忍びよる影 1
美月は立ち尽くす女の子目掛けて走り込み、両脇を掴んで走りながら抱え上げた。そのまま母親と思われる女性のもとへ駆け抜ける。
「ありがとうございます!」
感謝する女性に両手を開いて制し、アイラのもとへ戻ろうと歩き出したが、やけに注目を浴びている気がする。
――いや、そんなに注目するほどのことでは…――
そんな呑気な事を考えている場合ではなかった。一番熱い視線を送ってくれているのは、他ならぬ“興奮した牛”だった。
瞬時に青ざめる美月。何だかヤバイ。どう見ても牛にロックオンされている。
「逃げろ、姉ちゃん!」
牛を抑えていた男性が呻く。
「私?!」
「そうだ、その赤いひらひらした服が、牛を刺激しているんだよ!」
美月は自分のワンピースを見る。見事なまでに鮮やかにワインレッドに染め上げられている。まさかの闘牛と同じシチュエーション?
違う、違う!そんなこと考えている場合じゃない!
逃げるって何処に?
何処に行っても大騒ぎだよ!
だから、何処に行けっていうのよっ!
ゴクリ。
唾を飲み込み、覚悟を決めて走り出した。牛に向かって。
「お、おいっ!馬鹿っ、こっちに来るな!」
「挑発してどうするんだ!」
牛を抑えている男性達の悲鳴に近い声が響く。
だって、後ろにはさっき助けた女の子がいる。
美月は牛の前でひらりと身をかわし、その後方に走り抜けた。
挑発された牛は、さらに鼻息を荒くする。押さえ込もうとしていた数人の男たちを、頭や体を激しく振り、蹴散らしていく。
そうして自分に纏わりついていた厄介な人間を残らず振り払った牛は、盛大に鼻息を吐き出した。走り去る美月に照準を合わせるように体の向きを変え、もう一度鼻息を吐き、駆け出す。
「ミツキ殿―っ!」
ジェイソン達が後を追おうと、急ぎ馬を落ち着かせる。
馬が落ち着いた時には既に美月の姿も牛の姿も見えなくなっていた。
―――落ち着け、落ち着いて、私!
美月は走りながら必死に考える。どうしたらいいのかわからないが、あの牛は明らかに自分を狙っているようだった。しばらく走ると、川に突き当たった。
振り返ると、追ってくる牛はすぐそこに迫っていた。
川の堤防の天端までの法面は、比較的緩やかな傾斜になっていて芝で覆われている。そこを一気に駆け上がる。見下ろすと、河川側の法面は石垣で整備されていた。天端までの小さな階段もある。
牛が芝の法面を駆け上がってくるそのタイミングで、美月は川に飛び降りた。
思っていたよりも水深は浅く、20センチほどだ。急いで階段の下へと移動し登り始めた所にひときわ大きな水音がする。
しかし振り返ることなく階段を昇っていく。昇りきったところでやっと振り返ると、川の中で牛が立ち往生していた。見渡してもすぐに上がれそうな設備はなく、美月は大きく息を吐いた。
「助かった…」
肩の力が抜けていく。美月は辺りを見回した。足の遅い牛で助かったというべきかどうか、とにかく随分走ってきた。
もう一度大きく息を吐き、街に向け、来た道を戻っていった。
「一生懸命走って逃げている時に、道しるべを残せる人なんているわけないよね、うん」
美月は独りごちる。
そう。街に戻ってきたはいいが、初めての場所に美月は迷子になっていた。
―――とにかく、人を探して道を聞こう。広場に行きたいと言えば分かるのか、何も確証はないが…。
住宅街らしき通りには人影が見当たらなかった。皆市に行っているのだろうか。
濡れた靴が擦れて、じわりじわりと踵が痛くなってきた。靴擦れを起こしているのだろう。濡れすぼったワンピースの裾も、足取りと同じく次第に重さを増していく。
「はあっ…」
立ち止まって辺りを見回す。すると、少し先の道を曲がる人影をやっと見つけた。
急いで追いかけ声をかける。
「あの、すみません」
「あぁ?」
振り返った男性は不機嫌そうだ。
「道を教えて頂きたいのですが…」
「道ぃ?」
不機嫌な男は美月を一瞥する。
「…お前、さっきの女じゃねぇか」
「……食堂の!」
不機嫌な男は食堂にいた酔っぱらいだった。
「すみませんでした。別を当たります」
美月は踵を返しその場を去ろうとする。
「おい、待てよ姉ちゃん。探そうったってなあ、今頃は皆市へ行って、ここいらにゃあ誰もいねぇよ」
「分かりました。ありがとうございます」
尚も立ち去ろうとする美月の肩を、男が掴んだ。
「心配するな、案内してやるよ〜」
男の手に力が入る。
「ただし、俺の相手をしてもらったあとでだ」
男は美月の肩をぐいっと引き、外壁に叩きつけた。
「―――っう」
背中を打ち付けられた美月は、刹那息苦しくなり咽せ込んだ。




