三日月の夜に 1
「ミツキ、何を見ている?」
「えっ!…ああ、ルーク」
突然かかった声に驚いて腰が跳ね上がった。
翡翠の間に戻った美月は、借りてきた本を開いているところだった。
「びっくりした。脅かさないで」
美月はドキドキと高鳴る胸に手を当て、覗き込んでくるルーカスを見上げた。
「何だ?ちゃんと声をかけたぞ。ミツキが気づかないからここに来たというのに」
「そう、なの?…ごめん」
見上げた先にあるルーカスの顔が、ぐいっと近づいてくる。
「熱心に何を見ているのだ?」
美月は翡翠の間に戻り、借りてきた本を開いていた。その本を覗いているだけだと分かっているが、ルーカスのその近い距離に、必要以上に意識して胸がざわめく。
「見ていたというか、ちょっと考え事をしていて…」
いや、ちょっとルーク。顔、近いって!
「考え事?…何だ、ハーヴェロードの地図じゃないか」
思いがけないものを見つけて、ルーカスは破顔する。
息がかかりそうなほど近い距離。その距離で、嬉しそうなルーカスの笑顔は破壊力抜群だった。
うわっ…。
その笑顔に、息をするのも忘れてしまうくらいに見入ってしまった。
ルーカスが地図を指しながら説明してくれるが、一向に頭に入らない。それよりも、その揺れるエメラルドの目許に、すっと通った鼻筋に、頬に、口許に意識を持って行かれてしまう。
顔が熱い。
体中の熱が集まったかのように。
相槌も打たない美月に、ルーカスは話を止めた。地図から目線を移し目があった美月は、頬をほんのり染めていた。だが、直ぐにその頬は赤みを増し、あっという間に真っ赤に染まった。
「どうした?ミツキ。…ミツキ?」
心配そうに覗き込むルーカスの顔が、ますます近づいてくる。
「へっ?あっ、いや、ごめん。ちょっとボーッとしてただけだか、ら…」
あなたに見とれていましたとは言えない美月に、ルーカスの手が伸びてくる。
「ミツキ、顔が赤い。熱があるのでは?」
そっと頬に添えられた手は、少し冷たくて、火照った頬を冷ましてくれた。
美月は無意識に頬をすり寄せた。
「冷たい。気持ち良い…」
「ミツキ!それ、は…」
今度はルーカスの方が頬を染めることになってしまった。触れた先から感じる美月のしっとり柔らかい頬の感触に、右手に全神経が集中しているかのようだ。
「あっ、ご、ごめん!」
ルーカスの狼狽ぶりに、美月が慌てた。
「い、いや。すまぬ」
謝りつつも、ルーカスの手は美月の頬から離れていくことはなかった。
久しぶりに触れる頬の感触に、その右手は吸い付けられたかのようだった。
「ふふっ、可笑しいね、二人して謝って」
「あ、ああ。ミツキ、熱ではないのか?」
心配そうに覗き込むルーカスに、美月は笑って答える。
「大丈夫だよ」
頬に添えられた手に、美月は左手をそっと重ねた。
「ミツキ…。そうやって触れられると、勘違いしそうになる」
少し眉根を寄せて目を細めるルーカスの言葉に戸惑った。
「勘違い?」
「そうだ。…ミツキの心が俺にあるのかと勘違いしそうだ」
「ルーク…。私の方こそ、ずっと勘違いしそうで困ってる」
「ずっと?何に?」
ルーカスは目を瞬かせる。
「この関係が、偽りではない…と」
逡巡しつつ、美月がその想いを伝えた。
美月の言葉にルーカスが息を呑む。
驚きを隠せないルーカスと頬を赤らめたままの美月が、しばらく見つめ合ったまま時間が過ぎていった。
やがて、いたたまれなくなった美月が目を伏せた。
「ミツキ…、顔を上げてくれ。ミツキの顔が見たい」
美月は、ルーカスの声にそうっと顔を上げた。
目の前のルーカスは、優しく微笑んでいる。
「ルーク、あの…」
口を開いたものの、何を話したらいいのかわからない。
ルーカスは優しく囁いた。
「ミツキ、…好きだ。俺は、ミツキが好きだ」
エメラルドの瞳は、美月から目を離すことなく告げる。
頬に触れるルーカスの右手に、僅かに力が入る。
美月も重ねた手でルーカスの手を握った。ルーカスの言葉に、美月の胸が高鳴った。
「ルーク、私も。…ルークが好き」
美月は潤んだ瞳でルーカスを見つめた。見つめ返すルーカスの瞳も潤んでいる。
今まで堪えていたものが溢れそうで、美月は唇を噛みしめた。
「ミツキ…、噛むな」
ルーカスは親指で美月の唇をそっとなぞった。
その感覚に胸のざわめきを覚え、美月は眉根を寄せて堪えた。互いに潤んだ瞳で見つめ合う。
「ミツキ…。キス、していいか?」
優しく、けれどまっすぐ見つめてくるルーカスの瞳に、吸い込まれそうだった。
僅かに頷く美月の頬を、ルーカスはそっと両手で包み込んだ。
やさしく推し当てられた唇。
その温かさと柔らかさに、これまで美月の堪えていた想いが泪となり溢れ出る。
その泪の雫を、ルーカスが優しくキスで吸い取った。頬に落とされたその口づけも甘く、美月は夢の中にいるようだった。頬から唇に戻ってきたルーカスの口づけは、美月の口許を優しく喰んでいく。やがて深くなっていく口づけに、美月は体の力が抜けていくのを感じていった。
「おっと、すまない」
くたりと力なく椅子に座る美月を、ルーカスは起こした自分の体に凭れさせた。そのまま時が過ぎていく。美月はこの時が終わらないようにと思いながら、ルーカスの上衣の裾をそっと握り締めた。
ルーカスが翡翠の間に来たのは、王家との晩餐の案内であった。私的なものなのでと前回のようにドレスを改める事もないと、ルーカスにそのまま王家の食堂まで連れてこられてしまった。
躊躇う美月を、王と王妃もにこやかに迎え入れてくれた。特に王は、ふたりの醸し出す雰囲気の変化に目を細めていた。
食事が終わると、シッティングルームでお茶を楽しみながら、美月はサッカー談義に花を咲かせていた。少し離れて王と話をしていたルーカスが、美月の話がひと段落着いたところで歩み寄る。
「ミツキ、少しいいか?」
「はい…?」
ルーカスは、王妃と王女に囲まれるように座っていた美月に手を差し伸べる。
「月が綺麗だ。少し歩こう」
優しく微笑むルーカスに、もう頷くしかない。
「雨、上がったんだね」
中庭に降り立って見上げた空には、三日月が輝いていた。
「本当だ、三日月が綺麗だね」
泥濘んだ道に落ちないように、石畳の上を歩く。ルーカスのエスコートがなければ落ちそうだ。少し広まったところに来ると、ルーカスは美月の両手を引き寄せ、抱きしめた。
「ル、ルーク?」
「ミツキ。少しこのままで…」
「…うん」
抱き合ったふたりのシルエットは、しばらく重なったまま動かなかった。
やがて美月が伏せていた顔をゆっくりと上げる。ルーカスが顔を近づけ、そのままふたりは口づけた。




