉ……怖いんですけど、痛いんですかぁ?」

ジリジリと甘ったるい笑顔で近づいてくるジュールから後ずさりながら、インジュは何とか問うた。壁まで追い詰められたインジュの顔の両脇に、ジュールは手をついた。そして、瞳を細める。目をそらしたら喰われる!とインジュは蛇に睨まれた蛙状態で、瞬きも忘れていた。どうしてこんな色気全開で迫られているのか、わからない。

「痛くはないなぁ。ただなぁ、おまえ、リャリスに使おうとしているだろう?」

「え、えっと、ダメ……なんですかぁ?」

「それは……自分の身で味わってから判断しろ!」

腕を掴まれ、インジュは引きずられるようについて行かされた。

「ええええ!ああ、ちょっと!どこ連れてくんですかぁ!」

インジュは思った。リャリスが渋ることは、これからインファに聞こう!と、強く強く思ったのだった。

 しかし、霊力の交換を使わずに、相手の霊力を得るのは、その方法しかないようだった。

インジュは、どうしたモノかと思案しながら、ため息を付きながら、風の城へ戻ってきた。

大鏡を越えると、応接間にはインファが1人いた。

「お父さん?」

インファ以外誰もいないとは、今夜は皆夜が早いのだなと思った。まだ、さほど遅い時間でもなかったからだ。

「インジュ、ジュールに呼び出されていたんですか?」

「ああ、いえ……お父さんは、まだ仕事してるんです?」

インジュは、ジュールに不用意なことを言って、とんでもない目に遭わされていたとは言えずに、曖昧に言葉を濁しながら父の向かいに腰を下ろした。

インファは、書類を机いっぱいに広げていた。そして、まだ彼の手の中には数枚の書類があった。

「……例の魔物です?」

広げられた書類には、人型の大型魔王クラスのイラストと、出現場所、日時など、詳細に書かれていた。

「ええ。個体差がないか、調べているんですよ。今のところ、個体差はなさそうです。他の魔物と変わりませんね」

「ラスをやった、あれは別格だと思ってます?」

「その可能性を探っているんですが、今のところ何も出てきませんね。インジュ?疲れているのなら休みなさい」

疲れているか、疲れていないかと問われれば、疲れている。ジュールのせいだ。

「そういう疲れたじゃないんで、大丈夫です」

「そうですか?では、悩み事ですか?」

インファはすぐさま、召使い精霊のハトを呼び、机の片付けをさせはじめた。

「……リャリスを守りたいんです」

「一家も、太陽の城も、心は1つですよ?」

優しく諭すように、インファは微笑んだ。

「ボクが、守るには、リャリスの力がどうしても必要なんです」

インファは、少しだけ思案する素振りを見せ、インジュに視線を戻して来た。

「門を閉じたいと、そういうことですか?」

「はい……」

「霊力の交換ですか……。リャリスならば、あなたとする方法を、知っているでしょう?」

話し合ったのか?とインファに聞かれていることはわかった。だが、リャリスに理由を悟られたくないインジュは、言えずにいた。

「リャリスは、心身共に弱い女性ではありませんよ?」

「それでも、ボクは、門に近づいてほしくないんです」

インファは、小さくため息を付いた。

「霊力の交換を行わなくとも、相手の霊力を奪い取る方法が1つあります」

「はい……。リャリスが説明してくれたんですけど、意味がわからなくてですねぇ、それでジュールさんに……」

インファは、その方法すらリャリスに質問していないと思ったらしい。聞いていましたか。とつぶやき、インジュの顔を見た。

「理解できましたか?」

「え?あ、いえ、そのぉ……」

歯切れの悪いインジュの様子に、インファは首を傾げた。言葉を待つようなインファの様子に、インジュはこの人、どうして言わせようするんです?と泣きそうになった。インファに、こんな嫌がらせをされたのは、初めてだった。

「た、試されたんですよぉ!」

インファは、言葉の意味がわからなかったのか、キョトンとしていた。そんな父の反応に、自分と彼が思っていることと食い違いがあることに、インジュは初めて気がついた。

「あのぉ?ちなみに、お父さんはどうやって、それ使うんです?」

「方法は1つしかないと思うんですが……ああ、なるほど、ジュールははぐらかしたんですね?」

今度はインジュが首を傾げた。

「ジュールが教えなかったことを、オレが教えるのは勇気がいりますね。意味がわかりませんか?そうですか。あの人は、風の王なんです。誰かを、不必要に危険に晒すことに多大な抵抗があるんですよ。あなたが門を閉じることは、危険を伴うと判断したんです。しかし、下手に諭してもあなたは納得しないでしょう?ということで、嫌がらせをしたわけです。どうでした?ジュールはうまかったですか?」

インファは、甘さを含まない健全な笑みを、インジュに向けてきた。だが、インジュはカッと顔が熱くなるのを感じた。

「お父さん!セクハラです!」

男同士であんな!とインジュは、言わされたことを怒っていた。だが、頷いたインファの言葉は意外だった。

「そちらできましたか。あなたが相手であっても、意外ですね。彼は根っから女性が好きだと思っていましたから」

まるで、それ以外のことがあるようなそんな言い方だった。あれをかけられれば、否応なく同じ目に遭うと思いこんでいたインジュは、その認識すら間違っていたことを突きつけられて、愕然とした。

「ええ?嘘ですよねぇ……?」

「嘘ではありませんよ。あなたが受けた嫌がらせは、その方法を用いる前に行う、検査のようなものです。あなたは、霊力強奪術の片鱗も見せてはもらっていません。おそらく、その検査も途中まででしょう。完全に掌握されていたとしたら、あのジュールが相手ですから、今頃足はおろか、腰も立ちませんよ」

ゾッとした。インジュはあれが警告だったのだと、初めて悟った。

「知りたいですか?知りたいのであれば、今ここで、伝授しますよ?」

インジュは、どうして教えてくれるというのか、理解できなかった。前に行う検査ということは、霊力強奪術なるものを使う為には、ジュールがしたことをやりきらねばならないということで、それを、リャリスにかける勇気は、今のインジュには持てそうになかった。

「オレが最後まで、かけてみましょうか?」

踏ん切りのつかないインジュに、インファはサラリと提案していた。そんな父の言葉に、インジュは驚愕した。「そちらできましたか」とインファは確かに言ったが、それ以外のことも、耐えるという意味ではあまり違わないような気がしたのだ。

「ええっ!いや、その、あのっ!」

「大丈夫ですよ?オレに触れられて、感じた人はこれまで皆無ですから」

どうしますか?とインファは選択を迫った。感じない。本当かな?とインジュは、半信半疑だった。だが、脳裏に釜を一心不乱に掻き混ぜるリャリスの後ろ姿が浮かんだ。彼女の幸せを守りたい。それが、インジュの願いだった。

「……お願いします」

「了解しました。では、ここでいいので仰向けに寝てください」

インファに促され、インジュは仰向けにソファーに寝転んだ。あれ?これも違うような。ジュールには、壁に押しつけられ、右手を捻り上げられた状態で術にかけられたのだ。

 インファはインジュの傍らに立つと、体に触れずに、右手をかざしてきた。インジュは身構えたが、あの時感じたゾワゾワ感は襲ってこなかった。それどころか、暖かい熱が撫でるように皮膚の上を移動していき、健全な癒やしを感じた。自然と力が抜ける。このままでは寝てしまいそうだ。

「お父さん、全然違うんですけど?」

「ジュールは、性感帯を刺激するようにわざと術をかけたんだと思いますよ?オレは、副官として霊力を探ることが多々あるだろうと、大昔リティルに仕込まれたんです。ですから、オレに霊力を探られて、不快感を抱く人はまずいません」

「これ、ボクの霊力を探ってるんです?」

「ええ。霊力強奪術は、外側から霊力を奪います。ですので、普段は肉体と精神に守られている霊力の流れが、表面に1番近く流れている点を探らなければならないんです」

「あのぉ、霊力の流れを探るのって、難しいです?」

「難しくはありませんよ。ただ、霊力は、肉体、精神、魂に強く結びついている力です。それを探るということは、そのすべてに触れるということです。邪な心で触れれば、相手に伝わります。この魔法は、グロウタースにも伝わっていまして、彼の世界では、霊力に似た力である魔力に干渉し、自白のための拷問に使われていますね」

「ひいい!そんな豆知識いらないです!」

あからさまに怯えるインジュを見下ろして、インファはそうですか?とどこか楽しそうに微笑んだ。

「ジュールは本当に、あなたを脅しただけなんですね。霊力に干渉された痕跡を見つけましたが、本当に表面をちょっと触っただけですよ?」

そんなに感じましたか?とインファは不思議そうだった。

「あ、あのぉ、それ以上聞かないでくださいよぉ!ボク、耐性ないんです!」

「そのようですね。ああ、見つけました。さて、抜きますよ?」

「は、い?うわっ!ちょっ!」

奪われる!そんな不安感が襲ってきた。そっとインファが額に手を置いてくれなかったら、インジュは叫んでいたと思う。

「……大丈夫ですか?」

「はい……強奪ってホントに強奪なんですねぇ……」

はあと、インジュは体を起こしながら疲れたように息を吐いた。そんなインジュに、インファは抜き取ったキラキラ輝く金色の宝石を手渡した。それをインジュが握ると、スウッと手の平に馴染むように、金色の宝石のようだったそれは消えていった。

「これを使うくらいなら、霊力の交換のほうがいいでしょう?だから精霊達は、1度限りの婚姻を結んできたんですよ」

「あのぉ、お父さんみたいに、すぐに探れるようになります?」

「オレの域に達するのは難しいでしょうね。オレのは年期が違いますし、練習相手がリティルでしたからね」

あ、とインジュは察した。実の父で仕える王を傷つけるわけにはいかないインファは、凄まじい緊張感の中で練習したのだ。その練習方法はインファの性格に合致した。おそらく、霊力を探るこの魔法で、相手に何も感じさせないことができるのは、インファだけなんだとインジュは思った。

「リャリスと話し合うことをお勧めします。ですが、霊力強奪術の構築式を、教えてあげますよ」

インファの手の平の上に、数式らしいものが金色の光で描かれて浮かんでいた。インジュはそれを見つめ、それから触れずにインファを見上げた。

「どうしてです?」

「あなたは、智の精霊の夫です。使う使わないにかかわらず、様々なことを知っていて損はありませんよ。わかりやすくいえば、今のあなたをリャリスが頼ることはないでしょう。頼るとするならば、ノインですかね?ノインなら、知識も豊富ですし、リャリスがやりたいことを察することのできる頭と、余裕がありますから」

どうします?と再度言われ、インジュは何も言わずにインファの手に手を重ねたのだった。インファが教えてくれた霊力強奪術の構築式に付属して、霊力を探る魔法の論理もあった。

「使う事がないことを祈りますが、もし、使うのならば、できるだけ相手を拘束したほうがいいですよ?暴れられると、探りにくいですからね」

それからインファは、使う事がないようにといいながらも、暴れられたら後ろからとか、抜くときは素肌に触れた方がいいとか事細かに教えてくれた。

 若干胸焼け気味のインジュが応接間を去ったのは、真夜中を過ぎた頃だった。

インファももう休もうかと腰を上げた頃、備え付けられた大鏡に映った景色が歪んだ。

「インファ、起きていたか」

顔を覗かせたのは、ジュールだった。

「何か、ありましたか?」

インファは眉根を潜ませながら、大鏡まで飛んだ。

「ああ、ノインが手傷を負わされたのだ。奥方を庇っての事故だが、少々深くてな。今夜はこっちに泊まらせる」

「フロインが感知しそこないましたか?」

「そのようだな。なに、心配はいらん。襲われたのがノインだったことで、そのからくりも解けた」

「理由がありましたか」

「ああ。聞きたいか?聞きたいだろうな。こっちへ来い」

「ええ、聞きたいですね。それと、インジュを弄んでくれたようですね?いけませんよ?息子はそういう刺激に慣れていません」

「ああ、あいつめ、くすぐったがりだな。ちょっと突いたら、こちらの方が罪悪感で大変だったぞ」

本当は霊力を抜いてやるつもりだった。だが、インジュが「やめて、ください!」と、明らかに劣情を煽られた声で叫んだためにやめたのだ。あの一言で萎えるなんて、ジュールは初めてだった。今まで散々、霊力を探ることなどやってきたというのに、インジュの叫び1つで、これ以上はダメだと思った。そんなことを思ったのは、初めてだった。

「確かに少しでしたね。なぜ何も教えなかったんですか?」

インファは不思議そうに伺ってきた。その視線が痛い。彼は責めてなどいないというのに。

「私情を挟まず教えてやることが難しかったのだ。それに、あの方法は、わたしではなくおまえの方が得意だろう?」

聞く相手が間違っている。ジュールは少し疲れたように笑った。

「苦手でしたか?」

「相手を思いやる必要など、わたしにはなかったからな」

来い、と言われ、インファはジュールと共に鏡を潜ったのだった。


 ノインが『死の魔王』と名付けられた魔物の奇襲に遭ったとインジュが聞いたのは、翌日の朝だった。

あのノインが?と思い、大鏡を越えようとすると、目の前で鏡面が歪んだ。ぶつかると身を退くと、中から出てきたのはノインだった。

「インジュ?どうした?」

「あ、いえ……あのぉ、怪我、大丈夫なんです?」

怪我?とノインは一瞬なんのことだ?と言いたげに眉根を潜めたが、ああと頷いた。

「オレも超回復能力者だ。フロインも共にいた。大丈夫だ」

涼やかに微笑んだその顔を見たとき、インジュは気を使われたと思った。だが、彼なら誰にだってああ言うだろう。それなのに、なぜ、イラッとするのだろうか。

インジュは「そうですか」と頷いてノインに道を譲った。その後ろを、波打つキラキラ輝く金色の髪に野の花を飾り、ラナンキュラスの花冠を頂いた、グラマラスな神々しい女性が続いていた。インジュと同じ、オウギワシの翼を持つ彼女は、ノインの妻である風の王の守護女神・フロインだ。普段はニコニコしている彼女だったが、今日は表情が硬い。

「ノイン、大丈夫ですの?」

ソファーにいたリャリスが、ノインに駆け寄ってくるのを、インジュは将軍夫妻の後ろから見ていた。

「ああ。だが、ただやられたわけではない。門の場所、見つけた」

心配そうにノインの腕をそっと掴んでいたリャリスは、ハッとして彼の顔を見上げた。

「見まして?」

「いや、これから調査する。リャリス、何も問題はない。おまえに隠しても、いいことはないからな」

ノインはポンポンとその大きな手で、心配顔のリャリスの頭を叩いた。そうして、フロインを伴ってソファーへ飛んでいくノインを、リャリスは見送った。ノインを心配しているその後ろ姿に、インジュは言い知れぬ疎外感を感じていた。

どうして?傷を負ったノインを、一家の皆が心配しているのに、なぜ、リャリスにだけノインを見ないでと思ってしまうのだろうか。ノインは家族なのに、インジュにも、ノインを心配している心があるのに。

 インジュは、リティルが呼ぶ声で翼を広げリャリスの頭上を越えた。そして、ノインに少し遅れてソファーに到着したのだった。

ソファーには、リティルとシェラ、インファ、そしてラスが揃っていた。

「ノイン、その門、オレは近づいちゃいけねーんだよな?」

ソファーでノインの到着を待っていたリティルは、開口一番そう問うた。やられっぱなしが性に合わないリティルは、その門に殴り込みたくてウズウズしている。だが、王として闇雲に危険に突っ込むわけにはいかない。とりあえずの自制心はあるのだった。

「ああ。門は破壊するものではない。閉じて触らないでおくモノだ。門の調査はオレがする。もし、閉じなければならない状態ならば、リャリス、できるか?」

「もちろんですわ。ノインを盾にして、私が責任を持って閉じますわよ?」

「調子が出てきたようで何よりだ。オレにとっては恐ろしい相手ではない。リティル、オレとリャリスに任せてもらおう」

「わかった。2人に任せるよ」

ノインの言葉に、リティルは決定を下した。

「あのぉ」

インジュの声に、皆の視線が集まった。

「門の調査、ボクでもいいんですよねぇ?ボクが――」

「ダメだ!おまえは手を出すな!」

有無を言わさない剣幕だった。

インジュが、そう提案したのにはわけがある。フロインの顔色が悪かったのだ。フロインは、ノインが傷つく様を目の当たりにしている。傷つきながらあれをどうやって退けたのか、インジュには「ノインはやっぱり凄いですねぇ」としか言えないが、女騎士のフロインがこれだけ思い詰めた顔をしていることに、ノインにだけ任せるのはよくないのでは?とインジュなりに気遣ったつもりだった。

「すまない……だが、これはオレがやる。話は以上だ」

「ノイン、今後のこと話したいですわ。あなた方の部屋でもよろしくって?」

立ち上がったノインに、リャリスはすかさず提案し、フロインにも聞きたいことがと、2人を連れて退散していった。

 ノインの剣幕に気圧されていたリティルは我に返ると、固まっているインジュの肩に触れた。

「おい、インジュ!大丈夫か?」

「な……」

「な?」

「何なんですかぁ!人がせっかく、気、利かしたのにぃ!なんか悔しいです!リティル!コッソリ行っちゃダメですかぁ?」

憤るインジュに、落ち着けとリティルはその肩を叩いた。

「びっくりした。でも、やられたオレからすると、ノインが警戒するのには理由があるんじゃないのか?」

宥めるラスの言葉にも、インジュは収まらない顔でソファーに背を沈めた。

「だとしても、言ってほしいですよねぇ?お父さん、門の場所、だいたい目星ついてますよねぇ?」

インジュはイシュラースの半分である、昼の国・セクルースの地図を広げて、インファを見やった。それには、インファも苦笑した。そして「目星は目星ですよ?」と言った。

「目星って、そんなものつけられるのかよ?」

「可能性ですけどね。死の魔王は、神樹の森に出没する極めて稀な魔物です」

インファはハトに持ってこさせた資料を配り、皆に出現場所にピンを打つようにと指示した。リティルとインジュ、そしてラスは言われるがまま地図に赤い球のついたピンを刺していった。

神樹の森はセクルースの中心にある。太陽の領域を北に、五角形に各領域が並び、神樹の森はその中心だ。彼の森は不可侵の森とも言われ、これまで魔物も寄りつかない静寂の森だった。だのに、死の魔王は、他の領域にも現れるが、神樹の森に多く出没していた。

「これ、円形?」

「ええ。見事に、円、ですね」

神樹の森現れた、不自然な円。大きな円の中に不規則に打たれたピンだが、その中心だけポッカリと空いている。つまり、ドーナツ状だった。

「ここだけ避けられているという不自然です。おそらく、反魂を行った広場に門があると思われます」

「オレ、行ったことあるぜ?なあ?」

リティルはインジュに同意を求めた。インジュも頷いた。

「はい。でも、何も感じませんでしたねぇ。ボクじゃ見つけられないってことです?」

「そもそも、どうしてインジュも見つけられるって話になってたんだ?」

「リャリスがそう言ったんですよ」

「見つからないように、隠されているのね?」

シェラに、インファは頷いた。

「死の魔王の奇襲に、フロインはラス同様気がつきませんでした。父さんは、気がついていましたよね?」

「ああ。なんか冷たい風を感じたんだよ。ノインもなんか感じたのかよ?」

「そのようです。そして、フロインが気がついていないと思っていませんでした」

「そこまでオレと同じなのかよ?あの時オレも、ラスがまさか、気がついてねーとは思ってなかったんだよ」

「あのときは、ごめん。あれが出現した瞬間に殺気を感じたんだけど、間に合わなかったんだ」

「そういう魔物のようですよ?父さんとノインが気がつけたのは、共に、風の王だからです」

「ノインは風の王じゃないですよぉ?」

「ええ、今は違いますが、インから風の王を引き継いできたと言っていました」

「王の風か?死を導く力だ。あれは、オレ達が知ってる死とは違うみてーだけど、死なんだってノインが言ってたんだ。オレはあいつを、感知できるってことなのか?」

「おそらく。ですが、ジュールやルディルにもある共通認識ですが、風の王は門に近づいてはいけません。父さん、今度はジュールに怒鳴られるだけではすまないので、やめてくださいね?」

「わかったよ。オレは近づかねーよ。シェラに誓ってやるよ」

「話を戻しますが、これはオレの憶測です。ノインが門を見つけたのは、奇襲されたからではないかと思います。死の魔王がこの世界に生まれ出る瞬間、門とこの世界が一時的に繋がるのでは?と。昨日、奇襲された位置はここです。ノインは見えたんでしょう」

インファは、青い球のついたピンを刺した。それは、神樹の前の広場に面して見えた。

「その瞬間だけ、隠された門が隠れなくなるってことか?ノイン、見つければこっちのものみてーな顔してたな」

「あのぉ、ノインの事なんですけど、その、大丈夫なんです?怪我とか」

「太陽の城で治療受けたとか言ってたな。けど、その時は危なかったかもしれねーけど、あいつも超回復能力持ちだし、フロインにジュールにシレラ、それにハルだろ?傷が残ってるとは思えねーよ」

ジュールの妻である蜜月の精霊・シレラ、ルディルの妻である春ハル――夜明けの太陽女王・レシェラは元花の姫だ。治癒能力は申し分ない。彼女達がいて癒やせないとは、インジュも思っていないが、それでもフロインの様子が頭から離れなかった。

「そうですよねぇ。でも、だったらフロインのあの顔色、どうしてだと思います?」

「わたしも気になっているわ。フロインは騎士よ。いくらノインが目の前で傷を負ったとしても、終わった戦闘を引きずるのはらしくないわ。ノインは不調を抱えているのかもしれないわね」

この城で最高の治癒能力を持つシェラの見解に、うーんと、リティルは腕を組んで考え込んだ。そして、しばらくして顔を上げる。

「オレな、あいつら2人しかできねー現状が嫌なんだ。門の捜索はインジュでもできるんだろ?心配なら、ノインがインジュと組めばいいんじゃねーのか?頭ごなしにおまえが外されてるのも気になるよな」

もっと言えば、敵がわかっているのに外されていることにも、リティルは不満だった。

「はい。納得できませんよぉ!門を閉じられるの、リャリスだけっていうのもモヤモヤです」

「……霊力強奪術……インファ、おまえリャリスにかけてくれねーか?おまえなら、多少危険でもなんとかするだろ?」

「それはそうですが、父さん、夫の前で、妻の霊力を別の男に奪わせる計画を立てるのは、いかがなものかと思いますよ?」

夫の前で妻?リティルは僅かに首を傾げそうになって、ハッとインジュを見た。

「わ、悪い!インジュ、ごめんな!」

言い訳のしようがない。霊力は、その精霊固有のモノで、1つとして同じモノはない。それを得るということは、心や体を得ることに等しい。

霊力強奪術は、霊力の交換を行えない精霊達がやむを得ず使う術だ。というのは、同性である、身体的に未熟である、枯れているなど理由で、婚姻を結んでも霊力の交換が困難な場合だ。

「いいですよぉ。ボクはできないですし、お父さんがやれば、リャリスは傷つきませんし」

インジュは拗ねるように口を尖らせた。

「おまえ、知ってるのか?ごめんな……」

「2人が納得するのなら、オレがやってもいいですが、その前にインジュ、リャリスと話し合いなさい。その場合、霊力の交換も視野に入れてもらいますが、それとノインの状態を把握しなければなりません。いいですか?軽率な行動はくれぐれもしないでください。破れば、オレの立ち会いの下、ジュールに霊力強奪術をかけられると思ってください」

はあ?とリティルは意味がわからず眉根を潜めた。ラスとシェラもどういうこと?と首を傾げていた。しかし、インジュだけは蒼白でカタカタ震えていた。「いいですね?」と凄みのある笑みを浮かべたインファが、誰に釘を刺したのか、刺したかったのか、インジュは理解した。


 リャリスと話し合うべく、インジュは将軍夫婦の部屋へ行った彼女の帰りを、アトリエで待っていた。物は多いが、片付けられ綺麗な部屋だ。彼女がまとめている研究資料も、徐々に本の形になってきていた。今は、先人の書いた書物が収まっている本棚だが、ここにリャリスの書いた本がいつか並ぶのだろう。

薬の調合は、趣味だと言っていた。魔法と違い、薬の調合は、素材を物理的に集めねばならず、素材の品質や量によって効力に違いが出てしまう。

魔法は、構築式さえしっかりしていれば、あとは霊力次第だ。使う精霊が強いか弱いかでその威力が決まる。インジュにはこちらのほうが、断然わかりやすい。

 背後で、ガチャっと扉が開いた。

「インジュ、こちらでしたのね」

「勝手に入ってすみません」

「遠慮はいりませんわ。あなたになら、何を見られてもよくってよ?」

この人、天然だなと思う。でも、本気なのかもしれない。

「ノインの事なんですけど」

扉を閉め、真っ直ぐに作業台のそばに立っていたインジュに向かって足を進めていたリャリスは、その名に一瞬顔を曇らせた。

「あなたも気がつきまして?ノインったら、2、3日戦えませんのよ?」

「え?何かあると思ってましたけど、そんなに酷いんです!?」

だってノインですよぉ!?いつも涼しい顔で魔物はもちろん、一家の皆を翻弄する彼が、そんなに動けないほどの痛手を負っているとは予想外だった。

「酷いですわね。フロインを庇って、左腕をもがれたあげく、傷口を壊死させられ、死の触手にまとわりつかれたのですわ」

ひっ!とインジュは悲鳴を飲み込んだ。

「……聞くだけで左側がゾワゾワしますねぇ……」

「大丈夫ですわ。傷は癒えていますのよ。死も、王の風があれは引き剥がせますもの。問題は、体力と霊力ですのよ。ごっそり奪われてしまっていましたわ。それも、私の薬でなんとかなりますわ。ただ、この薬は時間がかかるのですの」

「それで、2、3日です?」

「ええ、そうなのですわ。ですので、私、これから調合に入りますわ」

リャリスは気合いを入れるように、腕まくりする仕草をした。

「材料なんとかなります?」

「いくつか足りないようなような予感がしますわ。インジュ、手伝ってくださいませ」

「はい」

リャリスは手早くメモを書くと、インジュに手渡した。部屋の隣に作られた倉庫から素材を探してほしいと頼まれたのだ。

「この際ですわ。超強力な魔法薬を調合しますわよ!」

怒っているのだろうか。リャリスはそう意気込んで、インジュと倉庫へ向かった。

 リャリスのアトリエは、おそらく、皆の私室の中で1番広いだろう。手狭になった為に応接間の隣から引っ越しをした。応接間から、城の奥へ続く扉を出ると、廊下に繋がっている。その正面に新たに作られた扉。その中がリャリスのアトリエだ。

アトリエの間取りは引っ越し前とほぼ変わらないが、応接間に繋がっていた扉がなくなり、代わりに新たな扉が2つ作られた。そして、外に面したため、窓がある。

扉の1つは、素材倉庫へ繋がる。もう1つは、寝室へ繋がる扉だった。インジュの寝室はまだ城の3階にあるが、この部屋に入り浸ることも多く、どれだけ2人で転がっても落ちないくらい大きなキングサイズのベッドが鎮座している。リャリスはあまりの豪華さに「落ち着きませんわ……」と若干引き気味だったが、リティルから誰の部屋の寝室もこんなものだと言われ、一応受け入れた。

確かに、寝室だけ魔女っぽくない。どう見ても、お姫様の部屋だ。うーん、ボクの趣味でもないけど、そのうち、リャリスといいように改造しよう!とインジュは密かに決めていた。

 素材倉庫と寝室は廊下側と外側にあり、長細い間取りとなっている。素材倉庫は、廊下側で窓がなかった。

「リャリス、水の球草、足りないですねぇ。これだけ、無茶苦茶多いんですけど、どうしてです?」

「やはり足らないですわよね?飲み薬にしようと思ってその量なのですけれど、他に代用しようにも、この城では綺麗な水は貴重ですのよ……」

「水です?あ!あの部屋の水って、すごく綺麗だったような……リャリス、花園の間って見たことあります?」

「花園の間?知りませんわ」

「シェラの憩いの部屋なんですよぉ。封じられてなかったですけど、何となくみんな近づかなかったですねぇ。使えるか、見てみません?」

インジュの提案に、リャリスは遠慮気味にこちらを伺ってきた。

「でも、おば様の部屋なのですわよね?」

「大丈夫ですよぉ、鍵かかってなかったら中には誰もいませんからねぇ」

鍵?とリャリスは首を傾げた。インジュは行きましょう!と彼女の手を取ったのだった。

 花園の間は、波紋のような同心円の水路の中に、様々な花の咲き乱れる白い部屋だ。見慣れたインジュには今更感動するようなものもなかったのだが、応接間にある暖炉のそばの白い扉を開いたインジュが、リャリスに先を譲ると、彼女は感嘆の声を漏らした。リャリスは異質なその扉を、レリーフか何かだと思っていたようだった。

この部屋が窓側にある為に、この部屋と並んであった元リャリスのアトリエには窓がなかったことに気がつかないなんて、彼女は建築物に疎いのだろうかとインジュは思ってしまった。

「なんて綺麗なんですの……」

「シェラ、花の姫ですからねぇ。花を育てるのがうまいんですよねぇ。ボク達が手出したら枯らしちゃうんで、リティル以外、風の精霊はあんまり近づかないんです」

「…………この部屋なら、難しい花の栽培もできますわね……ああ、けれどもおば様のお部屋に毒草は……」

「気にしないですよぉ?よく見てくださいよぉ。これとこれ、毒草ですよねぇ?ここにある花は、愛でられるために生えてるだけなんで、毒でもなんでも関係ないですよぉ?綺麗な花が咲くかだけが、この部屋で咲ける判断基準です。シェラに聞いてみましょうか?」

「え?けれども……」

「シェラも花の話ができる人が増えて、嬉しいですよぉ?大地に近い精霊ってこの城にはいませんからねぇ。ところで、ここの水、使えます?」

「え?ええ、申し分なくってよ」

「そうですか。じゃ、運びましょうか」

そう言ってインジュは、水路から木桶に水を汲んだ。

「何杯いります?」

「この量なら、1杯でいいですわ」

「そうです?リャリス、ボクが揃えられる分の材料用意しておくんで、しばらくここにいてくださいよぉ」

「え?」

そんなに変な顔をしていただろうか、インジュはフフと苦笑すると、リャリスの頬を1撫でした。

「癒やされてますよねぇ?息抜き、大事ですよぉ?」

フワリと柔らかく笑ったインジュは、水桶を手に悠々と部屋を出て行ってしまった。残されたリャリスは、頬を両手で包んでいた。

「……私ったら、十代の少女のようですわね……もう、体さえ繋げることができる間柄だというのにですのに……」

癒やされたのは、この部屋のおかげだけではない。インジュがここに、いてくれたから。そんなことを改めて思ってしまい、リャリスは更に顔が熱くなるのを感じて、1人身悶えてしまった。

 インジュが用意してくれた息抜きだ。リャリスは、すぐに戻って背中に抱きつきたい衝動に蓋をして、水路に植えられた花々を観察した。

薬草になる花から、毒草になる花まで、雑多に水に根を下ろし咲き誇っていた。これは、おば様と話をしなくては!とリャリスの心は久しぶりに躍っていた。死の魔王が跋扈する現在、リャリスは城に軟禁状態だ。素材は狩りの合間に一家の皆がお土産に持ってきてくれるが、採取もかけがえのないリャリスの趣味だった。植物ならそれが生えているところを観察し、液体なら流れや留まる様を見る。匂いを感じ、手触りを楽しみ、リャリスにはこの五感を刺激するすべてが喜びだった。この部屋は、そんなリャリスの欲求を僅かに満たしてくれた。

 ああ、そろそろ部屋に戻らないとと、リャリスはホクホクしながら、アトリエの扉を開いた。

インジュは、中央に置かれた机の上に素材を並べて、メモと照らし合わせていた。リャリスに気がついて、視線を向けた彼が笑う。インジュは気がついているだろうか。普段は女性的なフワリと柔らかい微笑みなのに、その中に、時折男性を感じさせる熱が灯る。心を捧げた女性に向ける、眼差しだ。

「リャリス、間違ってないと思いますけど、どうです?」

「ええ、確認しますわ。ありがとうございます、インジュ、座っていらして」

席を勧められ、インジュはそれに従って椅子を引いた。見上げるとリャリスは、メモと机の上の素材を確認する作業に入っている。メモに書かれた素材の名を呟く唇に、インジュは視線を持っていかれていることに気がついて、気づかれないように視線を外した。

無償に、彼女の唇に触れたくなるのは、たぶん、霊力の交換も視野に入れて話をしろと言われたからだ。きっとそうだ。でも、話をしなければならないなと、思って、視線をリャリスに戻した。

「!」

驚いた。視線を戻すとリャリスもちょうどこちらを向くところで、偶然にも視線が交わった。リャリスは、フフと妖艶に、いや、少し照れたように微笑んだ。

「リャリス、ボク……リャリスの霊力がほしいんです。どうしたらいいですかぁ?」

リャリスの手が不自然に動き、弾かれた丸い果実が床に落ちた。床でぐちゃっと潰れる果実。あれは、紫縞トマトだ。ああ、貴重な紫縞トマトが!在庫まだあったかな?と倉庫の様子を思い浮かべてしまった。

イヤイヤイヤ、それよりボク、何言いましたぁ?とインジュは、口から滑り出した言葉に、驚いていた。こんな言い方。こんな言い方ってない。リャリスの霊力がほしい?どうしたらいいって?そんなの、霊力の交換しましょう?って言ってるようなもので、これじゃあ、抱きたいです。やらせてくださいって言ってるわけで。

これじゃあ、朴訥なノインを笑えない。簡潔な物言いの彼より悪いんじゃないか?とインジュは、立ち上がっていた。そんなインジュに、リャリスはビクッと身を振るわせた。今度は机の上の瓶が落ちる。今度は受け止めた。甘露の雫と呼ばれる、これまた貴重な素材だ。大地の領域の夏の森にある、甘露の池という場所にしかない蜂蜜のように甘い、ホンノリピンク色で半透明な液体だ。

「す、すみません!あの、変な意味じゃなくてですねぇリャリスの霊力が必要っていうんですかああでも利用したいとかそうじゃなくてですねぇ――」

インジュの矢継ぎ早な言い訳が聞こえたが、その内容が頭に入ってこなかった。

この人は男性だ。知っている。けれども不能で交われなくて、婚姻は結んだけれど、霊力の交換は行えなくて、安全で。

安全?リャリスはその4文字を思い浮かべてしまい、自分でもビックリするくらいの衝撃を受けていた。

「リャリス……すみません……あの、違うんです……」

何を言っても、言い訳にしかならない。泣き出したリャリスにかける言葉が見つからなかった。インジュは、苦しげに視線をそらすと、甘露の雫を机に置き「すみません」と呟いて、項垂れたまま部屋を出ようとした。

その背中に、ドンッと衝撃があった。

「わ、私が浅はかだったのですわ!あなたが……安全、などと……」

「ああ、ボク、できないないですからねぇ。そんなボクがいきなりこんな事言ったら、驚きますよね?」

「……ノインの、事ですわよね?」

「ノインって言うより、リャリスですよぉ。リャリスの霊力があれば、ボクでも門、閉じられません?」

「インジュ……関わらないでくださいまし……」

「嫌です。リャリス、ボク以外に触ってほしくないって、言ったじゃないですか」

「困らせないでくださいまし」

「じゃあ、単純に、リャリスに欲情してるから抱きたいって言った方がいいです?」

あれ?ボク今、何言いました?これ、やらかしたんじゃないんです?


 リャリスは、一心不乱に釜を掻き混ぜていた。

インジュが、インジュがまさかあんなことを言うとは思わなかった。

私を……抱きたい?耳を疑ったはずなのに、彼の不能は魔法によるもので、魔法なら必ず解くことができて、解いてしまえば欲望はあるわけだから、ええと?他人事だった。なぜ、かリャリスは手順を考えて、できますわ!何の問題もありませんわね!と言いそうになった。

あの時、奇声を上げて、インジュが扉に頭をゴンッと打ち付けなければ、おかしくなった頭のまま、寝室へ、誘っていたかも――

「――――――!」

リャリスはカッと瞳を見開くと、頭をブンブン振って、再び一心不乱に掻き混ぜる。

あの後、頭を扉に打ち付けたインジュは、上がった心拍を落ち着けるように大きく息をしながら、リャリスに手を離せと言った。素直に聞いてしまったリャリスは、インジュに逃げられていた。

どうして、あの時、いいと、一言、あなたならいいと言えなかったのだろう?

インジュに蛇の姿から戻されてから、触れたいのを我慢しているのはたぶんリャリスの方だ。インジュは、応接間の皆の前では遠慮なく抱きついてくるくせに、アトリエでは過度な接触はしてこない。寝室でも、もう寝ようか?となれば触れていた手を離して、背中を向けてしまう。理由はわかる。蛇のことを想って、気を使ってくれているのだ。

 トントンッと控えめに扉が叩かれた。リャリスは気配も探らずに扉を開いていた。

「インジュ!もうし――」

扉を開いて叫べば、そこに立っていたのは驚いた瞳を、すぐに苦笑に変えたインファだった。インファは、努めて優しく「インジュではなくて、すみません」と言った。

「いいえ」と言いながら、気落ちを隠せずに、リャリスはインファを招き入れ、自分は断ってから釜に向かった。

「インジュは、ジュールの所ですよ。応接間に入ってくるなり、ジュールに霊力強奪術をかけてもらってくると言うので、何事かと思いましたが、すぐに彼から連絡が入りました」

「お父様は、なんと?」

「泣いている男を慰める趣味はないと言いながら、とりあえず引き受けてくれるそうです。掻き混ぜればいいんですか?代われるモノなら代わりますよ?」

「ありがとうございますわ。けれども、私……今、インジュに会う勇気がありませんの」

なんと言えばいいのかわからない。

「私も欲情していますのよ?ですから、問題なくってよ?」と言えばいいのだろうか。

「すみません。インジュを追い詰めてしまったのは、オレです」

「ご、誤解しないでくださいまし!私、インジュに襲われたわけではなくってよ?ただ、私が子供すぎて……動揺してしまっただけですの」

シュンとしながら、それでも釜を掻き混ぜる手を止めないリャリスに、インファは躊躇いながらも、副官としては提案しなければならず、葛藤したが言葉にする方を選んだ。

「リャリス、インジュとの距離を壊したくないのならば、オレが、霊力強奪術をかけることを承諾してくれませんか?」

「え?お兄様が?お兄様が、門を閉じると言うのですの?」

驚きに顔を上げたリャリスは、掻き混ぜる手を止めてしまった。

「あなたの力が門を閉じる鍵ならば、誰でもいいのではないですか?安心してください。オレに霊力を探られて、感じた人は皆無です。あなたを傷つけることはありませんよ?」

「……ノイン、お兄様の言葉も聞かないのですのね?」

彼の焦りを感じる。ノインはただ、リティルとインジュを守りたいだけだ。しかし、ノインの守りたい2人は、素直に守られてくれる玉ではない。だからこそ、ノインは動けない体にむち打ってまで動こうとしているのだ。

ノインが動けないことを、明かすべきではなかった?しかし、リャリスが明かさなければ、インジュは別のつてを当たっていた。隠したままにはできなかったことだろう。

「何を隠しているんですか?」

リャリスは、休んでいた手を動かし始め、掻き混ぜる釜の中を見つめた。

「……あれは、原初の風がなんであるのか、気がついたのですわ。おじ様もインジュも、手に入れる気ですのよ。許せませんのよ!この世界を守っている人達を、私利私欲で辱めようとするなんて!そんなこと……許せませんのよ……」

悔しい。旧時代にも綺麗な物があった。なのに、あんな汚いモノがこの世界に遺ってしまった。

「お兄様、私が承諾してしまったら、インジュは、傷つくのでしょうか?」

決心のつかない揺れるリャリスの視線を受けて、インファはゆっくりと言葉を紡いだ。

「どうなるかは、すでに知っているんじゃありませんか?」


 時は待ってはくれない。

そんなこと、知っていた。その時を逃せば、手に入ったモノも、手に入れられなくなることくらい、わかっていたはずだったのに、まだ、わかってはいなかった。

泣きついたジュールは言った。

「なぜ、初夜というモノがあるのかわかるか?」

答えられないインジュに、彼は言った。

「お互い知らん者同士では、時が経てば立つほど、交われなくなるからだ。夫婦が、肌を重ねることは淫乱なことか?後ろめたい行為か?わたしが言えた事ではないが、ただ1人と結んだ婚姻で、相手に欲情しないのは失礼ではないのか?おまえは男として正しい。ただ、ヘタレなだけでな!」

「できないのにですかぁ?」

「おまえの妻は誰だ?智の精霊だ。魔法や呪いの類い無力化するのは容易いぞ。体の欠陥ならば、治療すればいいだけのことだ。あいつは耳年増で、臆病なだけだ。ああ、誘い方がマズかったな。あいつの前に、研究対象としておまえの体差し出せば、嬉々として弄ってくれたぞ?今からでも遅くはない。煮るなり焼くなり好きにしろと寝転がってこい!」

あれ?そんな話だったっけ?

ノインとリャリスを守りたくて、それで霊力の交換をしようって……あれ?ボクは、リャリスをどうしたいんでしょうか?

「インジュ、今日はここに泊まれ。頭と心の整理が必要な顔をしているぞ?」

ジュールは甘い。最後までその尻を蹴っ飛ばしてくれたっていいのに、そうしない。だからだろうか。結局優しいジュールに甘えてしまう。

このとき頼ったのが父のインファだったなら、結果は違ったのだろうか。インファは厳しい。現実を突きつけ、選択を迫ってくる。

インファだったなら、臆病な息子になんと声をかけたのだろうか。

霊力強奪術を傘に、オレが初めてもらいますよ?くらい言ったかもしれない。

 何かが起こる。その予感だけは胸にある。

ノインに背負わせて、逃げることなんてできない。その思いは、風四天王の総意だ。討って出たいのに、その力がない。歯痒い思いはこれまでもしてきた。でも今回は、やっと風の最強精霊の矜持を持てるかもしれない。妻の手を借りることができれば。

 時は待ってくれない。

翌朝目を覚ましたインジュは、風の城に敵が迫っていることを知った。

慌てて戻ると、応接間は作戦会議のただ中だった。

「あちらに先手を打たれましたね」

険しい顔のインファに、リティルは何でも来いとすでに臨戦態勢だった。

「どうする?インファ」

「オレとルディルが出ます。ラスの情報を元に、父さんとジュールは戦場を見極めてください」

リティルとジュールはインファの言葉に頷いた。

「ああ、任せろ。あちらも無尽蔵ではないだろう。むしろ、ノインとリャリスの方が問題だな」

「とりあえず部屋を封じたけどな、時間の問題だぜ?」

事が起こってすぐ、リティルは暴走しそうな2人を部屋に監禁した。だが、ジュールが助力してくれていても、2人はリティルよりも魔導に精通している。破られるのは時間の問題だ。

「それまでには結果を出します。父さん、ジュール、頼みましたよ?」

「魔物より身内を警戒していやがるたぁ、余裕だねぇ」

ニヤニヤとルディルが笑った。

「バカを言うな。やられたらただじゃおかんぞ、長兄!」

「誰が長兄だ!おまえこそ、風の城に傷1つつけるんじゃぁねぇぞ!行くぞ、インファ!」

ルディルに「はい」と応じ、インファは戦場へ行った。

「インジュ?おまえ、大丈夫か?真っ青だぜ?」

 2人を送り出して、ソファーに腰を下ろそうとしたリティルは、シェラに声をかけられた。妻の言葉で、大鏡の前にインジュの姿を見つけ、躊躇わず飛んでいた。

「リティル、状況教えてください。大丈夫ですよぉ。ちょっと、ビックリしただけです」

「ああ、死の魔王が数体、城を目指して進軍中なんだよ。ノインは出せねーからな、フロインに押さえさせて、部屋は封印中だ。リャリスの様子、見に行ってやってくれねーか?門を閉じに行くって聞かなくてな。まだ、戦況も見極めてねーからな。閉じ込めてあるんだよ」

「わかりました」

頼むなと、リティルはインジュの肩を叩くと、ソファーへ引き返していった。

 インジュは、アトリエの扉の前に立った。

昨日の今日で、どんな顔をして会えばいいのだろうか。彼女が拒否するなら、それも甘んじて受けよう。インジュの仕事は、リャリスをこの部屋に留め置くことだ。

ノックして、返事を待たずにインジュは扉を開いた。

「インジュ……!インジュ!皆様を説得してくださいまし!門を閉じれば、生まれてしまった死の魔王は残ってしまっても、新たに産まれる事はありませんわ」

インジュの姿を認め、リャリスが駆け寄ってきた。

必死な彼女の様子に、インジュの心は冷えていった。

インジュがノインなら、リャリスは自分で行くとは言わずすんなり頼っただろう。そんな思いが、確信を持ってインジュの心に芽生えた。

インジュがノインだったなら、すんなり霊力の交換でリャリスの霊力を得て、ノインはすんなり門を閉じただろう。リャリスもきっと、安心して身を任せられただろう。

「インジュ、お願いしますわ!どうか、どうか私を――」

「そうですか。じゃあ、ボクが門を閉じに行きます」

「え?」

ドンと突かれ、リャリスは床に倒れていた。顔を上げる間もなく、落ちた影に押さえ込まれていた。

「あっ!インジュ?」

「暴れないでくださいよぉ?」

両手を押さえられ、リャリスは床に腹ばいに倒されていた。その背中にインジュの手が押し当てられた。その感触に、ゾクッとして、リャリスは逃れようと膝を立てようとしたが、インジュに足の上に乗られ、身動きができなくなった。

「ああ!待ってくださいまし!インジュっ!」

霊力を探られる。インジュが何をしようとしているのか、リャリスは察した。

話し合うべきだった。昨日、彼を追いかけて、話をする勇気があったなら結果は違った。

「っ!インジュ……!話しっ……!!」

あげますわ。私の霊力など、いくらでも。言えたなら、誤解されなかった。嫌がっていると、思われずにすんだだろう。

「やめっ……っ!うう……」

話を聞いてくださいまし!声にならなかった。伝えたいことが伝わらない。口から漏れるのは、掠れた喘ぎだけだった。

今のところ、こうするより他ない。インジュの不能の原因を、リャリスは知らない。インジュ自身も知らないのだから。霊力がほしいのなら、霊力強奪術をかけるしかないのだ。

インジュは素人だ。霊力の交換だろうが、霊力強奪術だろうが、リャリスはインジュの手によって快楽に落とされ、霊力を与えることになるのは同じだ。方法など、どっちでもかまわなかった。痴態を晒す相手が、インジュにならばリャリスはかまわなかった。

リャリスはインジュに逃げられたあと、明日、インジュに会ったら話そうと思っていた。


私の霊力を得て、一緒に、門を閉じに行ってくださいまし


それなのに、明日があるなどと悠長すぎた。

 体に力が入らない。インジュの手が、体の中を掻き混ぜるようで、苦しくてフワフワして言葉にならない。性急にならないように丁寧に丁寧にという心を感じて、優しさが緩やかな快感の波となって、幸せな甘い疼きが思考すら奪っていく。なのに、自然と息は荒くなり、快感から逃れたくて体は暴れた。インジュのリャリスの両手を押さえ込む手に、力がこもる。

違う!違う!と叫びたいのに、口から漏れるのは嗚咽と喘ぎだけ。伝えられない。奪っていいのだと!

リャリスは、苦しげな声を聞いた。

「リャリス……気持ちいいですかぁ?あはは、もっと……もっと早くこうすればよかったですよぉ!ボクは、ボクも男です。リャリスを傷つけたあれと、同じなんですよぉ……?ずっとずっと、奪ってやりたかったです。そんな目で、見てましたよ!食べたかったのは……ボクの方……だったんですよぉ?」

ああ……そんな……。服が風に裂かれ、リャリスは背中を晒された。露わになった、その白く細い腰に、インジュは口づけを落とした。リャリスの全身を激しい波が攫う。

「!」

一際高く、リャリスは叫び、意識は闇に引きずり込まれた。

行かないで……インジュ…………


あなたは臆病な人。けれども勇敢な人

私は、臆病で子どもでしたわね

私に、あと少しの勇気があれば、あなたは、私を信じてくれたのでしょうか?

あなたへの心がなくなることなど、あり得ませんわ

だって、そうでしょう?

あなたはいつだって、私を想い、自由を与えようとしてくれたのですもの

あなたの『愛』に支配されていたいですわ

あら、いけなくって?私、不自由ではありませんのよ?

こんな支配があるなんて、蛇のイチジクでも知らなくってよ?

インジュ、インジュ、私、傷つけられてなどいなくってよ?

私は、あなたの妻ですわ。夫が、妻の体に触れて、何が悪いのですの?

私を、怖がらないでくださいまし

触れたら、嫌われるなんて、思わないでくださいまし

思わせてしまった私は、なんと愚かな女でしょう

あれと同じだなんて、言わないでくださいまし!

あなたは私を、何だと思っているのですの?

ガラスケースに入れて、愛でられるだけの人形ではないのですのよ?

血の通った、1人の女ですわ!

求められていることに、驚いてしまっただけですのよ?

けっして、拒絶したわけではありませんでしたの

ごめんなさい。心から謝罪いたしますわだから

インジュ、帰ってきてくださいまし

私をどうか

捨てないで………………


 どれだけ気を失っていたのだろう。

リャリスはふかふかしたモノに包まれていた。霞がかかったような頭で、何とか体を起こす。

「……寝室……?私、どうして……」

体がだるい。とても激しい運動をして、体を解さないまま眠ってしまったようだ。

何かとても幸せで、とても哀しいことがあったような……不安げに視線を彷徨わせたリャリスは、ギクリとした。枕元に、キラリと硬質な光を返すモノがあったからだ。

「あ……あ……あああ!」

それは、インジュに贈った婚姻の証。

リャリスは思い出していた。霊力強奪術をインジュにかけられ、奪われ、そして気を失ったことを。

いや、霊力を抜かれた直後はまだ、朦朧としていたが意識があった。

 息を詰めていたのだろう。背後でインジュが大きく息を吐き、しばらく荒く呼吸を繰り返していた。押さえつけられていた手の拘束を解かれたが、リャリスは指1本動かせなかった。

「すみません……リャリス……」

体をひっくり返され、強く抱きしめられる。インジュが泣いているのがわかるのに、その頭を「大丈夫」と撫でてあげられなかった。こんなに優しく、抱きしめてくれているのに、返してあげられなかった。

「ボクを、軽蔑してください。想いが消えてもしかたないです。許さなくていいですから、リャリス……この世界を自由に、歩き回ってくださいよぉ?ボクが、リャリスにあげられるものは、これだけです。好きでした……どうしようもなく、あなたが、好き……でした!」

「さようなら」

そう言われた気がした。

「インジュ……!」

リャリスはベッドを飛び降りていた。裂かれたはずの服は元通りに直されていた。両手首についていただろう、インジュの指の痕はなかった。インジュが癒やしてくれたのだ。そうに決まっている。止められずに流れていた涙の痕さえない。ベッドへ寝かせてくれた彼が、拭いてくれたのだ。彼ならきっと、そうしてくれる。

――欲望のままに奪った?そんな言葉を信じると思って?いいえ、欲望のままでも、よかったのですのよ?あなたになら、貪られても。あら、私も存外淫乱ですのね

 封じられた扉を壊し、リャリスは応接間に向かった。

そして、応接間の状態に驚いた。白い魔方陣の中に、ノインが倒れていた。その傍らにリティルとフロインがいて、ジュールは水晶球を片手に誰かに指示を出していた。

「リャリス!」

ノインを明らかに介抱しているリティルが、顔を上げた。リャリスはとりあえずそこへ走った。1度、魔方陣の前で立ち止まり、それを確かめる。

これは、私の力?それを悟ったとき、誰がこれをここへ描いたのか、これがなんであるのかわかった。

「おじ様!インジュは、インジュはどこですの?」

答えなどわかりきっていた。問われたリティルは、少し混乱気味に、だが冷静に答えた。

「門だ。あいつは閉じに行くって言ってた」

「そのとき、ノインに魔方陣魔法をかけたのですわね?」

リャリスの問いに答えたのは、フロインだった。

「ええ。リャリス、動かせば死ぬと言っていたけれど、それは本当なの?」

動かせば死ぬ?そんなデタラメな脅しで、ノインまで守って?

「嘘ですわ。これは、霊力を回復させる治癒の魔方陣ですのよ。お父様、謀りましたわね?」

「なんのことだ?そちらの面倒まで見きれん。ああ、すまん、門から湧き出す敵は止まっている。今、おまえ達の前にいるそれらで最後だ。掃討後――」

ジュールはチラリとこちらを一瞥したのみで、水晶球と繋がっている者との会話を再開してしまった。

「フロイン、ノインをこのまま魔方陣から出さないでくださいまし。癒やし終われば消えますわ。強力ですし、すぐに癒えますわよ」

リャリスは、頷いたフロインから視線を、リティルに合わせた。

「おじ様、おば様!私と一緒に門へ行ってくださいまし」

リティルはシェラも巻き込まれるとは思っていなかったようで、一瞬戸惑ったが頷いてくれた。

ジュールは、門からの魔物の出現が止まっていると言った。もしかすると、もう、手遅れなのかもしれない。それでも、行かないという選択は、リャリスにはできなかった。


 霊力強奪術は、相手の同意なく霊力を奪う術なのだろう。

奪った霊力は、長く体には留まれないとインジュは感じていた。

婚姻を結び行う、霊力の交換は本当に奇跡の魔法なんだと今更思った。

使ってしまうつもりだったが、僅かでも残るなら、持っていたかった。婚姻の証を放棄したのに、未練がましいなとインジュは、神樹の根元を目指しながら自分をあざ笑った。

 神樹の根元にある広場に着くと、インジュは目を疑った。

見えるのだ。その門が。ボンヤリと立つ、のっぺりとした金属でできた横にスライドするらしい扉。確かに、その真ん中が縦に割れていて、中からあの日見た、黒色の靄が触手のような手のような形を、作っては消え作っては消えしていた。

『原初の風というヤツだね?』

靄がブルリと震え、門から上半身だけ出したような、曖昧な人の姿を取った。

「ボクがほしいって、聞きましたよぉ?ボクはしょっちゅうほしがられるんで、またかって感じですねぇ」

『――の力を感じる……アハハハハ、喰ったのか?美味しかっただろう?』

この人、例に漏れず嫌な人ですねぇと、インジュはゲンナリした。

「はい、まあ。可愛すぎて困りましたねぇ。でも、おまえのモノじゃないです。リャリスは、ボクの妻です」

『アハハハハハ!――は、ここへ戻ってくる。なんたって、骨の髄まで刻みつけてあげたからね』

ゾワッとした。「やめて!はなして!」と叫んだリャリスの声が蘇る。きっと、蛇のイチジクが受けた屈辱はあれの比ではなかっただろう。

「解放しますよぉ。リャリスに、気兼ねなく世界を歩いてもらうんです!ボクは……あの人に、世界をあげたいんです!」

拳を握ったインジュは地を蹴った。

『おや、相変わらず欲深いね。ボクも与えたよ。――に世界をね』

大量の毛虫が這うような黒い塊が、インジュの前に立ちはだかっていた。

「あはは、ボク、口説き文句間違えちゃいましたねぇ」

インジュの突き出した手の平の前に、白い線で魔方陣が描かれた。

「まさかボク、おまえに似てるなんて、思いもよりませんでしたよぉ」

受け入れられなくて当然だ。自分を押さえつけて支配したモノと、同じ思考を持っているなんて、気がついたリャリスは恐怖でしかなかっただろう。

ベッドの中で肩を抱くと、平然を装ってはいるが、すごく緊張しているのが伝わってきた。キスを受け入れてくれるが、いつも顔を近づけると怯えたように両目を閉じる。インジュは次第に、触れがたくなった。健全な距離でいれば、リャリスはインジュしか知らない、はにかんだ微笑みをくれる。それだけでいいと思った。

それなのに、霊力の交換がしたいと言ってしまった。

極限まで狼狽えた彼女の顔。怯えたその瞳。拒絶を感じて、インジュは逃げた。

そして、引き返せない行為に、手を染めた。

守りたかった。彼女の自由を。

 夫であるという権限を行使して、インジュはリャリスの霊力を貪った。

流れ込んでくる力。この力が、リャリスの霊力なのだと思ったら、心が暗く悦んだ。もっとほしかった。インジュの体の下で、クタリと力を失って余韻に震える躰を暴いてやりたかった。その声を、もっとあげさせたかった。

ああ、ボクの欲望、怖いですねぇ。ここで離れられてよかった。婚姻を解消し、もう2度とリャリスに触れない。そう決めたのに、自分の手で彼女のくれたブレスレットを壊すことができなかった。

「冥土の土産に見せてあげますよぉ?原初の風……誰の手にも届かない、至高の宝です。しっかり、どこに目があるかわからないですけど、焼き付けて、逝ってくださいねぇ!」

名もなき死の前に立ったインジュは、両腕を開いた。その胸にキラリと美しい輝きが煌めいた。

風が巻き起こる。透明な、どこまでも清らかな風。

インジュの前に現れた、涙型の類い希なる輝きを発する宝石・原初の風の輝きが、名もなき死を焼き尽くす。

「インジュ!」

あ、幻聴です。インジュはかすかに笑った。彼女がこの体の名を呼ぶことは、二度とない。それでも、最後に聞きたくて、この脳が、心の願いを叶えてくれたのだと思った。

「リャリス……好きですよぉ?嫌われても、なくなりそうにないですねぇ」

愛しそうに噛み締めた言葉を、透明な風が攫って行った。


 シェラは、神樹にゲートを開き、その広場のすぐそばにリティルとリャリスを導いた。

そして目の前に起こった光景に、思わず3人は足を竦ませてしまった。

「インジュ!あいつ、死ぬ気かよ!」

「リティル!急ぎましょう。リャリスは門をお願い!」

「はい、おば様!」

リティルとシェラは指を絡めてしっかりと手を繋ぐと、地を蹴った。凄まじい風だ。シェラのモルフォ蝶の羽根では厳しい。でも、きっと間に合う。シェラは手を引くリティルの背中を見つめていた。

この人と一緒なら、きっと間に合うわ!

「インジュ!」

リャリスは、声の限り叫んでいた。こんな声では、奇跡は起こせない。

リャリスの姿が変貌を始める。蛇へと変身したリャリスは、吹き荒れる風の中をシュルリと走った。

「インジュ!もういい!」

グイッとリティルはシェラの手を引いた。

「もう終わったわ!インジュ!」

インジュの体の前で光り輝く原初の風に、リティルとシェラの手が届いた。

原初の風は、最初の風と花の子ども。風の王と花の姫が力を合わせれば、この最高の至宝の光を押さえ込んで暴走を止めることができるはず。リャリスがそう言った。

しかし、不十分だったら、2人ともただではすまないかも。

そう忠告したが、リティルとシェラは顔を見合わせ、失敗しないと声を揃えて言い切った。

凄い2人。皆が一目置くだけのことはある夫婦だ。

 インジュが捨て身でかかることは、リャリスには読めていた。そんなに力まなくてもあんなもの、あなたの敵ではないんですのよ?と思ったが、リャリスを辱めたと思っているインジュは、自分自身を断罪すると思った。

『遅いなんて、言わせないよ!あんたには、言いたいことが山ほどあるんだからねぇ!』

蛇の手が、門に届く。僅かに開いていた門は、音もなく閉じてその姿が、一瞬で消え去った。

変身を解いたリャリスが目を向けると、インジュはリティルとシェラに抱きかかえられていた。意識はないようだ。

「インジュ!インジュ……!」

「大丈夫。原初の風に傷1つないわ。すぐに目を覚ますわ」

シェラはホッとした顔で微笑んだ。しかしリティルは、何か気になるのかジッと瞳を閉じたインジュの顔に視線を落としていた。

ピクッとインジュの体が身動きして、彼はフッと目を開いた。焦点の定まらない瞳をゆっくりと瞬きする。

「インジュ!私がわかりまして?」

感情を抑えられずに詰め寄ったリャリスの顔を、インジュはボンヤリと見つめていた。

「蛇…………リャリス……?」

「インジュ……!」

よかった!言葉にできずに、リャリスはインジュの胸に顔を埋めて泣いていた。だが、いつもなら抱きしめてくれる腕は、動くことはなかった。


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