四章 深窓の魔女
風の城の応接間。
今日は朝から珍しい吹雪で、カタカタと窓が鳴っていた。
「ただいまー」
「うーさぶい」
2人、凍えるようにして帰ってきたのは、リティルとインジュだった。相当寒かったようで、2人は応接間に入ってくるなり、暖炉まで飛んでいた。そして、燃えさかる火に身を寄せ合って当たった。
「おかえりなさい。体調はどうですか?」
2人の背後に近づいたのは、インファだ。
「ああ、大丈夫だぜ?ただ、ノインの心配は当たったみてーだな」
「はい。風の王風の王って、声が聞こえましたよぉ。でも、どこからかわからないんですよねぇ」
反魂の儀式から3ヶ月。2週間倒れていたリティルとインジュは復活し、シェレラとリャリスがいなくなった寂しさから、風の城は立ち直りつつあった。
「ノイン!あれって、どうにかならないんです?」
ソファーにいたノインに声をかけると、ノインは濡羽色のオオタカの翼で飛んできてくれた。
「オレではどうにもできない。リャリスなら、何か知っているかもしれないが、な」
「暗に、会いに行けって言ってません?行きますから、扉の開け方、教えてくださいよぉ」
リャリスの居場所は、皆知っていた。だが、誰一人として彼女とは会えなかった。彼女の住まいに入る、扉の開け方がわからないのだ。
「話だけなら、戸口でできますよ?」
「え?話せるんです?リャリスと?」
インジュは機敏に反応した。インファは、ああやはりインジュは答えてももらえないのかと、思った。彼女と話して、その可能性は感じていたが、リャリス、それではインジュが可哀想ですよ?とインファは息子に同情した。だが、彼女の気持ちはわかる。
「インファ、何しに行ったんだよ?」
「母さんを、体に戻す方法を相談に行ったんですよ。あれから3ヶ月です。反魂を行うため、保険として母さんは体に戻らずにいると、そう説明されていましたが、実際にはどうですか?」
険しい瞳で見つめられ、リティルはたじろいだ。
「うっ……嘘ついてたのは謝るよ。でも、大丈夫なんだぜ?シェラもそう言ってる」
「信用できません。そこで、深窓の魔女をダメ元で訪ねたんです」
リャリスは今、太陽の領域にいる。
太陽の領域に、これでもかというくらい、禍々しい森を作り出し、その中心に小さな城を築いて暮らしている。
すべてが暗い灰色に重ね塗りされた森の中にあるその城は、魔女の住まいにふさわしい佇まいだった。
この城、窓は意外にたくさんある。だが、そのどれも開けることはできなかった。
グルリと城を調べていたインファは、ため息と共に声を聞いた。聴いたことのない、縋れた老婆の声だった。
『そんなに調べても、ほころびなんかありゃしないよ』
「……リャリスですか?」
インファが城を見上げ、その名を呼んだ。すると、意外そうに答えが返ってきた。
『気を使ったのかい?お優しいことだねぇ、お兄様』
皮肉のように聞こえたが、彼女の中に今までの記憶があることは確認できた。
「それは、当たり前でしょう?あなたは、オレの妹なんですから。姿を見せてくれませんか?皆さん心配していますよ?」
『それは、できない相談だね。この声を聞いて、聡明なお兄様なら、察するモノがあるんじゃないのかい?』
「ええ、だいたいの事情は察したつもりです。出てくる気はないんですね?」
『ああ、元々この蛇のイチジクは、誰の目にも触れちゃいけない代物なんだ。今の状態が、自然なんだよ』
「了解しました。今は触れないことにします。ですが、通いますよ?」
アッサリ引き下がったインファに、リャリスは拍子抜けしたのか、笑い出した。
『ああ、好きにしな。それで?アタシに用事かい?』
「あなたの状態を確認することが用事だったんですが、ついでに1つ、知恵を貸してください」
抜け目のない兄だ。リャリスはそう思った。ここに通う口実を、いくつも用意していたことが伺い知れた。
『なんだい?』
「花の姫・シェラのことです。あれから1ヶ月経ちますが、一向に目覚める気配がないんです。父さんは大丈夫の一点張りで埒が明きません。原因に心当たりはありませんか?」
『まだおじ様の心にいるのかい?そりゃ、重症だねぇ。詳しく話してみな』
そして、インファとリャリスは、シェラを体に戻す方法を探す事になったのだった。
あれから、2ヶ月だ。
最高の知恵と風の城の軍師が手を組んで、2ヶ月かかってしまったのは、インファの我が儘だ。リャリスは外に出ない。実働していたのは、風の城の副官・インファだった。風の城は、時に四天王が寝る間を惜しむほど多忙な城だ。インファ1人では、進むモノも進まなかった。
リャリスはその理由を理解している。インファが、この頼み事がすぐ終わらないようにしていたことを、知っていた。
「2ヶ月、リャリスと調べていましたよ」
インファが告げると、インジュは怒りだした。
「狡いです!ボクも誘ってくださいよぉ!」
もっともだが誘えない。リャリスの状況次第では、インジュも噛ませるつもりだったが、あれでは、声すら聞かせられない。
怒るインジュの手首には、6つの色に染められた、四角いガラス板の嵌まったブレスレットが光っていた。
智の精霊との婚姻の証。インジュは、何も告げずに閉じこもっている妻を思っている。そのことが、リャリスには負担なのだ。インジュが婚姻の証を未だに持っているが故、彼女は出てこられないのだ。だからといって、インファにはそれを壊せとは言えなかった。リャリスの声を知っている、数少ない人物となっているために、彼女の現状も漏らすわけにはいかなかった。
「自分の妃のことです。オレに頼らず、自分で何とかなさい」
もっともらしい言葉で、突き放す以外にない。
「元気なんだな?」
「ええ、元気ですよ。それで父さん、母さんのことですが」
「ああ、シェラも聞きてーって」
そう言って、リティルが暖炉の前で立ち上がる頃、長い金色の前髪で左目を隠した風の城の執事、旋律の精霊・ラスが近寄ってきた。
「お茶が入ったよ。その話、今度はオレも関わっていいかな?」
反魂に、彼は風の精霊でありながら関わっていない者の1人となった。それは、中核の3人がこぞって倒れた時の為、風の城を滞りなく運営するためだった。
故に彼は、シェレラと敵対の姿勢を取っていた。風の精霊でない者もいる風一家だ。頭ではわかっていても、心は納得できない。そんな彼等の苦悩に寄り添う存在として、ラスは動いてくれていたのだった。故に、創世の時代から生きている古参の精霊でもある彼は、その知識、経験を生かすことはできなかったのだった。
皆でソファーに付き、インファは会話を再開した。
「ラス、頼みます。リャリスは何やら薬を作ると言っているんですが、オレの知らない素材もありまして」
「インファの知らない素材?そんなのあるのか?オレが役に立てばいいけど……」
途端に謙遜するラスの様子が懐かしい。彼はシェレラがいる間中、この応接間では殆ど喋らず、目立たない外見も相まって本当に影のようだったのだ。魔物狩りに一緒に出ればいつも通りだったが、彼と仕事の話が気兼ねなくできるのは、やはり嬉しい。
「ああ、大地系の薬草ですかぁ?ボク達、反属性の知識は入りづらいですからねぇ。葉っぱの微妙な違いがわからないんですよぉ。その点、人間から転成してるラスなら見分けられるんじゃないんです?」
「ああ、そういう。それじゃ、リティルもわかるんじゃないのか?」
リティルは、オレにお鉢が回って来やがったという顔をした。
「オレ、そういう微妙なのはパスだ。通常業務はオレがやるから、おまえら頼むぜ。リャリスのヤツ、オレのことも完全無視なんだよ……。おじ様的には寂しいな」
それはそうでしょうねと、インファは思った。リャリスのあの声と口調で「おじ様」と呼ぶのは呼び辛いだろう。インファのことも、かなり無理をして「お兄様」と呼んでくれている気がしている。
「母さんの件が片付いたら、次はそっちを突こうと思います。あのままというのも、以前の彼女を知っているだけに、よろしくありません」
以前の彼女。反魂を行う前のリャリスは、イシュラース中を歩き回っていた。自分で素材を集めては、研究に勤しんでいた。あれは趣味だ。インファが会いに行く意味は、シェラの件もあるが、彼女が所望する素材を届けるということもあった。
ジュールとも交流があるらしいが、彼は出てこいとうるさいから頼みづらいと言っていた。責任を感じているルディルは、素材のことにはからっきしで頼めず、実は唯一会うことのできるノインも、その点には疎い。インファしかいないのだ。
それは、なんとも生きづらいだろう。
インファは、素材のメモを楽しそうに見ているインジュを盗み見た。
離婚。それしかないのだろうか。
あの声から察するに、リャリスは以前の姿からはかけ離れている可能性がある。ノインに確かめてみたが、彼は言葉を濁し、言えないの一点張りだった。彼は彼で、間に合わなかったと自責の念に駆られていて、突きづらい。
「それともう1つ、副官としては捨て置けない問題があります」
「風の王を捜す、例の魔物だな?」
「ええ。ノイン、リャリスと話してください。どうやら、旧時代の問題のようですし、その方がいいでしょう」
「了解した。何かわかったら知らせよう」
「お願いします。ただし、くれぐれも1人で背負わないでください。今は、城以外にも頼れる精霊がいます。それを、忘れないでください」
ノインが、仮面の奥の瞳を僅かに見開いたのを、インファは見逃さなかった。風の王の理と力の精霊の何かを手に入れてきたことは気がついているが、この男、1人でできるとでも思っているのだろうか。
「ノイン!狡いです!」
「フッハハハ。妬くな。智の精霊とは腐れ縁だ。面倒を見てやらねばならない」
「それ、ボクがやりますよぉ!だからノインは引退でいいです!」
立ち上がって上から喚くインジュに、ノインは涼しげに微笑むだけだった。
今のリャリスを目の前にして、おまえはなんと思う?ノインはインジュの手首で光るブレスレットを見て思った。
鱗のように組まれた木製の三角屋根が乗る、円柱型の塔を有する小さな城。
今のリャリスの住まいだ。
石を積まれた作られた、灰色の空間の窓辺に、彼女は座っていた。ノインが尋ねると、3階のこの窓辺にいることが多い。この位置からなら、尋ねてくる者の姿が見えるからだ。しかし、外からは人影すら見えない。
「リャリス、調子はどうだ?」
ノインが声をかけると、気怠げに、彼女はこちらを向いた。ヘアリーバイパーの、青みがかったパステル調の緑と茶色の不明瞭なバンド模様が、その顔の肌にまで及んでいる。妖艶な雰囲気はそのままだが、以前の彼女とはその姿形は大きく違ってしまった。
『ああ、いつも通り退屈だよ。インファが持ってきてくれる素材だけが、この退屈さを紛らわせてくれてるねぇ』
「せめてその口調、改めろ」
『なんだい藪から棒に。あんたも知ってるだろう?本来のアタシはこっちだよ』
「いや、違う。オレ達はもう、この神樹の繋ぐ世界の住人だ。旧時代の生き物ではない。リャリス、戻れるだろう?なぜ、戻らない?」
リャリスは、スイとその蛇の瞳を外へ向けた。
『あの人が、ここへ通ってくるのですのよ。この姿を見て、どう思うのかしらね』
その声は、以前のリャリスだった。
「インジュを遠ざけるのはなぜだ?待っている。インジュは今でも、君を待っている」
『知っていてよ。婚姻の証を、身につけていてくださいますもの。あの時、あれと対峙した時、この姿になれることを知りましたわ。ノイン、私、逃れられなくってよ?』
「オレがいる。君は1人ではない。そもそも、あれを退けられない君では、いいようにされるだけだ。あれは、リティルに目を付けた。オレはますます、風の城から離れられなくなった。リャリス、君がいれば心強い」
『私がいることで、おじ様にますます迷惑がかかるかもしれなくってよ?』
「君に何かあることのほうが、迷惑だ」
『あら、ハッキリ言いますのね。そんな愚行、冒さなくってよ?』
いつでも平行線だ。リャリスは封じられることを望んでいる。それをせずにここにこうしているのは、風の城を案じているからだ。封じてしまえば意識は眠る。そうなっては、彼の城に知恵を貸せないと、その想いが思い止まらせている。
今の彼女は、生きることを諦めている。あれと対峙し、あれに支配されていた頃のことを、鮮明に思い出してしまったのだろう。
黄昏の大剣は、そんな彼女を救い出した。その代償は、旧時代の黄昏だった。
何もかもがなくなったあと、芽吹いた1つの芽。あれを見たとき、蛇のイチジクと黄昏の大剣は心から泣いた。そして誓ったのだ。この大樹が夢見た世界を守ろうと。
大樹は、命を望んだ。そして咲いた花に、風がキスしたことでこの世界は始まった。
大樹は、最初の風と花を犠牲に原初の風を作り出した。最初の風と花は、快く世界の柱となることを承諾したのだ。
そうして育まれた心を持たない至宝は、世界を運営する生命・精霊を作り出した。それがイシュラースの始まりだ。
最初に死のない種族・精霊が産み出された為、死を導く力を持っていた風の王の目覚めは遅かった。その為に、野心のあった初代太陽王に、黄昏の大剣と蛇のイチジクは盗られてしまったのだ。
「リャリス、この世界の秘匿された父と母の下に集える。それを、君も望んでいただろう?」
『15代も代替わりする王なんて、関わるだけ無駄ですわ』
「リャリス……」
辛辣な彼女に、ノインは絶句した。彼女は、リティルを慕っていると思っていただけに、ノインの絶望は深かった。
「……また来る」
これ以上問答していては、彼女を罵倒してしまいそうだ。旧時代の記憶が戻っても、ノインにとってリティルは、かけがえのない弟だ。そのリティルを換えがきくと言われたような気がして、さすがのノインも心穏やかではいられなかった。
リャリスは、ノインの僅かに怒りを滲ませた足音が遠ざかるのを、背中で聞いていた。
『……おじ様……私……』
リャリスの蛇の目から、透明な雫が溢れ出した。
『どうか、ご無事で……』
リャリスは、あの時対峙したあれを思い出して、ギュッと瞳を閉じ、化け物となったその身を抱いた。
――怖いのですわ。元のリャリスに戻ってしまったら、もう、あれとは対峙できませんのよ
風の城へ帰りたかった。暖かいあのお城。様々な笑顔に溢れた、命の城。
「離れてても、守ります。ボクのぬくもり覚えててくださいよぉ?いつでも、包んであげますからねぇ?」
その幻の声に、リャリスは瞳を開いた。
『――ダメですわ……私、あなたの婚姻の証、守れませんでしたのよ?』
本人と贈られた者にしか壊せないはずの婚姻の証。あれは、それを壊した。覚えている。この右耳のそばで切り裂かれた、チョーカーの感触を鮮明に覚えている。
私はもう、あなたの妻ではないのですわ。それが哀しかった。そして、よかったとも思った。この本性を知られ、婚姻の解消をされるほうが、哀しい。いくらインジュでも、この蛇を受け入れなどしない。愛されることなど、ない。
反魂の儀式が成功して、シェレラとインティーガが無事逝けたことをインジュは、目が覚めて1番に聞いた。そして、リャリスが去ったことも。だが、リャリスの居場所は判明していて、インジュはすぐに会いに行った。だが会えなかった。それから今までずっと会えないままだ。その理由を、誰も教えてくれない。
「あの人、すぐ逃げるんですよねぇ。ジュールさん、そろそろ理由、教えてくれません?会ってるっていうノインが、昨日荒れて帰ってきたんですよねぇ」
インジュは、魔物狩りの帰りに、太陽の城を訪れていた。
サロンに出てきてくれたジュールに、そう切りだしてみた。
「ノインが怒るとは、珍しいこともあるものだ。リャリスの奴め、わたしには何も言わないが、いよいよ追い詰められているのかもしれんな」
強情で困ったと、ジュールはため息を付いた。
「ジュールさんは会えるんです?」
「まあな。父親のよしみというヤツだな。だが、おまえを連れて行くことはできん。あいつの信用を失うと、閉め出されかねんからな」
ジュールが弱気だ。これは珍しい。
「そんな、警戒してるんです?あのぉ、ヒントだけでもくれません?お父さんは話できるみたいですけど、リティルも無視されてるみたいなんですよねぇ」
リティルには、後ろめたいのだろう。インファは、頼りやすい。ジュールには、リャリスの人選の理由がよくわかる。
「おまえ、年増は好きか?」
「はい?リャリス一筋ですけど、何なんです?」
即答で惚気てきたインジュに、フッと吹き出しながら、ジュールは質問を変えた。
「おまえは、何を持ってして、リャリスだと認識している?」
何なんだ?いったい。インジュは質問の意図がわからないまま、バカ正直に考えていた。
「何を持ってして、です?ええと……あの、食べられちゃいそうな眼差しも好きですし、隙のない冷たい切り返しも好きですねぇ。ああ、淑やかな所作ももちろん好きです。普段澄ましてるくせにウッカリな所も、知ってそうで知らないところも、甘え上手なところも可愛いですよぉ?それと、研究に没頭してる後ろ姿とか、10分きっかりに部屋から追い出されるんですけど、振り返る仕草が綺麗で――」
「おまえは……ベタ惚れだったのだな」
まだまだあったのだが、ゲンナリした顔でジュールが阻止してきた。
「言えって言ったの、ジュールさんじゃないですかぁ!」
「惚気ろと言ったのではない!リャリスだと認識している要素を聞いたのだ。だがまあ、心配はいらんな。さて、それをどうやって信じさせるか……」
「もしかしてボク、好きって気持ちを疑われてるんです?それないですよぉ……リャリス……」
インジュは傷ついた顔をして、俯いた。これにはジュールも思わず慰めようと、腰を浮かせたほどだった。
「こんなことなら……こんなことならあのとき、遠慮なく触ればよかったです!」
「できんおまえでは、欲求不満にさせるだけだぞ?」
「ええー?これ、そんなに重要なんですぅ?」
己の役立たずの下半身をビシッと指さすインジュに、ジュールでさ頭痛を覚えた。
「……おまえが下品になったと、インファに怒られるな……ああ、インジュ、そういうことは、わたしの前でだけにしておくのだぞ?」
「もちろんです!ジュールさんの官能小説朗読会のメンバーにしか、言いませんよぉ」
「おお?そんなもの、開催した記憶はないが、そうか?」
「ジュールさん、ボクは、あの時、リャリスを守れなかったんですか?」
ジュールは押し黙った。エンドと2人、インジュはよく戦った。あの場で、インジュが飛んでくれなければ、リティルも無事ではすまなかった。インティーガとシェレラの命を犠牲にしなければ、命に別状ないとしても、インジュは未だにベッドから起きあがれはしなかっただろう。
いや、自分が傷つくことは、インジュにはあまり重要なことではない。勝手に傷を癒やすために死んだ2人に、インジュは薄情だ!文句の1つも言いたかった!と言って泣いた。そして、「ボクのためなんかに、死ぬ事なんてないんですよぉ……」と悔しげだった。インティーガとシェレラが不幸になったと思ったのだ。
リティルが半ば必死に、2人は最良の死に方を得たんだと言い聞かせていた。2人の命を、背負わせまいとしたのだ。
そんなインジュに、リャリスの失踪は追い打ちだった。インジュは、婚姻の証が壊されたことを、感じていたのだから尚更。
何と言えばいいのか。助けになった?心を守った?どんな言葉で慰めようと、リャリスがいない現状は変わることはない。このままではリャリスは、インジュの前に2度と姿を現さないだろう。我が娘ながら臆病だ。
「守ったのは、ノインだったな。インジュ、気にするな。無力だったのはわたしも同じだ」
そんな顔されたら、落ち込めないじゃないですかぁ!インジュは、いつも自信に満ちあふれて高飛車なジュールが瞳を伏せるのを見た。何が起こるか、すべて知っていたジュールが、1番辛かった。インティーガを黒い触手が掴んだとき、リャリスが窮地に陥ったことに気がついたが、魔方陣を維持していたジュールにはどうすることもできなかった。
ジュールの叫ぶ声が、今も思い出せる。ジュールが叫んだから、インジュは動いたのだ。
インジュが動かなければ、もっと酷いことが起きると思った。ジュールとルディルのことも、守りたかった。
「ジュールさん、ボク、ジュールさんのことも大好きです」
「男に告られても響かん。相手がおまえだと、こんなに萎えるとは思わなかったぞ?」
「ええー?それ、何気にヒドいです!」
「フフフ、頼りにしているぞ?インジュ。気を使わせたな」
照れたように笑うジュールが、とても新鮮だった。
ジュールと風の城の現状など談笑していると、不意に廊下へ続く扉が開いた。
「おう、兄弟!来てたのか?」
現れたのは、ルディルだった。ルディルも元気そうでよかった。反魂の儀式の時、エンドがこじ開けていた扉に、ルディルは飛び込みそうになったのだ。インファは細いが華奢とはいえない体格だが、ルディル相手では細枝に等しい。あのインファが抱きついて止める中、駆けつけたのがノインだった。ノインが行かなければ、体を張って止めようとしたインファを振り切って、ルディルが行っていた。そして今頃……今、こうして豪快に笑う彼には会えなくなっていただろう。
「なあ、インジュ、リャリスに会ってくれねぇ?」
「はい?あのぉ、今ジュールさんに断られたとこですけど」
ルディルはジュールを見た。ジュールが「よせ」と目で言ったのがわかったが、ルディルはジッと見つめたまま動かなかった。ジュールは大きなため息を付いた。
「長兄……リャリスをイタズラに刺激するな。インジュはよくやっているぞ?」
「だがなぁ、奴さん、気がついてねぇぞ?」
ルディルがジュールの「長兄」呼びを否定しないなんて、意外。とインジュは観察していたが「誰が長兄だ!」と言えないくらい、ルディルが真剣なんだと思った。
「何をです?」
「ルディル、せめてシェラが目を覚ますまで待て。それだけの時があれば、あいつも少しは冷静になっているだろうよ」
「ジュールさん?」
「聞くな!今はまだ、リャリスの周りをウロウロするだけにしておけ」
「それは、日課なんでいいんですけど、あれ?ボク、ストーカーです?」
「それでいい。大いにウロウロして、揺さぶってやれ!」
「はい!……って、ホントに大丈夫です?ボク、それで嫌われてるってこと、ないんです?」
「どうなんだろうなぁ?なあ、三男坊?」
弱気なインジュの様子に返答を苦心したルディルは、助けを求めるようにジュールを見た。視線を向けられたジュールにも、何が最善かわからない。引きこもる娘の気持ちも、何も知らされず待つしかないインジュの気持ちもわかる。
ジュールは完全に板挟みだった。
「ジュールさん!黙らないでくださいよぉ!」
「ええい、うるさい!おまえお得意の愛の歌でも歌ってやれ!」
「はい!行ってきます!」
ジュールに怒鳴られたインジュは、弾かれたように飛び出して行った。
インジュの後ろ姿を見送りながら、ルディルが呟いた。
「……あいつ、行動力あるねぇ。てか、おまえさんの言葉には素直に従いやがる」
「何が言いたい?わたしはインジュを、支配などしていないぞ?」
フウとため息をついて、疲れたように頬杖をついたジュールは、ジロッとルディルを睨んだ。そんなジュールにルディルは、ニヤリと笑った。
「それだけおまえを、慕っていやがるってこったなぁ?」
「何をバカな。自分を駒にしか使わんヤツを、慕うはずなかろう?」
フイと視線をそらしたジュールは、照れたのかもな?とルディルは思った。
インジュは、風の城の軍師の息子だ。
長年、父の苦悩をそばで見てきた。作戦を立て、死地へ一家を向かわせる苦痛。その苦痛を受けたくないリティルは、自ら先陣を切る道を選んでいる。いや、風の王はみんなそうだ。ルディルも未だに、誰よりも早く飛びたい。後ろから飛んでくる者の刃が、血で穢れる事がないように。
生き残るため、人を使うインファの苦痛を、インジュはジュールにも感じているのだ。
イシュラースの三賢者の頂点に君臨するジュールは、花の王となったことで、オオタカの翼を失ってしまった。前線に立ち、戦う事ができなくなってしまったのだ。
そんな軍師の策を、完璧な形で終わらせる。インジュはその為に飛んでいる。
初めは、父と同じ苦悩を背負うジュールを、ただ癒やしたかっただけだろう。だが今は、完全に慕っている。それはそうだろうなと、ルディルは思った。
あんな華奢な蝶の羽根で、風の精霊最強を自負する自分を叩きのめすジュールに、惚れないはずはない。インジュも例に漏れず、戦闘狂なのだから。
このオレも、ジュールも、1人が長すぎたな。ルディルは、何か考え込んでしまったジュールを見下ろして、フッと優しい笑みをその荒々しい双眸に浮かべた。
風の王は強すぎた。
だから、15代も代替わりしてしまったのだと、ルディルは思っている。
15代目は、弱すぎた。
だから、生き残った。
しかし、今のリティルはずっと最強の座にいるルディルに迫る、歴代2位に君臨している。そんなリティルに、インファとシェラは枷を付けた。
自分より弱い者と組ませることで、自分自身を過信しないようにと。相棒を守るため、リティルは自分以外に目を向けねばならず、自然と丁寧に戦場を見ている。その警戒が、リティルを守っている。
太陽の領域の上空、リティルはラスと飛んでいた。
「最近、魔物が殺気立ってないか?」
目当ての魔物を狩ったのに、ラスは警戒を解かなかった。そんな心配性な今回の相棒に、リティルは苦笑した。
「気のせいだろ?帰ろうぜ」
リティルの言葉に、うんと素直に頷いたラスだったが、顔は険しいままだった。
魔物が殺気立っている。その言葉を、リティルはよく耳にする。しかも、リティルと組む、相棒から。
リティルと最近組んでいない者に、それとなく聞いてみたが、そうか?という反応だった。
もしや?だとしたら、今後、一定の力以下の者と、オレは組んではいけないのかもしれない。と、リティルは思い始めていた。インファやインジュ、ノインと話し合った方がいいのかもしれない。
「リティル、素材をリャリスに届けたいんだ。魔女の森に寄ってもいいかな?」
「ああ」と答えたが、リティルはあまり行きたくなかった。答えないリャリスの心がわからない。オレの姿を見ることさえ苦痛なら、そんな思いさせたくないと思った。
しかし、彼女は今、シェラの為に動いてくれている。素材集めに協力できないリティルは、リャリスの訪問までやめてしまったら本当に丸投げになってしまうと、それも嫌だなと、自分の立ち位置に困っていた。
進まない気持ちのまま、魔女の森近くに来たときだった。
魔女の森は、だだっ広い平原に、ポコポコといくつもある独立した森の1つだ。ようは、見通しがいい。魔物の奇襲はほぼ考えられない地形だ。
「!」
ヒヤッと冷たい風と感じ、リティルは自然と戦闘態勢に入った。だが、ラスは気がつかなかった。狙われている事にラスが気がつかなかった事に、リティルが気がつくことが遅れた。ラスは警戒心が異様に強い。そんな彼が、気がつかないなんて思わなかったのだ。
「ラス!」
ラスは攻撃される瞬間気がついたが、回避も防御も間に合わなかった。
『か・ぜ・の・お・う・・・』
声を聞いた。声を聞いたが、これまではこんなに強力な気配はしていなかった。それ以前に、声だけだったのだ。耳の良さに定評のあるオウギワシのインジュと、ノインの妻でインジュの姉であるため、同じオウギワシのフロインが声の出所を探していたが、これまで見つけられなかった。
大地から生えるように体を起こしたそれは、人型だった。今まで、霊長類の姿をした魔物はいたが、完全に人だとわかる姿の魔物はいなかった。
あれは新種だ。しかも、特大魔王クラス!
インファとノインは、魔物を強さに応じてクラス分けし、更に大きさを考慮して、インファとリティルが、一家の力量に合わせて狩りの人選をしていた。
クラス・魔王は、最強の強さを誇る魔物の分類だ。そして、特大。それは、最強最悪を意味し、最上級精霊3、4人で対処するべき魔物である事を現していた。
リティルの顎を、冷や汗が伝った。
見誤った。
魔物が突然生まれることは多々ある。そういうときは、一旦回避が基本だ。魔物のクラスを見誤れば、怪我のリスクが増すからだ。
背中から生えた触手のような手の1本に、ラスは捕らえられていた。ラスは上級精霊だが、技量はかなりのものだ。そのラスが、一撃で意識を奪われていた。翼を折られているらしく、不自然に歪んで見えた。
――助けねーと
両手にショートソードと抜いたリティルは、魔物に接近した。魔物は身を僅かに揺らした。リティルに向かい、黒い手が一斉に襲いかかった。息を詰めたリティルは、そのすべての軌道を見切り、掻い潜る。リティルのスピードに空中でついてこられるモノは、そうそういない。
「!」
魔物の顔の前、目も鼻の口もない影が厚みを得ただけのようなその顔の前に、瞳を完全に閉じられずに気を失ったラスが、腕1本で吊り下げられていた。彼の黒い服ではわからないが、その力なくぶら下がった足から、何かが滴り落ちていた。赤い雫――。
「っ!」
リティルは歯を食いしばった。見せつけるように、大きなあれ自身の手が、ラスの体を握る。
間に、合わない……!
リティルを絶望が支配しようとしたとき、ドンッ!とラスの体を握ろうとしていた手が爆発した。ハッと目を見張ると、魔物の体の至る所に、白い線で描かれた魔方陣がこれでもかと展開されていた。
誘爆するように、魔方陣が爆発していく。切り裂かれた触手のような手。爆風に放り出されたラスの落下軌道を予測して、リティルは瞬時に反転、猛スピードで飛んでいた。
空中で受け止めたラスの口から、受け止めたその衝撃で血が溢れて滴った。
こんな……ラスほどの精霊に、一撃で瀕死の重傷を負わせるなんて……!
『こっちだよ。リティル』
リティルは、嗄れた老婆の声を聞いた。視線を向けると、魔女の森が見えた。緑の平原に、灰色をかぶったような色の森。異質で目立つ森だ。
リティルは、落ちるように森へ飛び込んだ。
『ああ、ラスの警戒網に引っかからなかったのかい?こざかしいヤツだねぇ』
魔女の居城の前に落ちたリティルの前に、シュルリと影が動いた。気怠げな声が呟いた。顔を上げたリティルは、目を見開いた。一瞬、2代目智の精霊と見間違えたのだ。
彼女はヘアリーバイパーの下半身に、4本の腕を持つ、黒い真っ直ぐな髪の妖艶な美女だった。目の前に現れた、その人の後ろ姿に、彼女を思い出したが、すぐに別人だとわかった。目の前にいる者の髪はサファイアブルーですべて生きた蛇だった。そして、4本の腕には、ヘアリーバイパーの鱗が生えていた。
『ただの魔物なら、誰でも退けられるってものだねぇ』
見上げたリティルの目に、連続で空中に展開される魔方陣魔法で、一方的に嬲られる魔物の姿が映った。
『か・ぜ・の――』
『ああ、うるさいねぇ』
蛇は、片手で水平に空を切った。魔物の眼前に巨大な魔方陣が描かれていく。
バラの花。あのモチーフは、ジュールが好んだ紋章だ。バラ色の槍が、魔物の顔面を貫いていた。崩れる形。蛇は、たった1人で最強クラスの魔物を屠った。
崩れ消える黒を冒すように、散り舞った深紅のバラの花びらが、リティルの上にも落ちてきた。蛇が振り向く。
リティルは、ただ、彼女を見上げていた。
リャリスは、こういう姿をインジュに見せればいいのかもしれないと、思った。百戦錬磨の風の王の思考を停止させるほどの、陰惨な殺戮。あれが人型をしていたために、余計に浮き立つだろう。
「リャリス……リャリスだよな……?」
リティルは瞬きを忘れているらしい瞳で、その名を呟いた。
「リャリ――あ……ラス!おい、しっかりしろ!」
リティルは、腕に抱いたラスの存在を思い出したらしい。ゆっくりと地面に横たえると、息や鼓動を確認し始めた。リャリスはそっと爪の長い節くれ立った人差し指で、ラスを指さした。
柔らかな白い光で、ラスの体の上に魔方陣が描かれる。
『応急処置だよ。……アタシの住まいに運びな』
リャリスはシュルリと踵を返し、城に向かって行ってしまった。リティルは、慌ててラスを背負うと、彼女の後へ続いたのだった。
襲われたのが、森のそばでよかった。
リャリスは内心ホッとしていた。もう少し遠かったなら、間に合わなかった。
駆けつけたとき、ラスが死んだと思って、心臓が止まりそうになった。だが、精霊は死ねば、途端に体の分解が始まって、肉体は消え去る。体が留まっているということは、まだ、生きているということだ。
だが、一刻の猶予もない。まだ、体の分解は始まっていないが、心臓はとうに止まっている。応急処置で、無理矢理心臓を動かしたが、本格的に治療しなければ、この延命も無駄になる。
リティルを城へ招いたリャリスは、あらかじめ描いておいた魔方陣を起動した。
こんなこともあろうかと、城に入ってすぐの円形の玄関ホールに、治療のための魔方陣を仕込んでいたのだ。
あれが、ただの魔物でよかった。もしも、死の力があったら、ラスは助からなかっただろう。
『?これはこれは、お兄様、さすがだねぇ』
怪我の具合を診ようと、ラスの服を破いたリャリスは、彼の首から提げられた首飾りに気がついた。小さな涙型の結晶。それからは、インジュの力を感じた。これは、ラスに贈られた物ではない。持ち主の特定されていない力を感じた。
「何だ?」
リティルは知らなかったようだ。躊躇いがちに、だが心配で居ても立ってもいられなかったのだろう。ラスの体を覗き込んだ。
『ああいうヤツに遭遇した時の為に、対策を講じていたのさ。インジュにそんな頭があるとは思えないからねぇ。インファだろう?』
一撃で死ななかったのは、インジュの力が働いたからだ。それは今も、首飾りを身につけている精霊の命を守っていた。心臓が止まっても殺させないなんて、本当に死をトコトン退ける死の天敵とも言える力だ。
『これなら、アタシの力は必要ないねぇ』
魔方陣の治癒だけで、何とかなりそうだ。リャリスは、ラスの服を正した。リャリスは、ラスを覗き込んで悔しげに頭を垂れるリティルを見下ろした。
『リティル、インジュが無理に門をこじ開けた為に、完全に閉じていないようだよ』
「どうすればいい?」
リティルは顔を上げなかった。
『勝手に門は閉じる。それまで、城で大人しくしていることだねぇ』
「おまえ……嘘つきになったか?」
嘘は言っていない。門は、勝手に閉じる。だが、こちらから働きかけて、閉じることもできる。しかし、それを風の王自ら行えば、あれは、飛んで火に入る夏の虫と思うだろう。
『心外だねぇ。ルディルに迎えに来させるから、風の城に帰りな』
リャリスは、シュルリとリティルを置いて、2階への階段を上がった。
リティルはジッとしている王ではないが、あんな魔物が出てきてしまった。城に閉じこもっていたほうがいい。花の姫の目覚めも急いだ方がいい。
門の状態も把握した方がいいかもしれない。だが、門を見つけられるのは、ノインとリャリスだけだ。状態を診られるのは、リャリスしかいない。
リャリスは、思わず自分の身を抱いて身震いした。元のリャリスの姿で受けた屈辱が、この化け物の体に蘇ってきたのだ。あれは、リャリスが経験がないことを見抜いていた。リャリスも、交わりの快感があんなモノでないことくらい、わかる。あれは、リャリスを侮っていた。だが、風の王を見つけた今、リャリスが門に近づけば、躊躇いなく蹂躙してくるだろう。風の王をおびき出す餌として。
リャリスは、自分の身を見下ろした。痛みも苦しみも物ともしないこの体。淫乱な蛇をねじ伏せられるのは、この身に刻み込まれた快感だけ。蛇のイチジクは、言うことを聞かせるため、薬と魔法によってそんな体にされてしまったのだ。黄昏の大剣が助けてくれなければ、地獄の快感に正気を失ったままだったかもしれない。
リャリスは、机の上に置かれた水晶球に近づいた。
『ルディル、ラスが魔物にやられたよ。リティルと一緒に匿ってるから、迎えに来な』
『なんだと?すぐ行く』
『ああ、1人で来ない方がいい。ジュールとそうだねぇ、インファも連れておいで』
『インファもか?いいのか?おまえさん……』
インファには、姿を見せてなかっただろう?そう続けたかったに違いない。
『ああ、構わないよ。アタシのことより、風の王の方が大事だからねぇ』
思わず、ノインを外してしまった。だが、インファに知っておいてほしいこともある。
あとは、私の身の振り方。ですわね。とリャリスは哀しげに微笑んだ。
階段を上がってくる気配に気がついて、リャリスは気怠げに視線を向けた。
「リャリス……」
『ついに見られちまったねぇ。驚いたかい?』
リャリスはスッとリティルに手の平を向けた。リティルの体の前に白い線で、魔方陣が描かれた。リティルには辛うじて『洗濯』と読めた。リティルの体は、ラスの血で汚れていた。その血を洗濯したかのようにきれいにしたのだ。リティルのこんな血まみれの姿なんか見たら、ここへ来るインファ以外の2人が発狂する。とリャリスは何となく思ったのだった。
リティルは血の痕の消えた服を見て「すげーこの魔法ほしい」と感心していた。すぐに怪我する彼の事だ、怪我したことを誤魔化せるとでも思ったのだろう。
「……なあ、リャリス、風の城に戻って来いよ」
躊躇いがちに、だがリティルは真っ直ぐリャリスを見てそう言ってきた。
ああ、おじ様……。そう言って、説得されることが怖くて、リャリスはこれまでリティルを無視してきた。彼の父性は、実父・ジュールを上回るほどで、1人で心細いリャリスは簡単に落ちてしまうと思えた。
「姿の事なんて、気にするなよ!誰も気にしねーよ」
それは……その通りなのだろう。あの城の住人は、色々寛大すぎる。
リャリスは、リティルから視線を外した。
『できない相談だねぇ』
「……インジュの事だよな?おまえ、今のおまえ見て、インジュが婚姻の解消すると思ってるのかよ?」
リャリスには、答えられない。インジュがどう出ても、リャリスには彼の決定に従うしかない。
婚姻を解消されるなら、それは自然なことで、受け入れられるなら、今まで通り彼のそばにいるしかない。リャリスに、決定権はない。インジュに、婚姻の証を贈ってしまったときから。
「リャリス!あんな魔物がいるんだ、おまえ1人じゃ危険だぜ!」
『あんたが城から出なければ、出てこないさ。あれは、そういう代物だ』
「だとしても、おまえ、動くよな?ノインから聞いた。インジュがおまえを……守り損なったこと。なあ!インジュにもう一度、チャンスをやってくれねーか?それか――」
リャリスは、振り向かされていた。
「それか、あいつに引導、渡してやってくれ」
決定権は、インジュにしかないと思っていた。
リャリスの方から、別れを告げるという選択を、まるで考えていなかった。リティルに突きつけられて、リャリスは気がついた。
この手で、インジュとの関係を断ち切ることもできるのだ。と。
『そんなことが……』
「何言ってるんだよ?婚姻の解消は、双方の権利だろ?おまえが放棄すれば、インジュは従うしかねーじゃねーか。そのあと、もう一回口説くかどうかは、あいつ次第だけどな」
対等の関係。リャリスは戸惑った。インジュに支配されたことなどないのに、勝手に、婚姻を承諾したら、インジュに従わなければならないと思っていた。
『だったら、もう答えは出てるじゃないか。アタシはもう、インジュの婚姻の証を持っていないよ』
そうだ。あれに壊されてしまった。あの瞬間から、リャリスはもうインジュの妻ではないのだ。
「へ?おまえ、持ってるじゃねーか」
リティルが瞳を見開いた。彼の言葉に、リャリスも瞳を見開いた。
「リャリ――」
固まるリャリスに向かい、リティルが一歩を踏み出した時だった。階下が騒がしくなった。
リティルが階段を振り返ると、ルディルとジュールが上がってくるところだった。
「大丈夫か?リティル!」
駆け寄ってきたルディルに、リティルは抱きしめられていた。こういう役は、ジュールじゃないのか?と思ったが、ルディルを過剰に心配させたことはわかった。
「ああ、オレは無傷だぜ?けど、ラスが……」
すぐに体を離したルディルは、リティルの小さな体を支えるように、大きな両手で両肩を掴んでくれていた。
「あれに遭遇して、命があったのは幸いだ。インジュのヤツを脅して、護符を作っておいて正解だった」
悠々と近寄ってきたジュールが、安堵のため息を付いた。
ジュールの言葉から、ジュールはあれが生まれてくることを予測していたことを知った。そして、対策してくれていたことも。
「あれを、おまえが?」
「そうだ。インファに、おまえと組む者に必ず持たせろと頼んでおいたのだが、効果があってよかったぞ」
「オレに言っとけよ!」
「おまえは、軍師殿に信用されていない様子だな。風の王を捜す魔物が、どれほど危険なモノかをおまえが知れば、無茶をすると思われたのだろう?」
フフと、ジュールが甘やかに微笑んだ。リティルは、不甲斐なさが込み上げた。そして、ジュールに噛みついてしまった。
「うっ!……オレが餌なら、オレが出ればいいじゃねーか」
「馬鹿者!死を侮るな!おまえは近づくな。我らの誰に、何があってもな」
ジュールの怒りの声に、リティルは足から力が抜けそうになった。それに気がついたルディルが、肩を掴む手に力を込め、上に引っ張ってくれた。
ただジュールの顔を見返すしかできないリティルにため息を付くと、彼はルディルからリティルを受け取ってギュッと抱きしめた。
「無事でよかった。ラスがやられたと聞いて、この兄達は、息が止まるかと思ったのだぞ?」
耳元で囁くような優しく甘い声が、リティルの心に染みこんできた。急激に心が安堵した。
狡いじゃねーか。そう思ったが、こういうことをするのが風の王兄弟の三男だ。
「ジュール……ルディル……」
「恐ろしい目にあったな。ラスは生きている。大丈夫だ」
本当に狡い。泣かせるか?風の王を、こんな、こんな子供みたいに!そう思ったが、溶かされた恐怖が、目から溢れ出すのを止められなかった。
「リティル、おまえさんはこのオレ達に甘えてりゃいい。今回はマジでヤバイからなぁ」
「風の王のオレがしらねーのは、不公平じゃねーか!」
ガバッと顔を上げたリティルの頬を、ジュールはすかさず拭う。
「安心しろ。もっと不公平なヤツが1人いるぞ」
「ああ、ラスがやられて、インファが呼ばれて、相当に凹んでるヤツが風の城にいるわ」
「はあ?インファ?どうして、インファ?」
ノインじゃねーのかよ?リティルの声はそう言っていた。
「だろう?今頃次男はインジュと傷を舐め合っているだろうよ。リャリス、ノインとケンカでもしたのか?ヤツを遠ざけてもいいことにはならん。おまえは、インジュの事も遠ざけているだろう?2人の助力なくして、乗り切るのは難しいぞ?」
ジュールに突きつけられ、リャリスはあからさまに嫌そうにため息を付いた。
『わかってるさ。インファ!上がっといで』
リャリスが声をかけると、程なくしてインファが階段を上って姿を現した。
インファはリャリスを見ると、納得したように頷いたが、それ以上の反応は見せなかった。
「オレが呼ばれた理由、説明してくれますか?」
ルディルがラスについててやると階段を降りていき、インファはリャリスの前に立った。
『シェラの目覚めを、急ぐことにしたんだよ。このメモにある素材を、大至急集めな。集まったら、ジュールに渡しとくれ』
「おまえがやらんのか?」
ジュールは別に構わないという態度だったっが、リャリスを見上げた。
『ここじゃ機材が足らないからねぇ』
「なあ、風の城に戻ってこねーのかよ?インジュがっていうなら、太陽の城に行かせとくぜ?」
リティルは心配顔で、再び提案してきた。インファがいる今、リャリスは分が悪い。
「インジュは応じると思いますよ?」
『アタシの勝手で、追い出すわけにはいかないだろう?』
「オレとしては、風の城に戻るか、ノイン、もしくはインジュといることを提案しますね。あなたは、何かをしでかすつもりですよね?」
『アタシじゃ何ともならないさ。ともかく、あんなモノが出てきちまった以上、花の姫には目覚めてもらわなくちゃならない。シェレラをインティーガと逝かせるのは早まったかもしれないねぇ』
「あいつは、オレの花の姫じゃねーよ。シェラがいると、どういいんだ?」
『花の姫は産む力と無限の癒やしだ。インジュ同様、あれを遠ざけられるんだよ』
「なんとしても、あれに風の王が取り込まれることは阻止せねばならないのだ。取り込まれれば、この世界、終わるぞ」
「なんだよ?オレ、責任重大じゃねーか。うーん、オレ、城にいればいいのか?そうすれば、あれ、出てこねーのか?ホントか?確かか?」
「今まではそうでしたが……」
インファは、ジュールを伺った。
「状況は変わるかもしれんな。リティル、魔物狩りは、わたしとルディル、ノインとインジュを軸に組め。なに、わたし達なら奇襲に遭ってもなんとかなる」
「……オレ、守られるだけなのかよ?」
「シェラが目覚めるまでの間だ。辛抱しろ」
ジュールの言葉にも、リティルはなかなか承諾しなかった。リティルは、新種の魔物と渡り合う力がある。対峙したリティルは、わかっているだろう。それなのに、ジュールとルディルが飛び、自分が城に残らねばならないことが悔しいのだろう。彼等が元風の王だとしても、リティルは現在の風の王だ。どんな脅威にも立ち向かうのが、風の王だ。上に立つ者の姿勢としても、受け入れがたいのだ。
『おじ様、おば様が目覚めればいくらでも反撃できますわ。その機会、ご用意してさしあげてよ?』
耳を疑って、顔を上げたリティルに、リャリスは姿を偽ったまま妖艶に微笑んで見せた。
「リャリス……わかったよ。けどな、オレがただ守られるだけの屈辱受けてやる代わりに、おまえ、風の城に戻って来いよ。そしたら、大人しく軟禁されてやるよ。こんなところに1人で置いておくの、心配なんだよ!」
心にあることを正直に言ったつもりだった。訪れた沈黙に、どうかしたか?とリティルはかなり上にあるリャリスを見上げた。するとリャリスは、不思議そうな顔をして、しげしげとリティルを見下ろしていた。
『アタシが心配だって?面白いことを言うねぇ』
「面白れーか?オレには今でも、研究者気質でしっかりしてるかと思えば抜けてて、妖艶なくせに純情な智の精霊にしか見えないぜ?」
そう言って笑ったリティルの言葉に、ジュールが高笑いで割り込んだ。
「旧時代の記憶があろうがなかろうが、その姿を著しく変えようが、おまえの本質が変わったわけではない。わたしが言っても響かせられなかったが……リャリス、納得しただろう?」
図星だった。リャリスは、無意識にインファに視線を送っていた。視線に気がついたインファは、ニッコリと微笑んだ。リャリスと会うことができる全員が、ジュールと同じ事を言った。そして、風の城に帰ってこいと何度、説得されたかわからない。それを、すべて拒否した。拒否できた。
そういうことを言わなかったのは、インファだけだ。
微笑みを浮かべたインファは言った。
「あなたの心は、決まっているでしょう?インジュの事は気にしないでください。オレ達はあなたを、歓迎しますよ」
風の城に帰ることを、承諾するしかなかった。このまま、ここに1人で取り残されたら、しばらく立ち直れないと薄々感じた。
風の城の空気を作っているリティルとインファ、その2人に会ってしまったら、リャリスは今の自分を保てないと悟っていた。だから、インファには声だけ、リティルに至っては拒絶するしかなかった。インファはきっと、帰ってこいとは言わないと、わかっていた。待ってくれる兄に、通ってきてくれるその姿と頼もしい声に甘えていた。
「帰ってこいよ、リャリス。オレ達がおまえを守ってやるぜ?」
リャリスは一瞬身を退いたが、リティルに捕らえられていた。
リティルに会うことも、その声を聞くことも拒絶したのは、会ってしまえば、リャリスの張った虚勢が、脆く崩れ去ることがわかっていたからだ。
こんな化け物の女を、元のリャリスと同じように抱きしめてくれる小さな体に、リャリスは縋っていた。
『おじ様……私――本当は……』
「わかってる。今まで1人で、よく頑張ったな」
気味の悪い蛇に変わった髪に頬を寄せ、リティルはヨシヨシとその頭を撫でた。
心細さと恐怖が溶ける。戦いは始まったばかり。風の王を守れるのか、リャリスには不安しかなかったが、今は、大きなリティルの風を感じながら、あの場所に帰れる、あの場所にいて大丈夫なんだと瞳を閉じた。
風の城に、リャリスが帰ってきた。
それに伴い、インジュは太陽の城に出張していた。
ルディルは、姿見の置かれている玉座の間に何気なく足を踏み入れた。インファから、魔物狩りの要請があったのだ。ルディルは、オレンジ色のオオタカの翼を広げ、飛び立とうとグッと足に力を込めた。
「……インジュ?」
無駄に高い階段の上に、人影があった。姿見の前に立っているのは、この城にはない金色。遠目で定かではないが、背格好からして、この城に不本意な出張をしている煌帝・インジュだと思った。ルディルはこちらに背を向けて立っているその背後、頭上に音もなく舞い上がった。
インジュは、姿見の中を見ているようだった。普段は、このホールの様子を映している姿見だが、ギリギリに立つと、繋がっている風の城の応接間が朧気に見える。
ルディルは何をしているのか察し、ブッと吹き出していた。その声に、インジュがビクッと身を振るわせて、恐る恐る振り向いた。
「おま……ククク、ガハハハハ!ストーカー……!」
「言われなくてもわかってますよぉ!ダメだってわかってても、どうしようもないんですよぉ!」
インジュはカッと頬を赤く染めると、笑うルディルに開き直った。
「ガハハハハ!それで?見えやがるのか?」
「……はい、少しは……リャリス、あの姿を見られたくないんです?それとも、あの声が問題なんです?」
リャリスは自室から殆ど出てこない。それは、シェラを目覚めさせる薬を調合している為だが、本当に滅多に応接間に出てこないのだ。
「おまえさん、奴さんが応接間に出てくるのが、わかりやがるのかぁ?」
頻繁に風の城の出入りをしているルディルでさえ、彼女のアトリエに行かなければ応接間で遭遇することは殆どなかった。それなのに、リャリスの姿、声を知っているインジュに、純粋に疑問をぶつけただけだった。
インジュは、うっと押し黙った。そして、縋るような視線を向けてきた。
「誰にも言わないでくれません?実は、ですねぇ」
それを聞いたルディルは思わず、大声を出していた。
「あ?シャンデリアに盗聴器しかけていやがるって?」
「大声で言わないでくださいよぉ!やり過ぎだってわかってます。でも……わけもわからず避けられるのは、ちょっと……だいぶ、傷つくんですよねぇ……」
確かに、インジュの今の現状は不憫だとしか言いようがなかった。
「あー、このオレにもわからんわ。すまん」
「いいえ。ボクも、このままじゃすませませんから」
俯いて呟いたインジュから、何か不穏なモノを感じた気がして、ルディルはその顔を覗き込もうとした。するとインジュはパッと顔を上げた。そこには、いつものフワリと柔らかい笑みしか浮かんではいなかった。
「風の城の事、お願いします」
インジュは、オウギワシの翼を広げ、階段を一気に舞い降りて行ってしまった。その後ろ姿を、ルディルは首の後ろを掻きながら見送り、踵を返すと、鏡のゲートを越えたのだった。
インジュは、思い切って姿見に顔を突っ込んだ。水の膜を越えるような感触が顔を通り抜け、インジュは瞳を開くと、見慣れた風の城の応接間が目の前に広がっていた。インジュはそのまま、キョロキョロとあたりを伺った。
盗聴器のことを、ルディルは言わずにいてくれた。インジュがこんなことをしているのは、応接間に何の物音もしなくなったからだ。
何日かぶりに目にする風の城の応接間には、誰の気配もしなかった。リャリスは、きっとアトリエにいる。彼女も城の外へ出ることを禁じられているからだ。リティルは、寝室にあるシェラの体のところに行くと言う声が聞こえていた。たぶん、しばらく戻ってこない。
「はあ、こんな忍び込むようなマネ、しないといけないなんて……」
「インジュ?」
「うひゃあ!って、ノイン?いたんですかぁ?」
「失礼しました!」と逃げようとしたインジュを追って、ノインは手を鏡の中に差し込むと、彼の腕を引っ張り出した。
「なぜ逃げる?」
「逃げますよぉ!ボク、今、出禁ですよぉ?」
「では、なぜ来た?」
「来たっていうか、覗いてたっていうか、ノイン、隠れてました?」
「オレがいなかったとしても、ゾナが常にいる」
ノインは強引にインジュを応接間に引っ張り出しながら、暖炉のそばの肘掛け椅子をチラッと見やった。その席には、一冊の魔導書が常に置かれている。気が向くと人型になっているが、イシュラースの三賢者の1人、時の魔道書・ゾナの定位置だ。
「そ、それはそうですけど……は、離してくださいよぉ!」
ゾナは隠者だ。必要以上には関わってこない。インジュがコッソリ応接間に来ても、きっと見逃してくれると思っていた。いや、こうやって覗いていたことを、ゾナは知っていた。知っていて、ノインに教えた?ゾナ!裏切り者!と、味方に付けてもいないのに、インジュは理不尽に思ってしまった。
「ま、マズいですよぉ!リャリスと鉢合わせしちゃったら、どうしてくれるんですかぁ?」
「おまえは夫だ。コソコソ隠れる必要はない」
「それ、解消されちゃったら、どおしてくれるんですかぁ!」
インジュは、バンッとノインの腕を振り払っていた。インジュはノインを睨み、その息が少しだけ上がっていた。どうやら、感情が高ぶっているらしい。フウと息を吐くと、インジュは表情を改めた。
「……帰ります」
「インジュ!リャリスの過去を、知る気はないか?」
はあ?とインジュはあからさまに嫌そうな顔をした。……そうなのだ。彼はこういう男だ。過去の一切に興味がない。これからにしか、目を向けない。
「知っても知らなくても、ボクは何も変わりませんよぉ?第1、過去って何ですかぁ?とっくに終わってる、この世界でもない世界の事じゃないですかぁ」
「オレにも終わった物語にすぎない。だが、リャリスには違うようだ。インジュ、聞いてくれないか?」
視線をそらしたインジュの肩に、ノインは触れようとした。その刹那、ギロッとノインに合わさった視線。ノインは咄嗟に状態を後ろにそらしていた。その鼻先を、インジュの拳がかすめた。反射的に距離を取る。
「インジュ……?」
トンッとインジュが軽く踏みきって、今度は堂々と仕掛けてきた。連続で繰り出される鉄拳を、ノインは避け続けた。ノインに腕を叩かれ、蹌踉めいたインジュは床にドンッと足を踏みしめた。至近距離で見つめ合う2人の間に、しばし静寂が訪れた。
「――目障りなんですよぉ……ノイン!」
足払いを仕掛けてきたインジュを避け、ノインは濡羽色のオオタカの翼で空へ逃れた。それをインジュは追撃していた。殴りかかったインジュをギリギリで躱したノインは、トンッとインジュの背を押していた。ガシャン!とインジュはシャンデリアに突っ込んで、クリスタルの飾りが数個床に落下した。
「リャリスの事……ボクの方が知ってるのに!」
インジュは手にしたクリスタルの丸い飾りを、ノインに投げつけていた。顔面に飛んできたそれを、ノインはパシッと片手で受け取っていた。
彼の手の中で、クリスタルの飾りが粉々に崩れ去る。
「――リャリスは、男性が苦手だ」
「!?」
ノインは長剣を抜いた。そして、切っ先をインジュに突きつける。インジュは、空中で手刀を構えた。
「女性の様な容姿のおまえは、恋愛の真似事をすることに、都合がよかったのだろう」
ノインは、ヒュッと剣を左の肩口に引き寄せると、インジュに仕掛けていた。
「リャリスは、婚姻に絶望しか感じない」
斬りかかってきた剣を避け、インジュも仕掛けるがすべて紙一重で躱されてしまう。
「嘘です!だったら、リャリスが――」
ボクを、ボクを受け入れてくれるはずがないじゃないですか!振り切ってしまった無防備な腕を、ノインに取られた。
「偽りではない。リャリスにとって、婚姻とは……」
投げられた。どんっ!っとインジュの背中は、象眼細工の床に叩きつけられていた。
「支配でしかない」
う そ だ ・ ・ ・
息が詰まって動けないインジュの喉に、ノインは長剣の切っ先を突きつけた。
「リャリスがおまえに興味を持ったのは、原初の風だからだ。原初の風は、謎の多い至宝。心を持ち、一片がおまえという精霊になりたくて産まれるという、あり得ないことまで成し遂げた。リャリスは興味と探究心という執着を、おまえへの恋心だと錯覚しただけだ」
「!」
インジュは歯を食いしばると、体を起こしながら、突きつけられた切っ先を手で払った。インジュに触れられた刃が粉々に砕かれた。
このまま次の攻撃に――背中に走った痛みに、一瞬体を強ばらせたインジュの左の肩口に、ノインは鞘から抜かない黄昏の大剣をトンッと乗せた。
「うあっ!ぐぐっ……!」
ノインはただ剣を肩に置いただけだというのに、押さえつけられるような重さを感じた。気を抜けば、肩を砕かれそぎ落とされてしまいそうだった。
「嘘だと思うのなら、リャリスにおまえの遺伝子わたしてみろ。途端に興味を失うだろう」
遺伝子?とインジュは、重みに耐えながらノインを睨みながら見上げた。
「蛇のイチジクは、遺伝子を摂取することで、知識を取り込んでいた。淫乱な穢れた蛇と言われる所以が、そこにある」
それを、口にすることもおぞましい方法で強要されていたことは、黙っておこうと、ノインは剣を退いた。凄まじい重さから解放されたインジュは、ガクリと頭を垂れ両手をつくと、荒く呼吸を繰り返した。左肩が痺れて、ついた手が情けなくガクガクと震えていた。
部屋に、別段封印はかけていなかった。ノインの言葉に動揺していたインジュは、リティルの気配がここへ近づいていることに気がついて、バッと翼を広げると、大鏡を越えていた。
「ノイン!」
インジュが逃げるのと、城の奥へ続く扉が開くのは同時だった。
「ああ、リティル」
リティルは、床に広がったヒビを見て、ため息を付いた。この部屋は、戦場になる可能性が最も高い。それ故、この城で2番目に壊れない部屋なのだ。
それなのに、このヒビ、インジュの体は大丈夫だろうか。まあ、彼には超回復能力の上をいく回復能力がある。大事ないとは思うが、それにしても……。
「手加減してやれよ……」
一家同士の小競り合いを、風の城を吹き抜ける風はいちいちリティルに告げない。その風が警鐘を鳴らしたのは、ノインが黄昏の大剣を使ったからだ。
リティルも誰かが応接間で一戦やり始めたのは感じたが、気に留めていなかった。慌てて飛んできたのは、ノインが黄昏の大剣を、いないはずのインジュに使ったと知らされたためだった。
「それは、風の最強精霊に対して失礼ではないのか?」
涼やかに微笑むノインに、ジトッとした目をリティルは向けた。
「世界最強のおまえが言うのかよ?」
「インジュが本気なら、その地位も危うい。彼は、そういう精霊だ。だが、一応の手加減はした。あちらも本気ではなかったからな」
リティルは、落ちていたクリスタルの飾りを拾い上げた。そこに宿っていたインジュの風を消し去る。この部屋が盗聴されていることには気がついていた。それをしたのがインジュだと知ったのは、少し前だ。
ゾナから、インジュが誰もいないときに応接間を覗いていたと聞いた時、その可能性を感じた。そして、ノインの妻で、インジュの存在的姉であるフロインに頼んで調べてもらった。フロインは、リティルの中にある原初の風半分の意志から生まれた精霊だ。インジュの風を正確に感じることができるのだった。
リティルは、しばらく風の囁きに耳を傾けた。そして、ここであった今し方の会話をすべて聞き終えると、ノインを見上げた。
「なあ、どこまでホントなんだよ?」
リティルは、集まってきた召使い精霊の金色のスズメに、クリスタルの飾りを渡した。スズメは、この城の修繕や掃除をしている。この床のヒビも、数分で元通りだ。
「すべて事実だ。語らなかったことがあるだけでな」
「そこが重要なんじゃねーのかよ?あいつの男としてのプライドへし折っちまって、あいつ、女顔気にしてるんだぜ?」
顔は優しいが、彼を女性と思う者はいないのでは?と、嫉妬を滲ませて猛然と立ち向かってきたインジュの姿を思い出した。
そもそもリャリスが、インジュを男と認識していないのに、好意を抱いていたとしたら、それはかなり問題なのでは?とも思った。不能であるということで、ハードルは低かったかもしれないが、リャリスの中で、インジュは初めから男ではあったと思う。
「さてな。オレもいい加減、嫉妬されるのは鬱陶しい。リャリスにとって、オレは男ですらない。ただのノインだ」
「それでも十分特別じゃねーか」
「特別なものか。特別だというのなら、愛の言葉とともに証を贈られたインジュだ。それがいかに特別か、わかっていないことが、腹立たしいな」
リャリスにとって、婚姻の証を贈り返して完全な夫婦となることは、決死の覚悟だったことだろう。『妻、妃』という言葉に蛇のイチジクは支配され、人権を奪われ続けた。婚姻にいい思い出などこれっぽっちもないどころか、完全なる地獄だった。インジュを好きで信じてはいても、男性という部分を恐れていたはずだ。
そんなリャリスから心を、インジュは与えられた。原初の風だとか、穢れた蛇だとか、そんな言い訳を、あのリャリスから取り去ったのだ。
オレに嫉妬などしていず、もっと、重く受け止めてほしいと、ノインは僅かに怒りを感じていた。リャリスをこの世界に繋ぎ止められるのは、心を得たインジュしかいないのにと、憤りを感じていたのだ。
「おまえ、保護者なんだな?」
ノインの静かな苛立ちを感じ取り、リティルは苦笑した。
「そのつもりはない。リャリスは同じ王に仕える仲間だ」
「オレにとっては、おまえは兄貴で、リャリスは可愛い姪だけどな。なあ、遺伝子って、あれだろ?精子。不能のあいつはどうやって渡すんだよ?」
「オレに聞くな」
視線をそらしたノインに、リティルは純粋な疑問だろ?と遠慮なく笑った。
リャリスは、風の王の養子の次男・レイシから、その姿のままなのか?と問われた。
怖いか?と問うと、彼は「はあ?」と眉根を潜め、倍ぐらい背が高くなったから、話しづらいと言った。それに、前のリャリスの方が好みだったと言われた。
「インジュがノインと大喧嘩したの、知ってる?2人、リャリスを賭けて戦ったんだってさ。モテるね。ところで、ノインとインジュ、どっちが好みなの?」
レイシは、10代後半の姿をしたちょっと意地悪な青年だ。ノインは妻帯者だし、彼もリャリスがインジュをずっと好きだったことを知っているだろう。これは、言葉の通りの問いではないのだろうが、出禁になっているインジュが、風の城の応接間でノインと戦ったという事実に、リャリスがずっと考えないようにしていたことを、考えてしまう切っ掛けとしては十分だった。
いったい何があったのか。モテたわけではないことは確かだが、あの2人はなぜ戦う羽目になったのだろうか。リャリスは、ハッと我に返った。そして、いけない、いけない、薬の調合の途中だったと、手を動かし始めた。
あと少しで薬が完成し、水晶球の中でしか会ったことのない花の姫・シェラに会える。
風の王・リティルが寵愛する、清楚で可憐な美姫。清涼で幾重にも重なった花が綻ぶような微笑みで、この城の幸せを守っていた。一家の皆が慕う、聖母だ。
「シェラ、やっと君に触れるな」
深夜、応接間で水晶球に話しかけるリティルの声を聞いてしまった。疲れて、気分転換しようかと、アトリエから応接間に続く扉を開いたところで、風がその声を運んできたのだ。
「ずっと監視できなくなるから、心配だって?はは、そういうなよな」
シェラが、リティルも心にいなければならなくなった、直接の原因はリティルだった。リティルは、体から抜けて、意識体だったシェラに弓引いたのだ。やむを得ない事情があったのだろうが、妻に攻撃を仕掛けなければならない状態とは、いったい何があったのだろうか。そんな、夫に殺されかけたというのに、2人は、寄り添う姿は見えなくても、仲睦まじいのがリャリスにもわかるほどだった。
「シェラ、ごめんな。拒否するなよ!謝らせろよ。ごめん。ああ、オレも、愛してるよ」
そう言って、感情が高ぶったのか、リティルはシェラの姿を映している水晶球を、抱きしめていた。
――愛してるよ……
その言葉しかないから、その言葉を使う。そんな風に聞こえた。あんな、使い古された愛の言葉が、胸を締め付けるように切なく聞こえることを、リャリスは初めて知った。
リャリスの知っているその言葉は、縛り付ける呪いでしかなかった。
リャリスはそっと扉を閉めた。トクン……トクン……もどかしく打つ鼓動。リャリスの脳は、彼の声で自分が言われる想像をしてしまった。胸が苦しい。
彼が男性なのだと認識したあの夜、リャリスは煌帝・インジュの妃になった。
欲望はあると教えてくれたのに、インジュはそういうことを一切せず、キスさえせずに眠りに落ちた。
初夜だったのに、こんなことがあるの?と朝目覚めたリャリスは思ってしまった。確かに、拒否することを言ってしまったが、夜は長かった。どこか嬉しそうに、後ろから抱きしめていたのだから、甘い雰囲気に持っていこうと思えば、彼には容易かったと思う。
『あなたは私に、どう触れるのですか?』
リャリスの閉じた蛇の瞳から涙が流れた。頭を抱え、体を抱き、恐怖と期待に、リャリスは打ちのめされた。
苦しい……苦しい苦しい……!
『私を、殺してくださいまし……インジュ……』
そんなこと、頼めたとしても、彼には殺せない。
旧時代の黄昏、終わるはずだった蛇のイチジクは、黄昏の大剣の言葉が正しいと思った。
この弱々しく芽吹いた命を守る存在となること。
だが、それは、彼が正しい騎士だったから許されることだったのだと、今、リャリスは悟っていた。
蛇のイチジクは、旧時代と共に滅びるべきだったのだ。シェラを目覚めさせ、風の王を脅威から守ったら、門を封じる役目に就こう。あれが、成長しない悪の心のままに、風の王を穢さないように、ずっと見張るのだ。
リャリスは、シュルリと部屋に備え付けられた大釜に近寄った。煮込まれているその液体は、白濁していた。その表面を、時折虹色が走る。
『完成だねぇ』
リャリスは、ホッとした様に蛇の瞳を細めた。
シェラを目覚めさせる薬が完成した。
その知らせを受けて、太陽の城もソワソワした空気に包まれていた。
その薬は、花の姫には薬だが、風の王には劇薬だという。
「液体ってことは、リティル、きっとやっちゃうでしょうねぇ」
インジュは太陽の城から出ないことにした。
「口移しでかぁ?ま、やりそうだわなぁ」
「ルディルは行かないんです?」
サロンで、机を挟んで向かいに座っている、暑苦しい大男にインジュは短く問うた。
「オレじゃ治療のことはわからん。ジュールが行っていやがるんだ。オレは、おまえの話し相手だ」
「監視の間違いじゃないんです?」
「やらかす気か?」
「はい」
「素直だねぇ」
「お父さんが味方です」
「そりゃ頼もしいねぇ。このオレも味方だぞ?」
「ありがとうございます」
ルディルに、礼を言ったインジュはおもむろに立ち上がった。
「シェラが目覚めました。リャリスが1人らしいんで、ボク、行ってきます」
インファか。ルディルはそう思った。応接間に仕掛けられた盗聴器は、インジュがノインと大喧嘩したことで、リティルにバレ、壊されてしまったとインジュから聞いていた。リティルは知っていやがったぞ?と言ってやることもできたが、様子を見に来たインファとなにがしかの協力を取り付けたようだった。あいつも、顔には出さないが案外親バカだ。インジュがリャリスの事で動こうとすることを、全面的に支持するはずだ。
「頑張れよ」
「はい」
短く応援する言葉をかけると、インジュはその顔に似合いの、フワリとした春風のような微笑みを浮かべた。
そんな顔で笑えるもんか?諦めているリャリスは、インジュの愛の言葉を素直には受け取れないだろう。リャリスが『あれ』に気がついていないことが、インジュの助けになればいいが、失敗すれば、リャリス自ら、インジュの腕で光るブレスレットを壊しにくるだろう。リャリスの本心でなくても、今までこれだけ避けられては、インジュは彼女の言葉を捉え損なうだろう。
「リャリス、あいつをあんまり傷つけてやるんじゃねぇ」
インジュがここで失敗すれば、リャリスは破滅へ一直線だ。すべてが終わった後、真相を知ったインジュを、誰が癒やせるんだ?なあ、リャリス……ルディルは「上手くいかねぇことが多すぎるわな」と呟いた。
1人廊下を行くリャリスは、動揺していた。
薬を液体にしたのはリャリスだったが、それにはわけがあった。眠っている者が固形物なんて、飲み込めないだろうと思ったからだ。粉にしても結局水に溶かすなら、安全性に難が出てしまっても初めから液体の方がいいと思った。
説明、しましたわよね?風の王には劇薬だって!とリャリスはあの光景を思い出して、頭を振ると当てもなく廊下をシュルシュルと滑った。
シェラは、口は開けたが薬を飲み込むことができなかった。牛乳のような白い液体が、彼女の口から零れ出るのを見て、リティルは、表面に虹色が走るどう見ても怪しいそれを、呷った。
えっ!リャリスは身を強ばらせた。あんな躊躇いなく?と釘付けになっていると、リティルは流れるようにシェラの体を抱きかかえると口づけした。時間にして数秒。リティルは、シェラと唇を重ねた。ゴクッと彼女の喉が鳴るのを感じたのか、リティルはやっと唇を離した。
「リティル……それは毒だと聞いていなかったか?」
呆れるような声でジュールが諫めた。ですがお父様!あなたは止めなかったですわ!とリャリスはリティルの行動を読んでいたようなジュールの様子に思ったが、驚きすぎて声が出なかった。
リティルは声が出ないようで、少しだけ口角を上げ、喉を押さえながら睨むようにシェラを見つめるばかりだった。彼の首を、玉のような汗がツウと伝うのが、リャリスには見えた。喉を灼かれ、息苦しいのだろう。
早く、治療を――リャリスが少しだけ立ち直った時だった。今度は、瞳を開いたシェラが思わぬ行動に出た。シェラは、リティルの中からすべてを見ていた。見ていたのはわかるが、こちらも躊躇いがなかった。
ベッドの上から覆い被さるようにリティルに抱きついたシェラは、リティルと床に倒れていきながら唇を合わせていた。
そして見た。リティルの喉が、何かを飲み込むように、何度も嚥下する様を。シェラは治癒能力のある自らの唾液を飲ませることで、夫を癒やしたのだ。
な、なんて、官能的な光景。皆には見えていなかったのだろうか。視線をそらすインファ、「見せつけてくれるな」と一部始終を楽しげに見ているジュール。リャリスと同じモノを見たかどうかは、その反応からはわからなかった。
だが、リャリスには刺激が強すぎた。体を起こし、シェラに笑いかけるリティルと、王妃の目覚めに安堵する皆を置いて、リャリスはそっと風の王夫妻の寝室を出た。
そして、1人廊下を彷徨っているというわけだ。
広大な城だ。ちょっと奥へ入ればすぐに1人になれる。
「リャリス」
治療とはいえ、あんな熱烈なキスを間近で見てしまったリャリスは、この化け物の姿では不自然すぎるくらいビクッと身を振るわせてしまった。
インジュ?どうしてここに?背後からかけられた声が誰の物なのか、わからないわけがない。風の城に戻ってから、リャリスが望んだことだったが、聞くことが叶わなくなったその声。その声が、この身を『リャリス』と戸惑うことなく呼んだ。
リャリスは、弾かれたように廊下を滑っていた。
「あ、ちょっと!振り向きもしないなんて、それないですよぉ!」
インジュの変わらない抗議の声が、一瞬遠ざかる。だが、彼はオウギワシだ。リャリスは闇雲に廊下を曲がった。少しでも追いつかれる時間を稼ぎたかった。でも、逃げ切る策があったわけではない。青天の霹靂だ。彼に追いかけられたらどうするかなんて、考えていなかった。
どこをどう逃げたのか、リャリスは窓のない廊下にいた。無意識に鬼ごっこを終わらせようとしてしまったのかもしれない。リャリスは手近な部屋に逃げ込んでいた。
廊下同様窓のない部屋。リャリスが飛び込むと、独りでに壁に取り付けられたランプに灯が灯った。何もない部屋。昔は何か置いてあったのか、床に何やら残ったシミが不自然に途切れている箇所があった。
「鬼ごっこは終わりです?リャリス」
扉が開き、インジュが入ってきた。
どうして、この姿を前にしても、そんなに平然としていられますの?リティルも、一家の皆も変貌に驚いたのに、インジュは露ほどにも表情を動かさなかった。
『近寄るんじゃないよ!』
リャリスが声を張ると、インジュはその場に足を止めた。しかし、1度たりとも視線をそらさなかった。薄暗くても、しっかり見えているはずなのに。
「リャリス、今までボクを避けた理由、そろそろ教えてくださいよぉ」
彼には知る権利がある。当然の疑問だ。
『見てわからないのかい?』
「わかりません。姿形なんて、どうとでも変えられますよ。ボク達精霊ですよぉ。ただ、そんなに大きくなられると、どこに抱きつこうか困っちゃいますけどねぇ」
逃げる姿で確信した。姿も声も口調も変わってしまったが、彼女の心は知っているリャリスのままだということを。だから、何を言われようと平気だ。
『まだ、夫気取りなのかい?呆れたねぇ』
「気取りじゃないですよぉ。夫ですよぉ?」
『はっ!気がついてるだろう?もう、アタシはあんたの妻じゃないよ。婚姻の証を持っていないんだからねぇ』
リャリスの言葉に、インジュはえ?と瞳を瞬いた。この反応、誰かも同じだったような?誰だったか?とリャリスは頭をよぎったが、壊されたことは確かだ。
「もしかして、いえ、いいです。1つ、ハッキリしたいことがあるんで、後でいいです」
リャリスは、インジュの言葉の続きを待ってしまった。
「リャリス、ボクの遺伝子、あげますよ。ほしいんですよねぇ?」
遺伝子という言葉に、リャリスはリャリス本人はしらない、苦痛と苦しみがフラッシュバックするのを感じた。いやいやそれより、今、インジュはなんと言った?
「その蛇の下半身でどうやってたのかわからないですけど、ボクはまあ、できないですし関係ないですね」
彼は、何の話をしているのだろうか。
「ボクが持ってる知識、全部受け取ってから、話ししましょう」
知識?受け取る?リャリスは戸惑っていた。話が見えない。インジュは何をしようとしているのかさえ、察することができなかった。
「原理なんてわかりませんけど、どうやってわたそうか、考えてたんです。さすがジュールさんですねぇ。あの人、ただエロいだけじゃないんですよねぇ」
インジュがトンッと軽く踏みきった。リャリスは、声も上げられなかった。インジュの顔が目の前にある。その唇が言った。
「唾液でもいいなんて、知りませんでしたよぉ」
どうして、こんなことができるんですの?この姿は禍々しいだけで、声だってしゃがれた老婆でしかないのに。
リャリスは、インジュに口づけされていた。しかし、すぐに離された。そして、不満げにジロッと至近距離から睨まれた。その白に青と緑を混ぜ合わせた宝石のような瞳が、そらすことなく蛇の瞳を覗き込んでいた。
「口、開けてくださいよぉ。入れられませんよぉ?」
何を?と言いかけたその口を、インジュに塞がれていた。
何かが入ってくる!リャリスは、その感触に慌ててインジュを突き放していた。口から溢れた彼の唾液を、リャリスは手の甲で拭った。リャリスは、その手から蛇の鱗が消えていることに気がつかなかった。爪が鋭く、節くれだっていたはずの手が、滑らかな若い女性の手に戻っていることに気がつかなかった。
「やめてくださいまし!何を考えているんですの?こ、こんな場所で!」
足の力が抜けて、床に座り込みながらリャリスは怒りの声を上げていた。大きな声を出さなければ、口内に入ってきたモノのことを、認識してしまう!と思った。
「え?ここ選んだのリャリスですよねぇ?どうです?受け取れました?」
「な、なにをですの?」
戸惑うリャリスの様子に、インジュは「あれ?」という顔をした。
「ボクの知識がほしくて、飢えてたんじゃないんです?けど、ボクをどう食べればいいのかわからなくて、困ってたんじゃないんです?」
「いったい、誰がそんなことを言ったんですの?蛇のイチジクが、い、遺伝子……の摂取で知識を得ていたのは、旧時代の話でしてよ?私に、そんな能力はありませんわ」
視線をそらして、恥じらうように自分の口を押さえたリャリスを見下ろしながら、インジュは大きく瞳を見開いた。
「騙された!あ、す、すみません!ちょっと、高度……?なことしちゃって……」
インジュでも演技でなく照れることがあるですのね?と、口を押さえて、バツが悪そうに視線をそらした彼の姿を見上げながら、リャリスは思った。
「いいとは、言えなくってよ……」
「あ、あのぉ、初めてじゃないんですから、そんな、怒らないでくださいよぉ……」
その通りですけれど!いえ、飲んでないですわよ!?とリャリスの頭は爆発した。
「それは!…………いきなり……うう……」
ポロリと、リャリスのサファイアブルーの瞳から涙がこぼれるのを見て、インジュは焦った。抱きしめていいんだろうか?こんな風に泣かせるつもりなんて、なかったのにと、インジュは、そうするより他なくリャリスを抱きしめた。
「すみません……泣かないでくださいよぉ、リャリス」
「インジュ……!すべて、台無し、ですわよ!」
変化が解けてしまうとは思わなかった。もう、2度と戻るまいと思っていたのに。
「あはは、それさせちゃいけないことくらいはわかるんで、そこだけよかったですねぇ」
捕まってしまった。リャリスは、逃げる気も失せて抱きしめられながら、無意味な質問をしてしまった。
「気持ち悪く、ありませんでしたの?」
「はい?さっきの姿です?いいえ?」
信じるしかない。最初は勢いでも、彼は、あの姿のリャリスに2度キスしている。あの姿でも、インジュは、リャリスだと認識していたのだと、認めざるを得ない。
「あのぉ、さっきの話ですけど、リャリスはまだボクの妻ですよぉ?」
インジュはおもむろに切り出すと、そっと体を離した。けれども、リャリスの両肩を掴んだままだ。
「けれども、私……」
守れなかった……と言えずに、リャリスの瞳からまた、涙が流れ落ちた。
「蛇は、2匹いるじゃないですかぁ。1匹だけなんて、ケンカになっちゃいません?」
リャリスの見開いた瞳の中で、インジュが困ったように笑って首を傾げた。リャリスの左耳で、シャーと蛇が言った。瞳だけ動かして左の蛇を見ると、蛇の首には、細いチョーカーが巻かれ、小さなクローバーの飾りが揺れていた。
「あ、あの姿ってまたなれるんです?そうすると、あと何本いるんです?元に戻ると髪になっちゃうんだと、変な髪型になっちゃいますねぇ。いっそ、別の何かに贈り直したほうがいいです?……リャリス?」
「私……何を悩んでいましたの?」
「わかりません。だけど、ボク以外の何か。なんじゃないんです?もっと、ボクのこと見てくださいよぉ。寂しいじゃないですかぁ!」
「ダメですわね、私。あなたに抱きしめられると、何もかも、どうでもよくなってしまいますわ……」
「もう、逃げないでくださいよぉ?ここ数ヶ月、生きた心地してないですからねぇ」
「はい」
しおらしく腕の中に収まっているリャリスに、インジュはハアとため息を付いた。絶対、この腕を放したらどこかへ行ってしまう気だ!とどうにも信用できなかったのだ。
だったらもう、こっちから動くしかないですねぇ。インジュは、背に腕を回してくれた、リャリスの頭にすり寄りながら考えていた。
――リャリスは婚姻に絶望しか感じない。婚姻とは、支配でしかない
支配。支配しちゃいますよねぇ。インジュはボンヤリ思った。
だって、こんなに可愛いんですよぉ?離れられないように、リャリスの心にボクのこと刻みつけて、どうしようもないくらい幸せで支配しちゃいますよねぇ?
その為ならボクは――リャリスを抱きしめながら、インジュは口角を引き揚げた。ほの暗い闇を見据えるその瞳は、暗い輝きに揺らめいていた。
リャリスが幸せになれるなら、その為ならボクは、この存在を賭けてもいいです




