空白の夢
最低限は間に合った。
代わりの運転手までもが殺される謂れはなく、俺は無事自宅まで送られた。潜入中全く気にも留めていなかった(そんな余裕はなかったとも言う)が、俺の携帯には安宿先生からのメッセージが何通も飛んできていた。
『家に帰ってないよね。もしかして協力者が見つかったのかな』
『養護教諭の立場上、協力出来なくて本当に申し訳ないと思っているよ。咎めたりはしない。思う存分やればいいと思うよ、私は君の潔白を信じている』
『出来る事があったら何でもするから、いつでも連絡してくれたまえ』
そこまで心配してくれるならいっそプロポーズでもしようかとも考えたが、エツナさんが居る中でその行為は中々どうして勇気がいる。半分冗談ではあったがやめておこう。
「ただい―――?」
家の中に足を踏み入れた時、肉の焼けた匂いがした。それは死体で感じた腐敗臭とは全くかけ離れており、香草も相まって実に芳しい香りとなって俺の鼻を燻った。蒔凛がいつの間にか家に来たのかと思ったが、お嬢様もそこまで無礼ではない。メッセージからして安宿先生という線もあり得ない。
慌ててキッチンの方を覗くと、そこには慣れた手つきでフライパンを握るエツナさんの姿があった。ご丁寧に邪魔になるであろう袖もたすき掛けによって止めてあるので抜かりはない。こうしてみるとエツナさんと所帯を持ったみたいで気恥ずかしくすらあるが、ついさっき死体を見たばかりの俺にそこまでの余裕はなかった。
「な、何やってるんですか!」
彼女を疑っているとは言わないが……いや、疑っているか。匕首なんてこの十数年間で一度しか見ていない。一度とは勿論彼女の袖の中だ。それが凶器として現実に人一人の命を奪っている以上、完璧に疑うなというのは無理が生じる。
まさか外でそんな事が起きてるとは露知らず、エツナさんは鼻唄を歌いながら菜箸を動かしていた。
「おお、蓮二殿。誠に勝手ながらそろそろ貴殿が帰る頃かと思い、料理させてもらった」
「あ、ああそういう……記憶喪失なのに料理出来るんですか?」
「よくぞ聞いてくれたな。記憶が戻った訳ではないのだが、どうやら身体が覚えている様なのだ。記憶を失って己が何者かさえ分からぬ私を貴殿は受け入れてくれた。正直に申し上げると非常に感謝している」
「だから料理を……?」
「うむ。一宿一飯の恩とも言うだろう。同じ飯で返すのも無粋だとは思ったが、思い出せない事には何の恩も返せぬ」
「一宿一飯なんて言わなくても、記憶が戻るまで居ていいんですからね?」
殺人犯の疑惑を心に持ちつつも、しかし今の彼女に敵意や殺意の類は感じない。なら状況証拠などには振り回されず見たままの彼女を受け入れるのが筋ではないだろうか。この手の善人は物語的な観点でしかないとはいえ大抵利用されて殺される。
だが仮に彼女が犯人だったとしても、あの様子では一発で殺してくれるのだろう。ならそれでも良いかと……いや良くないが。
自分の意志を曲げるよりはマシだと思ったのだ。
下心だけで決められた選択に価値があるかは疑問が残るとはいえ、ころころ意見は変えたくない。
「ンフフッ。やはり親切だな。見ず知らずの私に手を差し伸べるその善性と言い、貴殿はまかり間違っても地獄には行かぬ人間であろう」
「褒められてますか?」
「褒めているに決まっている。案ずるな。料理の心得はしかとこの身に刻んである。さ、蓮二殿。直に料理も終わる頃だ。座って待っていてくれ」
「……あのう。もしかして俺が簡素な料理しか作れなかったのも原因だったりしますか?」
「ん、まあそれも一因ではあるな」
「正直ですね」
「悪口のつもりは無いぞ。私は貴殿の料理が好きだが、貴殿自身は自らの料理に満足していない様に見えたのだ。恩返しのつもりではあるのだが、迷惑と感じたなら……済まぬ」
「ああいや、全然迷惑じゃないですよ。料理が豪華になる分には俺も嬉しいですからね」
その言葉を聞いて安心したらしい。また鼻唄を歌って……フレーズ的には一度過ぎた部分なのは気付いているだろうか……ご機嫌そうに腕をせっせと動かしている。主従関係を結んだ覚えはないのだが、エツナさんの後姿を見ていると中々どうして感慨深いものがある。家庭的というか配偶者的というか、殺人事件に遭遇した直後であっても気が緩みかけてしまうくらい平和だった。
「……食事中でいいんですけど。幾つか聞いてもいいですか?」
「構わぬとも―――よし、これで最後だッ。では話を聞こうか」
飽くまで俺の身の潔白を証明する為に行動しているだけ。決して運転手を殺害した犯人までも特定しようとは考えていない。しかしながら―――
校長先生の死因が心臓を一突き。
運転手の死因も心臓を一突き。
殺害方法の一致は偶然ではないだろう。だからついでに解決しようとしているだけ。間違っても『蒔凛の悲しむ姿をこれ以上見たくないから』ではない。そう言ってしまうとまるで俺が彼女に絆されたみたいではないか。
―――否定はし辛いけどな。
匕首の件については可能な限り触れるべきではない。記憶喪失とは言ったって精神性までも退行した訳ではないのだ。迂闊な質問は墓穴を掘る。良好な関係を築けている内は慎重になって損はない。
「それで聞きたい事とは? 記憶喪失故、過去の事は何も話せぬぞ」
「結局エツナさんを呼んでた声の事は思い出しましたか?」
事件とはあまり関係ないとは思っているが、最初から核心を突こうとするのは下手くそのやり方だ。最初は真意を悟られぬ様に世間話から始めるのがセオリーだと。多分誰かがそう言っていた。これを世間話と括るには不可思議極まるが、事件抜きに何か思い出したなら知りたいので恐らく世間話だ。
質問の答えは彼女が言葉を発する前から分かっていた。その表情が露骨に難色を示していたからだ。
「うーむ……それが全く思い出せんのだ。貴殿に帰宅を促されて以降は聞こえなくなったし、大切な誰かの声とは言ったが、ここまで何も思い出せないとその確信も揺らいできたぞ」
「―――そもそも本当に記憶喪失なんですか?」
「貴殿に対して騙る程の恩知らずではない。それとも蓮二殿は私が信じられぬか?」
「いや、そういう意味じゃなくて。記憶喪失だって思い込んでるだけで元々失う様な記憶が無かったって言うか……ああすみません。あり得ないですね。忘れてください」
ここまで成長しておいて赤子同然だったらむしろ驚きだ。というか単なる記憶喪失より確実に状況を悪化させている。口は災いの元とも言うし、何かの拍子に今の発言が真実にならないとも限らない。やめておこう。
「……記憶喪失から立ち直るには失った原因によって対処法の違いが出てくるって聞いた覚えがあるんですよ。精神的なトラウマとか、物理的外傷とか。後は時間経過によって思い出すってのも聞いた覚えがあるんですけど、いつから記憶を失っていたんですか?」
「それは…………! 蓮二殿と出会った時だろ……うか?」
最初は自信満々だった声音が次第に失速し最後は言い切る前に墜落してしまった。記憶喪失が始まった瞬間も断言出来ないとなると、時間経過による自然治癒は期待するだけ裏切られそうだ。しっかりと下味の付けられた鶏肉は旨味が良く染み込んでいてとても美味しい。俺なんかよりよっぽど調理スキルは高かった。
記憶喪失なのに。
「じゃあどうやって失ったか覚えて……ないですよね。どれくらい経ったかも分からないなら絶対分からないでしょうね。今の無しで」
そろそろ本題に入りたいのだが、どうしよう。匕首の事を怪しまれずに尋ねる口上が全く思い浮かばない。一般に出回らぬ幻である匕首を何の気なしに話題へ出せば怪しまれるのは目に見えている。どうにかエツナさんを介して存在を知った事実を隠したいが、それを隠すと筋書きに無理が出てくる。
二つに一つな選択肢を目前に俺の脳がはじき出した答えは、そのどちらでも無かった。
「あ、そうだ。エツナさん結構包丁の扱い手慣れてましたよね? もしかしたら記憶を失う前は刃物関係の家柄に居たんじゃないんですか?」
「む? あれは身体が覚えているからと貴殿には述べた筈だが……しかし同じ要領ならばそうなのかもしれないな。刃物……刃物か」
「いやもう視ててびっくりしましたよ! あれだけ刃物の扱いに慣れてるなら、骨を的確に避けて心臓を突くくらい余裕なのかなーなんて…………」
皆まで言うな。この切り出し方に無理しかないのは発言者が重々承知しているのだ。それでも無理やりひねり出した。どうしても険悪になりたくなかったのだ。相手が記憶を失っていたとしてもこちらの強引ぶりは何も変わらない。
突如として『殺人』の話にシフトした事で彼女はおかずを取る手を止めてまで慎重な目付きでこちらを見遣った。これが漫画なら顔中汗だくだ。目は口ほどにモノを言うとも言われるが、汗は目以上にモノを言う。例えばここで俺が汗だくになったとしたら相手にはこちらの焦りが十分に伝わるだろう。そこに言葉は余計なだけだ。
「…………ふむ。可能だとは思うぞ」
「え!? そうなんですかッ?」
「誇らしい技でもない。蓮二殿も出来るのだろう。そう謙遜しなくても私には全てお見通しだぞ?」
事実は全くの逆なのだが彼女は一体何を見通しているのだろうか。
「しかしその様な行為について尋ねるとは奇怪奇怪。私の知らぬ間に何か起きたのか?」
「何かって言われたらこれが正に俺の周りで起きた『何か』ですけどね」
「――――――違いないッ。だが私も貴殿に助けて貰えたことを心より感謝しているぞ。貴殿が来なければ私はきっと大変な目に遭っていただろうからなッ」
「この国そこまで治安最悪じゃありませんよ!? ……………………多分」
あんな事件が起きた手前言い切れなくなってしまった。全く罪深い。話の腰を折って明後日の方向に逸らす事で何とかツッコまれずに済んでいるが、この三流役者はいつになればまともな演技が出来るのだろうか。
ここまで下手くそだと迂闊な動きが墓穴を掘るというよりは何をしても墓穴を掘っているだけだ。余計な墓穴などさっさと埋めてしまえ。誰かが落ちる前に。
最低限はこなせた。聞き取り調査を切り上げようとしたその刹那、待ったをかけるようにエツナがお椀を置いた。
「蓮二殿。私からも一つ尋ねたい事が生まれた。どうか答えていただきたい」
「はい? 何ですか?」
「匕首が何処へ行ったか知らぬか?」




