第九話 白髪の漂流者
夕闇と濃霧のなか、右舷に人だかりができていた。
モモ、クロウ、シキの三人は甲板の隅に身を寄せ、息を潜めてその様子を見守る。
舟から引き上げられた若者が、甲板に転がされる。
衣服は裂け、砂と潮をかぶり、弱りきった痩身。
頭髪は、霧のなかでもひときわ目を引く純白だ。
トウヤだ。
間違いない。
そこからは、前の廻りでクロウから聞いた話から思い描いていたとおりに進んだ。
半裸の墨だらけの男が胸ぐらをつかみ上げ、どこの誰だと怒鳴る。
若者は「頭が」「身体が」とおびえた声で懇願し、質問には答えない。
じらされた船乗りが拳を握る。
そこへ、野太い声が重なる。
「どきなさい。ガキ一人に何手こずってんのよ、この色男どもが」
巨体の船長が、荒くれ者たちを左右に割って進み出る。
ここまで、クロウの話から思い描いていたとおりだ。
わたしが何もしなければ、この世界は同じように回るのだ。
だからこそモモは、船長が若者の前に立った、その一瞬だけを凝視していた。
震えていたはずのトウヤの、薄紫の瞳の奥。
そこに、すべてを見透かすような光が宿った。
しかし――。
「ぼ、僕はトウヤ……。船長殿……」
若者はすぐにまた、消え入りそうな弱々しい声で、頭を下げた。
「あら、可愛げがあるじゃないの。この若造を、荷物部屋にでも運んでおきなさい。暖を取らせてから、アタシが直々に話を訊いてあげるわ」
手下たちが白髪の若者を担ぎ上げ、船内へと運んでいく。
それを見送ったあと、クロウが周囲を警戒しながら、モモとシキにだけ聞こえるよう小声でささやいた。
「場所を変えるぞ。ここではマズい」
◇
船員たちの目を避けて船室に戻ると、クロウが後ろ手に扉を閉めた。
せまい部屋に、夕暮れの薄暗い光がわずかに差しこんでいる。
クロウはどっかりと椅子に腰かけ、腕を組んでモモを正面から見すえた。
いつものおどけた様子は一切なく、真剣そのものの表情だ。
「さて、話してもらおうか」
シキもまた扉に背を預けたまま、モモから目を離さずにいた。
「まずひとつだけ。トウヤという名前を、君はどこで聞いた」
「……夢で」
夢、かもしれない。
そうじゃないかもしれない。
「何であいつが、夢に出てくるんだよ」
クロウのぼやきをよそに、シキが言葉を重ねる。
「それと、漂流、と言っていた。見張りが声を上げる前に。そして『この話はもう二回目』とも。あれは、霧の話を前にも聞いたことがある、そういう意味だ。違うかい」
「……違わない」
「いつ聞いた?」
「今日。この船で。同じ、夕方に」
クロウが身を乗り出す。
「誰からだよ」
モモはクロウをじっと見て、無意識に自分の右手を隠そうと、身体にそっと引き寄せた。
とたんに、クロウとシキの視線がモモの右手に釘付けになった。
「な……それ、いったい」
クロウが椅子を蹴立てて立ち上がった。
その大きな身体が、見たこともないほど動揺して小刻みに震えている。
ほんの数刻前まで爪の端が白んでいるだけだったはずの右手は、いまや手の甲の一部までが結晶と化し、人ならざるものの輝きを放っていた。
「いつからだ」
「さっき。……気がついたら」
「さっきって、お前、昼飯のときは」
「爪の端だけ、だったよね。わかってる」
モモは右手を胸に押し当てたまま、二人を見た。
「ここに戻ってくるたびに、増えるの」
クロウは頭を抱えてうめいた。
どこから問いつめればいいのか、わからなくなったのだろう。
シキは眉間にしわを深く刻み、黙りこんでいた。
その頬を冷や汗が伝う。
やがて、扉から背を離し、モモの前に片膝をついた。
「見せて」
差し出された右手に、シキの指が触れた。
冷たさに、一瞬だけ指が止まる。
それでも離さず、硝子になった甲を、確かめるようになでた。
「戻ってくる、と君は言った。どこから」
「……ここより、ずっと先から」
「先というのは場所……。いや、それだけじゃないね」
モモはうなずいた。
それ以上は、言葉にならなかった。
シキは乾いた喉を鳴らし、顔を上げた。
「馬鹿げているのはわかっている。それでも、君の言葉を順番に並べると、ひとつしか説明が思いつかない。……モモ。君は、この日を前にも一度、生きたことがあるのか」
理由なんて、わかりっこない。
あの島に近づいてしまったから。
それとも、わたしの中にいる、誰かのせい。
船に戻るたびに、この手が失われていくことも、なぜなのかは言えない。
確かなのは、わたしが二人を巻きこんでしまっているということだけ。
わたしは余計なことをして、もっとひどいことを引き起こしてしまったのではないか。
「一度じゃ、ないよ」
声が、かすれた。
「二度。……ごめんなさい。わたし、そのたびに二人を――」
その先が、出なかった。
モモは自分の右手を抱きしめ、後悔に押し潰されそうになって、小さく肩を落とした。
シキは何も言わず、それを見ていた。
「そのたびに、何だってんだ……」
クロウだった。
かすれた声で、答えを探している。
モモが顔を上げられずにいると、クロウは拳を握りしめ、突き出した。
「だけど、これだけは言えるぜ。お前がそんなにおびえて、苦しむくらいなら、俺が今からでもこの船を乗っ取って、無理矢理にでも引き返してやる」
こういう時のクロウは、決して退かない。
モモがうなずけば、全力でそれに取りかかるだろう。
何に代えてもモモを守るという、クロウの無条件な優しさと覚悟。
しかしモモは、首を横に振ってこたえた。
「ううん、引き返さないよ。隠ヶ島に近づいたことで、こうなったんだから。あそこには絶対に何かがある。それに、あの島では胸の奥を揺さぶられるような、不思議な感覚があったの。まるで、誰かがずっと待っていたような。だから、わたし、そこから逃げ出したくない」
「そこで誰かに会ったんだね。……君は、僕たちの知らないところで、もう隠ヶ島へたどり着いている」
問いではなかった。
説明なんて、できないと思っていた。
「シキ……。どうして、わたしのことがわかるの?」
「君の目が、昔と同じだったから」
モモは覚悟を決めて、自分に起こったことを、記憶にある惨劇の全貌を、二人に打ち明けていった。
「あの島で、みんなはあの真紅のオニ、グレンに襲われて殺されちゃうのよ。でもその時、グレンはわたしのことを『器』って呼んだの。それが何のことなのか、わたし、確かめたいんだ」
「器、だと……?」
クロウがその不穏な言葉に、身を硬くする。
シキは立ち上がって腕を組み、クロウの言葉を引き取って続けた。
「器という言葉の真意は測りかねる。けれど、トウヤの態度には腑に落ちない点がある。モモの言う不思議な感覚だってそうだ。ぜんぶつながっているのかもしれない」
「ぜんぶ、つながって……?」
「そう考えても、今のところ否定する材料がない、というだけだよ」
シキは腕組みを解くと、あごに手を当てた。
「あいつは甲板で、ひどくおびえて弱りきった奴隷を演じていた。けれど、船長が目の前に立った一瞬だけ、品定めするような目をしていたんだ」
「ああ、それは俺も気になった」
クロウが視線だけで先をうながすと、シキは短く言葉を継いだ。
「わざと言葉をにごして時間を稼ぎ、船長のほうから名乗り出るように仕向けた。自分の持つ情報の値を、吊り上げるためにね」
「最初から船長をはめるつもりだったってわけか。とんだ食わせ物じゃねえか、あの白髪野郎。グレンのことも器のことも、あいつの真意をひっくり返して吐き出させてやる」
クロウが不敵に笑い、拳を手のひらに打ちつけた。
「そういうこと。ただし、やるからには慎重に」
三人はうなずき合った。
モモが寝台から腰を上げ、クロウが扉に手をかけた。




