三章 反魂
この心は化け物だ。
殺さずの戒めがなければ、すべて殺し尽くしていると思う。
「荒れてるねぇ」
ポタポタと魔物の血を手から滴らせたインジュに、相棒を務めてくれたルディルが苦笑した。はあ……はあ……と大きく息を吐いていたインジュは、疲れた瞳を、夕暮れの太陽王に向けた。
「……すみません……」
ルディルは、フッと微笑んで「なんの」と首を横に振った。
「まあ、荒れたくもなるわなぁ。未だに婚姻の証、もらってねぇんだろう?」
そっちか!とインジュは思った。いや、そういうことにしておいてくれてるのかと、思い直した。
「なあ、おまえさん、本当に不能なのか?」
タオルで血を拭くだけでもよかったが、ルディルがいい水場がそばにいあるといって、連れてきてくれた。太陽の領域には、四大元素のすべてがある。その場所は、平原にある小さな森の中だった。切り株の中から水が湧き出している。その様は、透明な酒の溜まる杯のようだった。
「……そうですよ」
「心が動かねぇタイプの?」
「はい?何です?」
「肉体的な問題かねぇ」
「??」
「おまえさん、裸のリャリスが目の前にいるとする、どうする?」
「ええ?あの、どういう状況で、です?」
思わず想像してしまいそうになって、そう言えば女性の体なんか見たことないなと、想像できなくて、インジュは混乱と焦りに叩き落とされた。
「反応は悪くないねぇ。けど、あの厄介な固有魔法をどうにかせにゃ、あっという間にジュール2号だな」
こいつとリャリスの子供って、何が産まれてくるんだ?とルディルは、マジマジと戸惑うインジュを見つめていた。
「あ、あのぉ……」
「おっと、すまん。ただなぁ、面白れぇ、じゃねぇわ、興味があってなぁ」
面白がるのも、興味を持つのも、色眼鏡だ。だが、ルディル相手ではそう気分は悪くなかった。がさつで酷いのに、なぜだろうか。
「……性欲は……あるんですよねぇ、これでも……」
「マジで?」
意外だと、ルディルは、目を丸くした。
「はい……でも、発散できないっていうか、発散しなくても大丈夫なんです」
「うん?つまり、疑似行為ならやってやれねぇことはねぇって?」
「……はい。意味ないですけどねぇ」
精霊が、欲望のためにそんなことをしても、得るものなんて何もない。まして、リャリスがそれを望むとは思えなかった。
「十中八九、あの固有魔法のせいだな、これは」
あの固有魔法というのは、万物の芽吹きのことだ。インジュと交わった者は百発百中で孕むというあれだ。間違っても、風の精霊がそんなことをするわけにはいかず、インジュは自分でも知らないうちに戒めた。
それにしても、独りごちたルディルが、心配してくれていることはわかるが、どうしてそこに拘るのかわからなかった。
「それ、重要なんです?」
「重要っていうかなぁ。最大の愛情表現なんだわ、これ。考えても見ろ、気を許してねぇヤツに、触らせるか?触らせねぇだろう?これするときってなぁ、素っ裸だろう?裸って無防備な状態、このオレでもおいそれとは晒せねぇわ。それが晒せて、なおかつ触れるってこたぁ、そんだけ気を許してるってこったなぁ。最大の信頼ってやつなんだわ。まあ、美味しいことも色々付いてくるがなぁ」
ニヤァと笑うルディルは、照れたのかもしれない。
「愛情……っ!」
「あ、おい、どうした?インジュ?」
ガクッとその場に頽れたインジュに、ルディルはギョッとして労るように肩に触れてくれた。
「ボク……ホントに、2番手なんですねぇ……」
「あ?2番手ぇ?おいおい、泣くなよ。何だ、どうした?」
インジュは、ジュールに言われた言葉が引っかかって、色々調べるうちに、リャリスの心が、別の人を求めていることに気がついたことを洗いざらい、ぶちまけていた。
静かに聞いていたルディルは、最初こそ険しい顔をしていたが、最後には、吹き出して堪えきれずに大笑いしだした。
「ガハハハハハ!悪い!おまえさん……ガハハハハ!ああ、腹痛てぇ」
もう、怒る気も失せて、インジュは笑い転げるルディルをボンヤリ見つめていた。
「誤解だそりゃぁ。リャリスが好きなのは、おまえさんだけだ。あのなぁ、蛇のイチジクが旧時代の遺産だってこと、聞いたんだろう?黄昏の大剣も同じなんだよなぁ。今、男女の姿していやがるからなぁ。最大の信頼関係ってヤツで、そう思っちまったんだろうがなぁ、同じ世界の出身のよしみ、腐れ縁ってヤツだ」
「そうなんです……か……」
「自信ねぇって?おまえさん、何百年経っても可愛いねぇ。リャリスがおまえさんを拒むのはなぁ、別の理由だと思うぞ?それが何なのかは、わからねぇが。奴さん、原初の風を尊い宝だって言っていやがったなぁ。自分に自信がねぇのは、リャリスも同じなんじゃねぇの?」
「え?自信、ないんです?リャリスが?」
「まあ、わからんでもねぇわ。あいつの前世、前世って言っていいのかわからねぇが、男漁りまくった蛇なんだろう?そんでおまえさんは、受精させる力だが、自身は不能。清らかな聖人だとくりゃぁ、なあ?」
「え?清らか?聖人?ルディル……さっきの戦闘で頭打ちましたぁ?」
大丈夫ですかぁ?と本気で心配するインジュを、ルディルは残念なモノを見るような目で見ると、その頭をポンポンと叩いた。
「オレからしても、おまえさんは尊いわ。まあ、今のままでもいいんじゃねぇの?結果が出るとすりゃぁ、あれが終わった後だな」
反魂の儀式が終われば、インジュの守りは必要なくなる。その時、リャリスの本当の気持ちがわかる。
「絶対振られますぅ!」
「言い切るんかい!おまえさん……好きな奴から愛情疑われたら凹むぞ?そうだなぁ、手っ取り早く、キスでも迫ってみればいいんじゃねぇ?誰も来ねぇとこでだぞ?そんで、拒まれなかったら信じてやれ」
キス……キス?ルディルの言葉に、インジュは顔が熱くなるのを感じた。それは、傍目にもわかるほどだったらしく、顔を合わせていたルディルが、おっ?と退くくらいだった。
バッと顔を背けたインジュの肩を抱くと、ルディルはポンポンッと叩いた。
「まあなんだ。よかったなぁ」
思い出した。
あの夜、リャリスにしたくてした口づけ。その後、酔わされた彼女は言った。
幸せだと。
本心だ。本心だった。それを信じていたのに、疑ってしまった。
――酷いですねぇ。ボク
リャリスは今、目の前で一心不乱に葉っぱを刻んでいる。規則正しい包丁の音。ここは、アトリエと呼ばれている、応接間に通じているリャリスの自室だ。
応接間とまではいかないが、ここの天井も高い。それは、この天井まである木の棚のせいだ。本と、世界中から集められた様々な素材――蛙の目玉の詰まった瓶や、色とりどりの液体など、なんだかわからない物が所狭しと並んでいる。鉱石や木に実はわかるのだが、あの頭蓋骨や骨は、どんな動物から獲ってきたのだろうか。
翼のないリャリスは棚の上の方には手が届かない。そこで、移動式のハシゴを作って取り付けていた。リャリスは今、棚とは反対側の壁に向かっていた。この部屋には窓がない。だが、どうしても素材を煮込みたかったリャリスは、煙突を通し、それを可能にした。一抱えもある大きな釜と、片手鍋が置けるコンロが備え付けられていた。
インジュがいるのは、リャリスの後ろ、書き物ができるように置かれた机だ。椅子は2脚置かれ、向かい合って座れるようになっていた。この部屋で寝起きしているため、カーテンで仕切られた向こうに、ベッドとタンスがあるようだ。あるようだというのは、リャリスが「絶対に覗かないでくださいまし」と言ったからだ。
フウと、リャリスが葉っぱを刻む手を止めた。そろそろ来る。
「インジュ、申し訳ないのですが――」
リャリスは、10分程度でいつもインジュを追い出すのだ。だが、インジュはそれで構わなかった。インジュが席を立とうとすると、振り返ったリャリスの腕がまな板の隣に置かれていた瓶に当たった。コルクで封はされているが、中身は液体だ。なんだろう?あの、濁った紫色の液体は。
あ、落ちる!そう思ったインジュは反射的に動いていた。リャリスもあ!と反応していた。「――危なかった……」
インジュは床すれすれで瓶を手で受けていた。
「きゃっ!」
「あわわ!」
身をかがめたインジュの上に、リャリスが落ちてきた。いや、倒れてきた。瓶を受けようと、体を捻ったところにインジュが飛び込んできたために、足がもつれたらしい。インジュは咄嗟にリャリスの体を支えていた。何とか踏みとどまったものの、絡まっているような微妙な体勢だった。
「あ……申し訳ありませんわ!」
リャリスはそっとインジュの手を逃れると、机に縋った。
「あ!」
リャリスの手が、まな板の上にあった包丁に触れる。包丁が、リャリスの顔に――
「!」
手を伸ばしたインジュは、包丁を素手で掴んでいた。これくらいの動き造作もない。
「危ないですよぉ!この部屋、危険物いっぱいなんだから、気をつけてくださいよぉ!」
スクッと立ち上がったインジュは、瓶と包丁を机の奥の方へ置いた。
「手は……」
「え?」
インジュはリャリスに手を掴まれ、マジマジと観察され、固まった。普段はインジュが触る方で、リャリスから触れてきたことがなかったのだ。
「怪我、していませんわね」
ホッとしたリャリスの声など耳に入っていなかった。インジュは、リャリスの顔に手を伸ばしていた。頬に触れられ、リャリスが顔を上げる。背は殆ど同じだが、インジュの手を観察するためにかがんでいた彼女の顔は、いつもよりも低い位置で、自然と上目遣いになった。いつもは澄まして妖艶なその瞳が、無防備にインジュを見つめていた。
「――」
誘われるように顔を近づけると、リャリスはハッとして顎を引いたが、意を決したように瞳をギュッと閉じた。心なしか、頬が上気している?
「フフ……あはは」
唇が触れるか触れないかで、インジュは吹き出してしまった。
「すみません。リャリスが可愛くて、昼間っから迫っちゃいました」
「イ、インジュ……」
ルディルの言ったことを信じるなら、キスされることをわかっていて拒まなかった彼女の心に、インジュはいる。それがわかったら、嬉しくなってしまった。でも、惜しかった。あの夜以来、インジュはリャリスとキスしていないのだ。
「え?」
ガッとリャリスに首元を両手で掴まれていた。怒ったような、意を決したような彼女の瞳と目が合った。
「――」
目を、閉じるのを忘れていた。
グイと引き寄せられたインジュは、リャリスに唇を奪われていた。
「驚かせた、仕返しですわ!」
すぐに顔を離したリャリスは、真っ赤になりながら口元を手の甲で押さえ視線をそらした。こんなこと、されるとは思わなかった。
「……好きです」
ポソッと呟いたインジュから、リャリスは咄嗟に逃げていた。だが、逃がすインジュではない。リャリスは、ギュッと抱きしめられていた。
「わ、わかっていますわ。ですから、は、離してくださいまし……」
リャリスの肩に顔を埋めたインジュは、更に抱きしめた。
「嫌です。嬉しすぎます。このまま死にたいです」
「死なれたら困りますわ。縁起でもないこと、言わないでくださいまし」
インジュは、背中を掴まれるのを感じた。
――信じていいんですよねぇ?
好きだと、言ってくれない彼女に、想われていると思いたい。
――こんなに幸せで、いいんですの?
男の人の中では、ずいぶん華奢なのだろう。けれども、リャリスではビクともしないくらい、彼の腕は力強い。この腕の中にずっといたい……そう思ってしまう。
触れ合うことで確かめられることが、確かにある。触れ合うことでしか、伝えられない想いがある。
これ以上踏み込んでしまったら、この人を傷つけてしまう。頭ではわかっていたが、心が、裏切る。
「インジュ……」
顔を上げたインジュの目の前で、リャリスは瞳をそっと閉じた。躊躇ったのか、インジュは、なかなか触れてこなかった。やっと気配が動き、そっと、唇を奪われる。あの夜のように、情熱的ではなかったが、言葉にできないリャリスの思いは、伝わった様な気がした。
「インジュ、今夜、この部屋へ来てくださいまし」
明日、反魂の儀式が行われる。そのことを、インジュはまだ知らない。邪魔が入ることを警戒したジュールは、明日の朝一、関係者を叩き起こして、儀式の場所へ誘う。
インジュと、こうやって過ごせるのは、今日限りだ。だから、こんな大胆なことができてしまったのだろうか。踏み込めば踏み込むほど、傷つけるとわかっているのに。
言い訳にしかならないが、インジュが、落ち込んでいることを知っていた。落ち込ませているのは、私ですわね?とリャリスは薄々思っていた。ノインが昨夜から行方を眩ませていることも気になるが、今朝、リティルが「気にするなよ」と優しかった。
リャリスが皆の知らないところで動いているように、関係する皆も、動いている。
仮初めの、私の夫。彼なら、受け止めてくれると思う。
何も聞かないでと言えば、何も聞かないでいてくれる。そんな彼に甘える。
「今夜、です?いいですけど……ああ、一件仕事入ってますねぇ。遅くなるかもですよぉ?」
「何時でも構いませんわ。待っていましてよ?」
察しの悪いインジュ。無理もない。彼は不能なのだから。皆の寝静まった時刻に部屋に招かれる意味を、それを目の当たりにしなければ気がつかない。
リャリスは、妖艶に微笑んだ。
インジュは、長いため息を付きながら廊下を飛んでいた。
時刻は深夜を回っていた。
午後からの狩りは、大型の魔物1匹、新参のサソリ型だった。相棒は気心の知れたラス。何も問題なかった。彼が、余計なことを言わなければ。
機嫌のよかったインジュに、ラスは「何か良いことあったのか?」と問うた。「わかりますぅ?」といつもの調子で話したまではよかった。
話を聞いたラスが、あんなことを言わなければ。
「今夜?部屋に?それって、お誘いじゃないのか?」
夜のお誘い。
そんなこと、考えもしなかった。珍しいことを言うなとは、思っていたが、まさか。
動揺したら、手元が狂った。ラスに被害がなかったことが、幸いだった。ラスはそんなに気にすることはないのに、平謝りで、治癒魔法が使えないことを悔やんでいた。
ああ、本当にあのサソリ型は厄介だ。尾の毒針も警戒しなければならないが、あれの体を断ち切ると、切れた部位がすべて毒を帯びる。掠れば猛毒に冒されてしまう。
インジュには、超回復能力の上を行く回復能力があるが、解毒は瞬時にはできない。ラスに連れ帰られ、シェレラに毒を抜いてもらい、インファの説教やら、風呂やら、諸々終えてこの時間だ。
インジュは、約束通りリャリスの部屋の前に立ったが、もう、寝ているだろうと半ば諦めていた。一呼吸置いて、樫の木でできた扉をノックする。
「開いていますわよ?」
中から声がした。インジュはその、イチジクの実る木が彫られた扉を開いた。
この部屋には窓がない。それが気になったことはない。天井に浮かんだ2つの球体が発する光が、磨りガラスを通した日の光のようでいつも心地いいからだ。
「すみません。しくじっちゃって、遅くなっちゃいました。……リャリス?」
扉を後ろ手に閉めたインジュは、申し訳なさそうに中にいるはずのリャリスに声をかけた。そして、視線を上げる。物が多くなってきて、リャリスは部屋を広げようか、引っ越しを検討していた。それでも片付いた部屋の中、彼女の姿が、ない。確かに、声はしたのに、はて?とインジュは部屋を見回した。
「ここですわ。カーテンを、開けてもよろしくってよ?」
カーテン。この先は、リャリスのプライベート空間だ。ベッドとタンスがあると言っていた。寝室は寝室で作ってもらえばいいのにとインジュが言うと、没頭すると見境がなくなるから、倒れられる場所にベッドがあったほうがいいという返答が返ってきた。
そういうものなのか?とそこまで打ち込めるモノのないインジュは思ったが、彼女がそういのならそうなのだろうなとそれ以上は言わなかった。
しかし、どうして出てこないのだろうか。インジュは疑問に思ったが、深くは考えずに、カーテンを開いた。
「……?………………!!」
リャリスは、綺麗に整えられたベッドに座っていた。梳かれて真っ直ぐに整えられたサファイアブルーの髪が、カーテンの奥に浮かんでいた、落ち着いた光を放つ球体に照らされ淡く輝いて見えた。
控えめに妖艶に微笑んだリャリスの手は、透き通るような白い肌の太ももの上に、重ねて置かれていた。
「リャリス……」
インジュは、蹌踉めくように一歩、いや数歩後ろに下がっていた。そんなインジュを追うように、リャリスが立ち上がった。華奢な白い肩を、長い髪がサラリと縁取りながら滑り落ちた。
「あなたに、こんなお願いをすることは、よろしくないとは思いましたのですけれど、どうしても、インジュに見てほしかったのですわ」
どうして、そんなに堂々と立っていられるのだろうか。リャリスは、体の全面に滑り落ちていた髪を、両手の甲で掬い上げるようにして、背中に流した。
髪が辛うじて隠していたその双丘までも晒して、リャリスは裸足でインジュの前に立っていた。
ガタンと、インジュの足が机に当たった。これ以上下がれなかった。一糸まとわぬリャリスを前に、インジュは視線すらそらせなかった。
「なに……を……?」
生唾も飲み込めずに、インジュはからからに渇いた喉から声を絞り出した。
「初めては、インジュがよかったのですのよ」
初めてはボク……?できないと、わかってるのに?
インジュの頭の中に、怒涛のように疑問が押し寄せていた。
どうして、好きだって言ってくれないんです?
どうして、婚姻の証を贈り返してくれないんです?
どうして、キスを嫌がらないんです?
どうして、どうして、こんなボクに、抱いてくれって言うんですか!
インジュは着替えたばかりの上半身の服を脱ぐと、急に動いたことで驚いた様なリャリスに飛びかかっていた。
脱いだ服で彼女の体を覆いながら、抱きしめる。
「リャリス……ボクのこと、誤解してますよねぇ?」
彼女の素肌になんて、とても触れられなかった。
「確かにボク、できないですよぉ?でも、欲望はあるんですよねぇ」
「え?」
ああ、やはり欲望もないと思われていたんだと、インジュは僅かに身動きしたリャリスの肩で小さく笑った。
「覚悟……いいですかぁ?それとも、こんなことした言い訳、します?」
演技演技演技!とにかく演技!とインジュは内心どうしようもなく動揺して混乱していた。覚悟ってなんだっけ?美味しいんだっけ?ボクが覚悟なんてできてないですよぉ!と泣きそうだった。
女性の悦ばせ方は、知っている。ジュールは絶対わざとなのだろうが、インファがごゆっくりと言って逃げ、ルディルが興味津々に、リティルが呆れているのに、ペラペラと様々な情事のことを喋りまくったからだ。インジュはいつもガッチリと肩を抱かれて、逃げられなかった。
たまに「聞いているか?」とか「これはどうだ?」とか問われて、曖昧な返答をしようものなら、ズイッとその色香の凄い顔で迫られて恐ろしい想いをさせられた。
この色欲魔!何考えてるんですかぁ!と発狂しそうだったが、あれは、こういう時の為のジュールなりの優しさだったのだろうか。
リャリスは、知っていそうで知らないのかもしれないと思えた。
「私、イタズラに誘惑してしまいましたの……?」
リャリスの体が震えていた。それは、襲われるかもしれない恐怖よりも、インジュの心を弄んでしまったことへの罪悪感からの様な気がした。
「ボクは誘惑されませんよぉ。ちなみに、魅了の類いも一切効きません。でも、相手はリャリスですからねぇ。嘘だったら、結構辛いですねぇ」
これは本心だ。腕の中でリャリスがシュンと落ち込んだのがわかった。可愛いなあ。妖艶な魔女の仮面、剥がれまくりですよぉ?とインジュは平常心を取り戻していた。
インジュはこれでも何百年も生きている。対するリャリスは、まだ10年とちょっとだ。精霊的年齢が上でも、やはり経験は年齢に勝る。
「……インジュがいいのは、本当ですわ……」
ひいいいい!風の王兄弟なら、間違いなくいただきますですよぉ?はっ!平常心平常心。インジュは何とか感情を治めた。
ジュールは話がうまくて、女性にどんな言葉を言われたかとか、そんなことまで色っぽく教えてくれた。あの声で、耳元で囁かれたらもう!ボクの純情返して!と訴えたかった。が、ジュールの言葉責めを受けていた為に、こんな場面でも流されずにすんだ。歩く官能小説に感謝だ。
「あのぉ、ホントにやりますよ?リャリス、何かあったんですかぁ?自暴自棄祭り中の人なんて、抱けませんよぉ?」
「インジュ……」
ええ?何?ボク、虐めすぎましたぁ?泣き出したリャリスに、インジュは困った。インジュはハアとため息を付くと、ヨシヨシと頭を撫でた。
「言えないんですねぇ?わかりましたよぉ、何も聞きませんから、泣かないでくださいよぉ。落ち着いたら、服着てくださいよぉ?ボクがいていいなら、一緒にいますから」
コクリと頷いたリャリスが、ただの女の子に見える。いや、ただの女の子だ。
反魂の儀式。その重圧は、彼女を苦しめている。最後のピースだという彼女の役割を、インジュは知らない。だが、こんな行動に走らせるほどだ。相当なのだろう。
「好きです。ボクはリャリスが、好きですよぉ?」
見当違いなのかもしれない。だが、インジュにはそう伝えることしか、できなかった。
これ、誘惑してるの、リャリスじゃなくて、ボクですよねぇ?とインジュはうーんと、悩んだ。
考えてみれば、年齢なんて関係ないといいつつも、経験で差が出る精霊という種族だ。現に、精霊的年齢19のリティルは、若い精霊達にお父さんと認識される。親子という関係に不慣れな為、彼を父と呼び慕う精霊は少ないが、恋愛感情でない感情で慕っている精霊のなんと多いことか。
こんな生まれたての経験の浅い精霊を、インジュは数百年の重さで、知らず知らずのうちに誘惑してしまったのかもしれない。
いいのかな?こんな女の子を手込めにして。とインジュは、今更罪悪感が募った。
「……って、今更放せるわけもないですけどねぇ……。あ、何でもないです」
程なくして泣き止んだリャリスに服を着てもらい、インジュはやっと一息ついた。こんな状態でなければ、きちんと夫婦だったなら、インジュだってリャリスに触れたかった。だが、触れてもいいかもしれない希望は見たから、まあ、いいかとインジュは残念な気持ちに蓋をした。
「申し訳ありませんわ」
「もう、しないでくださいよぉ?ボクも、いつまでも紳士じゃないですからねぇ?はあ、ボク、午後から散々だったんで、ここで寝ていいです?」
え?と固まるリャリスを無視しインジュは、ゴロンとリャリスのベッドに身を横たえた。ほのかに、花の香りがする。これは、ラベンダー?
「リャリスもほら、夫の隣に来てくださいよぉ!」
そう言って、インジュは強引にリャリスを引っ張り込んだ。リャリスは大いに戸惑い顔だったが、先ほどの失態が、彼女から拒否権を奪っていた。
「何もしませんよぉ?いつも通りです。残念ながら!」
インジュは後ろからリャリスを抱きしめると、その背中にすり寄った。
「聞いてますぅ?ボク、またサソリ型の毒喰らっちゃいましたよぉ」
ピクッとリャリスが腕の中で身動きした。そのころ、リャリスはリティルと太陽の城に行っていた。反魂の儀式の最終確認をしていたのだ。留守中に、そんなことが?しかし、インジュが遅れをとるなんて珍しい。
「だからですねぇ、疲れてるんですよぉ……」
「それなのに、私……」
「でも、いいモノ見られましたねぇ。疲れも眠気も吹っ飛びましたよぉ」
「……」
「綺麗ですねぇ。肌真っ白で。面と向かってじゃ、とても言えなかったんで、今感想言います。血行よくなると、肌がホンノリ赤く染まるってジュールさん言ってましたけど、見てみたいですねぇ。いつか、見せてくださいよぉ?」
「はい」と言えなかった。何も知らないこの人を、何も知らずに好きだと言ってくれるこの人を、裏切ることをしなければならないことが、後ろめたかった。
また、何か思い詰めてます?インジュは察した。彼女の妖艶な魔女の仮面を剥ぎ取ったのはインジュだったが、何も言ってもらえず落ち込まれるのは、そろそろイラッとした。
「あ……!インジュ?」
「ボク、触ったことないんですよねぇ。服の上からでいいんで触らせてくださいよぉ!」
確か、全体を包み込んで握る分には、性感帯をあまり刺激しないとジュールが言っていた。そして、男を知らない体はほぼ間違いなく感じないとも。
「インジュ、あ、あの……」
「フニャフニャってワケじゃないんですねぇ。うーん、この感触……水風船?それよりもっと硬いですかねぇ……ああ、これマズいですねぇ。癖になりそう。気持ちいい……!」
「やめっ……んっくすぐったい……!」
「あはは」
インジュは、リャリスも胸から手をパッと離した。からかったことは、伝わったらしい。
「インジュ!」
リャリスが自分の胸を庇いながら、ゴソゴソとインジュと向かい合うと、至近距離から睨んできた。けれども、腕の中から逃げないらしい。あ、可愛い。インジュは楽しそうに笑った。
「すみません。あははは大丈夫ですよぉ」
「え?」
「離れてても、守ります。ボクのぬくもり覚えててくださいよぉ?いつでも、包んであげますからねぇ?」
インジュはリャリスの頭に顎を置くと、柔らかくその背に腕を回した。
その仕草、言葉に、リャリスの心臓は高鳴った。普段抱きつかれても、恥ずかしさはあったが平気だった。どこかで、この人は安全だと思っていた!とリャリスは気がついた。
この人は、男性なのですわね?
そう意識したら、この腕を振りほどきたくなった。
そうしなければ、心臓がどうかなってしまうと思えた。
チャラ……小さな音が、耳元でした気がした。視線だけを向けると、サファイアブルーの蛇がチロリと舌を出した。その蛇の首に巻かれたチョーカー。じっと見なければわからない、四つ葉のクローバーの飾り。
婚姻の証が、重く感じられた。どんな気持ちで、これを私に贈ってくれたのですか?リャリスは、インジュの胸を見つめながら初めて考えた。
返さなくていいと、この人はどんな気持ちで言ってくれた?今、どんな気持ちで抱きしめてくれている?
ああ、私は……!
リャリスはドンッと、インジュの胸を力一杯押していた。横向きに寝ていたインジュの背が、ベッドに沈む。
「インジュ……お慕いして、います。ずっと、ずっと、昔から……!」
涙が溢れた。言ってはいけないと戒めていたのに、言ってしまった。言わされてしまった。
フッと、インジュが微笑んだ。いつもの、明るい笑みではなかった。もっと、大人っぽい、男性的な微笑み。インジュは体を起こしながら、リャリスの頬に手を伸ばした。
「知ってますよぉ?ちょっと、自信なくなってましたけどねぇ」
その言葉に、リャリスは頬に触れてくれているインジュの手を両手で掴んでいた。涙が止まらない。言葉が、紡げなかった。言葉にならない嗚咽だけが、その口から漏れた。
リャリスはグッと歯を食いしばると、瞳を閉じた。意識を、この掴んでいるインジュの手首に集中する。
キインッ!と高く乾いた音が通り過ぎた。リャリスが、インジュの手を頬から引き剥がしながら離した。
「え?これ……」
「煌帝・インジュエル、あなた様の愛に応え、智の精霊・リャリス、婚姻の証をお返しいたしますわ」
インジュの手首には、6つの基本的な力を現す色に染まった、四角いガラスの板が金の枠に嵌まったブレスレットが巻かれていた。
「これで、私はあなたの物ですわね」
「ひいいいい!リャリス、ボクの理性、試さないでくださいよぉ!今ならボク、できる気がするんですけど、リャリス、襲っていいですかぁ?」
彼なりの照れ隠しだと察したリャリスは、妖艶に微笑んだ。
「ご冗談を。あなたの不能は筋金入りでしてよ?さあ、明日のために休みましょう?」
そう言って、リャリスはさっさと横になった。
「あ、酷いです!ホントの事ですけどねぇ!」
さて、部屋に戻ろうとベッドを降りようとしたインジュは、リャリスに止められていた。
「ですが、添い寝を許しますわ。隣へどうぞ。旦那様」
あ、ヤバイ……惚れる!
インジュはリャリスの言葉に従って、彼女の隣に潜り込んだのだった。
最高の眠りだった。極上と言ってもいい。
だが、目覚めは最悪だった。
「起きろ、インジュ。このヘタレめ」
「………………はっ!ジュールさん?」
目覚めて初っぱなに、この甘ったるい顔は胸焼けを起こしそうだ。ここ、どこだ?とボンヤリしていると、昨夜の事を思い出した。
「あわわ!ジュールさん!これにはワケがあってですねぇ!」
「おお?夫婦が同衾するのに言い訳が必要なのか?だが、この寝台では狭すぎるな」
土下座しそうな勢いのインジュに、ジュールは素で驚いていた。
え?夫婦?と言いたげなインジュに、甘く微笑んでジュールはインジュの手首を指さした。
「おまえは控えめだったが、リャリスの奴め、ずいぶん主張してくれるな。インジュ、礼を言うぞ。これで越えられんなら、端っから何をしても無駄だ。行くぞ、反魂を行う」
ジュールの言葉に、インジュは息を詰めると頷いた。
連れてこられた場所は、イシュラースの神樹の根元だった。
いったい何十人いれば取り囲めるのか、わからないくらい太い大樹の前の広場に、すでに、リティルとインファ、シェレラ、そしてルディルが来ていた。魔方陣はデカデカと描かれ、集められた精霊1人分の素材が、リャリスが教えてくれた通りの位置に置かれていた。
インジュは、彼女の姿を捜していた。それに気がついたのだろう、ジュールが教えてくれた。
「リャリスは自分の戦場へ行った。心配するな。わたしの娘は強いぞ?」
わかっている。インジュは頷いた。そんな娘婿に、ジュールは満足げだった。
「揃ったな?じゃあ、始めるぜ?」
インジュは腕を組んで立っているリティルの姿を認めて、息を詰めた。
『緊張してるのか?』
心の中に、からかうような声が弾けた。その声に、インジュは自然に答える。
「そりゃしますよぉ。でも、全員ボクが守ります」
『おーおー、相変わらず大きく出るぜ。ま、オレの出番がねぇこと、祈るぜ』
「意外です。エンド君、この儀式興味津々だったじゃないですかぁ」
『そりゃ、オレが興味津々だったのは蛇女だぜ?』
「あー……そうですかぁ」
『独り占めにできると思うなよな。諸々おまえに譲ってやる。けどな、あいつのことはオレも守るぜ?』
「あはは、お願いしますよぉ?」
インジュが笑うと、心の声は聞こえなくなった。『エンド』のことは気になっていた。リャリスと関わることには、エンドはまったく触れてこなかったからだ。リャリスの事を認めていないんだと思っていたが、そうではなかったらしい。彼はきっと、遠慮していた。自分が出てくることで、恋路を邪魔することになるんじゃないかと、そう思ったのだろう。リャリスには話していないが、彼女はたぶん知っていると思う。インジュのもう1つの人格、殺戮のジ・エンド・オブ・ザ・ワールドのことを。
前を向くと、魔方陣に向かったリティルの両脇にルディルとインファが控えていた。
3人がいる魔方陣の対岸に、ジュールが立ち、インジュとシェレラは、魔方陣を十字に切る位置でそれぞれ対岸に立った。
リティルが翼を広げ、両手を魔方陣にかざす。金色の風が小柄な彼の体から立ち上り、魔方陣に吸い込まれていった。
「13代目風の王・インティーガ。蘇りを許可する。15代目風の王・リティルの名の下に、今、ここに蘇れ」
短い言葉だった。死を導く力を持つ風の王だからこそだなと、インジュは思った。リャリスに聞いたが、グロウタースで行う際は、もっと長ったらしい文句が必要になるようだ。しかし、絶対に成功しない。愛する人を蘇らせようとして、これまでも多くの人々がこの邪法に手を出し、そして死んでいった。風の王の目を盗み、なんとか素材を工面できても、蘇るのは化け物ばかりで、術者も精神を壊されて死ぬ。
わかっていても、愛する人に会いたいという心はなくならない。
この方法で、もしもリャリスに何かあったら、ボクはシェレラを許せるんだろうか?
目の前では、素材の1つ1つが空中で融合を始め、徐々に人の姿を形作っていた。ジュール、インジュ、シェレラの3人は、その素材に、透明な力を注ぎ込んでいく。
形作られていく体に、神樹の枝葉から、何か金色の塵のような物が振ってきた。
ああ、インティーガの砕かれた魂だ。そう思った。姿を見せない神樹の精霊・ナーガニアは、インティーガの死に立ち会っている。彼女が後の風の王に希望を賭け、インティーガの欠片をその枝葉に集めておいてくれたのだ。
彼女は、花の姫の母親だ。どうにもできなくても、娘の愛した人を守ろうとしてくれたのだろう。
儀式は順調だった。体、魂、そしてインティーガであるという記憶。インジュ達、透明な力を使う精霊がそれらをつなぎ合わせていく。
「!?」
インジュは目を疑った。
魔方陣の上に浮かぶ、体格のいい、若い男性の風の精霊の裸体を抱くように渦巻くリティルの風。瞳を固く閉じた彼の真下に、突如、黒い裂け目が現れた。そこから立ち上るすべてを吸収するかのような艶のない黒。あの色は、死だ。
空中で、リティルの風に守られる様にして浮かぶ体に向かい、その裂け目から、体と瓜二つの男性が現れた。
あれは、何だろう?もう1つ要素があるなんて、リャリスは言っていなかった。もしかして、あれが、最後のピース?
もう少しで彼と彼が重なる。その時だった。
『「皆!わたしを蘇らせてはいけない!早く、門を閉じろ!」』
突如、体が瞳を見開き、叫んだ。
「ちっ!構わん!インティーガ、体に戻れ!」
舌打ちしたジュールが声を張り上げた。そして、インジュとシェレラに出力を上げろと要請があった。インジュは慌てて力を込める。
門。とインティーガが言ったそれから、黒が立ち上り、インティーガを掴むと、門の中に引きずり込んだ。
――ああ……!ん、う……イン――ジュ……!
インジュは、苦しげな悩ましげな声を聞いた気がした。そして、何か大切なモノが壊れる音も。
「リャリス?」
「気にするな!インジュ!リティル!風をもっと送れ!奪い返されるぞ!」
ジュールには何が起こっているのかわかっているのだ。そう思った。そして、インジュもわかりかけている。
――ボクは?ボクは何をするべきなんですか?
泣きながら、好きだと彼女の言葉でやっと伝えてくれたリャリスに、誓ったこと――
気がついたら、もう1人の自分を呼んでいた。
「エンド君!」
『おう!待ちくたびれたぜ!』
「すみません。迷っちゃったんですよぉ」
『バカが!蛇女に無理させやがって』
「ホントですねぇ。あはは、ボク、夫失格ですねぇ。それじゃあ、挽回しますよぉ!」
『遅ぇんだよ!』
バッとインジュは飛んでいた。禍々しい黒に飲まれようとしている魔方陣の中心に向かって。
「インジュ!よせ!触れるな!」
ジュールの叫ぶ声が聞こえる。彼の言葉はいつも正しくて、毎回従わされた。でも、今回は聞けない。
「すみませんジュールさん!ボク、頭悪いんで最後は力業なんですよねぇ!」
インジュの姿が、変貌を始める。瞳は赤い一色に染まり、両腕と両足がオウギワシのかぎ爪に変わる。リャリスのくれた婚姻の証が壊れるかと思ったが、それはバラリと継ぎ目が開き、何で繋がっているのかわからないが、インジュの変貌した腕の周りに、そのままの形で留まった。ああ、やっぱり、リャリスはこの姿のことを知っていたのだと悟った。そうでなければ、こんな仕掛け作る必要がない。
インジュの尻にはオウギワシの尾羽が生え、その姿は凶悪な魔獣のようだった。
風の精霊の持つ、特別な闘志・殺戮の衝動。インジュはそれを、エンドと人格交代することで引き出す事ができる。通常よりも強力な力は、風の精霊の姿さえも変貌させるのだ。
殺戮形態へと変身したインジュは、揺らめく真っ直ぐな切れ目に取り憑いた。閉じようとするそれを、両手両足でこじ開ける。
「舐んじゃねぇぞ!オレとこいつは、生命の塊なんだよ!殺すそばから、産み出してやる!」
『「原初の風?ダメだ。手を離せ!」』
門に飲み込まれるインティーガが、焦ったように叫んだ。黒い触手に捕らえられ、インティーガは徐々に門に引きずり込まれていた。
「できねぇ相談だ。てめぇのせいで、オレ達の女がいたぶられてんだよ!だだこねてねぇで、生き返れ!そんで、こいつに殺されろ!」
『ボク、殺せませんよぉ?できて半殺しです』
「おまえには、権利あるだろ?てめぇの女、差し出してんだぜ?」
『「どういうことだ?」』
「おまえを助ける為に、今現在体張ってる女がいるつってんだよ!あいつが、インジュ以外に触らせたって、そんなくだらねぇこと考えて逃げたら……おまえ、ぶっ殺してやるからな!」
感じた。リャリスの苦痛の声。嫌だ。インジュ以外は!とそんな心を感じた。何が起こっているのか考えたくないが、昨夜、インジュに初めに見てほしかったと言ったのは、何かに、いいようにされるかもしれないことを、わかっていたからだとやっとわかった。
ああ、この!知ってたら、できなくても滅茶苦茶触ったのに!とインジュは今更後悔した。
「そのまま押さえてろ!」
こじ開けるインジュの体の下に、小柄な金色の光が割り込んできた。
「陛下?バカか!あんたが来ちゃいけねぇだろうが!」
エンドが焦る。焦るはずだ。飛び込んできたのはリティルだったからだ。引き込まれるインティーガの腕を両手で掴んだリティルに、舐めるように黒い触手が触れた。その箇所の肉がなくなり、骨が見えた。が、揺らめくように元に戻る。なんだ?目の錯覚か?とエンドは、目を瞬いた。
「悪いな!オレも最後はゴリ押しなんだよ!インティーガ!オレの力を奪え!大丈夫だ、花の姫がオレを守ってるんだ!オレがおまえに殺されることねーからな!気兼ねなく、やれえええええええ!」
これは、リティルの中にいるシェラが、リティルが骨になる前に肉を戻しているのだ!と、エンドは悟った。花の姫とはいえ、今のシェラは自分の体すら動かすことができない。守るったって限度がある。
「くっ!インジュ!半分だけ代われ!」
『はい!リティルはボクが守りますよぉ!あ、右手1本でいいです』
「はあ?」
『ボク、最強!ですからねぇ』
インジュがそう言うならと、エンドはリティルがいるそばの右手をインジュに戻した。インジュはリティルの背中に手を押し当てた。途端に霊力を根こそぎ奪われた。
「くっそ!負けられるかよ!リャリス!」
皆の願い空しく、門が、インティーガを飲み込んでいった。
真っ黒で何もない空間。
そこに降りたことのある者は、口をそろえてそう言うだろう。
しかし、リャリスには違った。
『フフフフ、また、門を開く者が現れたね。そして今度は、おまえも戻ってきたんだ?』
「戻るつもりはなくってよ?」
何もない。それはリャリスの目にも同じだ。だが、目の前に立つ者がいることがわかる。
『いや、おまえは戻る。なんせ、ボクの妃なんだからね』
「あら、聞き及んでいませんの?私、伴侶がおりましてよ?」
『伴侶だって?ハハハハハ!言われるがまま男とまぐわった、おまえのような女を受け入れるのは、このボクくらいしかいない』
怯むな!リャリスは妖艶な笑みを絶やさなかった。それは遙か昔のその前の話だ。そんなモノ、今のリャリスには関係ない。インジュはきっと、そう言ってくれる。
リャリスの背後に門が開く。目の前の者は、行動を開始した。インティーガの意識に目掛けて、黒い触手が伸びる。
リャリスは、その黒い触手からインティーガを庇い、魔方陣魔法を展開する。
『――、守られると思ってるのか?』
名を呼ばれたようだが、リャリスは聞き取れなかった。
「夫を、信じていますわよ?」
信じている。何も知らないのに「離れてても、守ります」と言ってくれた。本当に、人前でこれでもかというくらい抱きついてくれた。極めつけは昨夜の抱擁。胸を揉まれたのには驚いたが、欲望があると言ったのに、欲望なく守るように抱きしめてくれた。ベッドの中で、何もないなんて信じられない。インジュは本当に、規格外の人だ。
もし、インジュの力が及ばなくても、この身が、蹂躙されようとも、押さえよう。
――でも、あなた以外、嫌なのですのよ?
『ハハハハハ!力比べだね。――、なくしておまえにボクが止められるかな?』
また聞き取れない名を呼んだ。彼も、そう呼ばれるのはきっと、腸が煮えくりかえるほど嫌でしょうねと思った。
インティーガの意識が外へ出る。もう少し、もう少しで、奪い返せる。その心がリャリスに隙を生んだ。
その者は冷たく笑った。リャリスの魔方陣を突き破り、その一撃は彼女の頬をかすめていた。蛇が悲鳴を上げた。その首で、インジュのくれたチョーカーが切れて消えていった。
「は――ああ!」
それに気取られたリャリスを、黒い触手が襲っていた。シュルリと服の中に侵入され、素肌の上を這う感触に、リャリスは悲鳴を上げた。
「う……ああ!」
身悶えるリャリスを追い抜いて、黒い触手が門を越える。
「くっ!あ、ん……」
魔方陣魔法を展開するも、意識を集中できなかった。嫌悪感で、目尻から涙が零れ落ちた。
失敗する。そう思ってしまった。目の前の気配は、満足げだった。その気配が、ぞわりと背後を注視したのを感じた。
?誰かが、門をこじ開けて……ハッとして、リャリスは目の前に意識を集中した。魔方陣魔法が展開され、気配を押し戻す。
『はは、ハハハハハ!見つけた!世界の父!』
「させま、せんわ!」
『うるさい』
ズルッとリャリスは肌を嬲られた。その感触に、リャリスでは抗うことができなかった。悔しかった。女であることが。
しかし、ここで蹂躙されるわけにはいかない。リャリスは、蹌踉めきながら何とか立ち上がった。この世界を守る、刃。風の王をこんな者に穢されるわけにはいかない。
この身が化け物であれば、こんなモノ!
「インジュ……こんな私を好いてくださって、ありがとうございますわ」
リャリスの閉じた瞳から、涙が流れた。
――帰れない私を、許してくださいまし
リャリスに黒い触手が迫っていた。
『フフフ、ねえ?やっぱり君は、ボクの下へ帰ってくるでしょう?』
パシンッ!と黒い触手が弾かれた。開いたリャリスの目は、蛇のそれだった。
『帰る?誰がおまえなどの下へ戻るかい!滅ぼすんだよ……あの時みたいにねぇ』
服を裂き、リャリスの体は変貌していた。ヘアリーバイパーの下半身、そして、4本の腕。サファイアブルーの髪は、うごめく蛇たちへと変貌していた。
『ここでアタシが押さえてやらないと、余計な者まできちまうんだよ。あーあ、面倒だねぇ』
リャリスは、爪の伸びた節くれだ指を突きつけた。その腕にも鱗が生えていた。
『早く行きな!アタシでも長くは保たないよ!』
リャリスは、背後のインティーガに声を張った。だが、彼を捕らえた触手のせいで、門の上へ思うようには這い出せない。助けに行きたいが、リャリスには目の前の者を抑えるだけで精一杯だった。
「リャリス!おまえ、残っているか?」
『ああ、来てくれたのかい?ノイン』
インティーガを捕らえていた触手が、切り裂かれた。その好機を見逃さず、インティーガは門の外へと逃れた。
「リャリス……せめて口調を戻せ。老婦人ではさすがのインジュも……」
何を言い出すこの男。と、リャリスは蛇の瞳を見開いた。
『こんなナリじゃ戻れないからねぇ。いいのさ』
「遅れたことは詫びる。だが、戻ってもらう」
『しつこいねぇ。それよりノイン、あいつ』
「ああ」
一撃だった。ノインの抜き放った黄昏の大剣が下段から上へ向かった振るわれると、目の前の気配は、一言も発することなく消え去った。
『……ルディルを抑えてくれたみたいだねぇ。ありがとうよ、ノイン』
「礼には及ばない。この負の遺産のために、誰も犠牲にするわけにはいかないからな。それより、外へ戻ろう」
『あいよ。だが、アタシは風の城へは……』
リャリスは、俯いた。その頭で、蛇たちがうごめく。その髪を見つめていたノインは、ふと何かに気がついたが、それには触れなかった。
「……わかった。だが、インジュには、ありのままを話す」
『好きにしな。何かあったら知らせな。今まで通り、助力は惜しまないからねぇ』
リャリスは、1枚の手の平をヒラヒラと振ると、ノインを置いてシュルシュルとどこかへ行ってしまった。
その背を見送って、ノインも彼女とは違う方へ歩き出した。
あとには、艶やかな闇だけが残ったのだった。
まったく。この後始末を、オレに押しつけるのだからな。
神樹の前の広場に戻ったノインは、はあとため息を付いた。
「――インジュ!おい、目、をあ、開けてくれよ!」
横たわるインジュに呼びかけるリティルの背から、オオタカの翼がなくなっていた。インティーガの腕を掴んでいた両腕も黒く汚れていた。
皆が2人に近づかないのは、理由がある。死に近づきすぎた2人は、死に冒されていた。近づけば、死が移ってしまう。
ノインはゆっくりと2人に近づいた。
項垂れるリティルの頭越しに覗くと、インジュは、全身を死に冒されていた。もう、触手の形は保てないが、艶のない黒が靄となってインジュを覆っていた。
「リティル、落ち着け」
「ノイン?戻って、たのか」
ノインは仮面を外した瞳に、安心させるように笑みを浮かべた。
「王の風は残っているか?」
「あ、ああ。でも、足り、ねーとお、もう」
「今は少しでいい。インジュはこんな死では殺せない」
「それ、変、な言い、方だな」
リティルは力なく笑うと、右手をインジュにかざした。金色のそよ風がインジュを包む。黒い靄に変化はないように見えたが、インジュに息が戻ったのが見えた。
「ルディル!インジュを運んでやれ!」
ノインの声で、皆が一斉に集まってきた。
「ノイン!インジュは?」
おまえは真っ先にインジュの心配か?とインティーガを置いてきてしまったシェレラに苦笑した。
「無事だ。リティルに王の風が戻れば、この靄、引き剥がせる」
「王の風があればいいのか?」
シェレラの後ろに立った男に、ノインは視線を合わせた。
「ああ。だが、仮初めの蘇りでしかないおまえでは、すべて捧げる羽目になる」
ノインよりもジュールよりも僅かに年下に見える、青年。英雄王と呼ばれたインティーガだ。
「意味のある死があるのなら、そんなありがたいことはない」
「風の王だな」
「死してなお。リティル、許してはくれないか?」
「はは、こんな苦労して蘇らせたのに、もう死にてーのかよ?王の風なら、もう戻ってきてるんだぜ?」
ほらとリティルは言うと、死に冒された両腕を上げた。リティルの腕から黒い汚れが剥がれるように消えていった。
「わたしからもお願い!インティーガ様と一緒に、インジュを助けさせて」
「シェレラが世話になったようだ」
「ああ、まあな。……いいんだな?2人とも」
リティルは、寄り添うインティーガとシェレラを見た。2人は同時に頷いた。躊躇いなく。
「この生に未練はない。あるのは、次なる生への希望だけだ。15代目風の王・リティル、わたしに未来をくれたこと、感謝する」
「かしこまるなよ。同じ風の王が魂砕かれたなんて、哀しすぎるぜ。しかも、無実じゃな。オレの自己満足だ。気にするなよ」
リティルは晴れ晴れと笑った。そこへ、すかさずジュールが乱入してきた。
「おまえは、甘すぎるな。インティーガ、わたしはそうはいかんぞ?そのせいで、娘夫婦が離婚危機だ。どうしてくれる!やっと掴んだ幸せだったのだぞ!」
「待って、リャリス……リャリスはどこへ行ったの?」
娘夫婦が離婚危機と聞いて、シェレラは1度も姿を現さなかったリャリスを思い出した。
「彼女はここを去った。インジュに会わせる顔がないと言って」
「……目が覚めたインジュは、さぞ荒れるだろうな!魂を分け合った矢先だったのだからな」
「リャリスが、インジュに?インティーガ様!早くインジュを起こさないと!インジュならきっと、リャリスを連れ戻せるわ」
「事情はわからないが……この命、役立つなら喜んで」
「納得できる終わりなら、オレは何も言わねーよ。インティーガ、シェレラ、ありがとな」
「リティル、それはわたしの台詞よ。ありがとう。インティーガ様を助けてくれて」
シェレラは心から微笑んだ。その笑顔を見たリティルは、思わず目を潤ませたが、涙がこぼれるのは何とか阻止した。
名を呼ばれたシェレラは、インティーガの隣に跪いた。そして、うなずき合うと、インジュに手をかざす。
『また、どこかで巡り会いましょう?』
「ああ、次の生を謳歌しろよ?」
リティルの言葉に、シェレラはうんと頷いて笑った。その笑顔が、薄れていく。インティーガは消え行くその時、シェレラの肩をしっかりと抱いたのだった。
「さよなら。インティーガ、シェレラ……」
2人を見送ったリティルは、グラッと意識が揺れるのを感じた。傾く世界の中で、駆け寄ってくるインファと、おっと!と受け止めてくれたノインが見えたが、視界は闇に閉ざされた。
意識を失ったリティルをノインが受け取ると同時に、インファが駆け寄ってきた。
「父さん!」
「大丈夫だ。命に別状はない。城へ戻ろう」
心配顔のインファを促して、皆は風の城へと引き揚げたのだった。




