第十話 船底の密約
油のにおいと湿気がこもる薄暗い通路を、三人は音もなく進んだ。
船底に近いこの一画には、船乗りたちの姿はない。
突き当たりの荷物部屋は、本来なら頑丈な鉄の錠前が外から下がっている場所だが、いまは掛け金が外され、引き戸がわずかに開いている。
部屋のなかで、船長がトウヤを尋問しているためだ。
シキはあごで、数歩離れた通路の曲がり角を指した。
「クロウ、君はあそこの角で見張りをして。何かあれば合図を」
「チッ、なんで俺が……」
クロウは不満げに眉をひそめたが、モモの顔を見るとそれ以上は何も言わず、身体を縮めて物陰へと移動した。
それを見届けてから、シキとモモは息を殺して、引き戸の隙間に意識を集中させた。
漏れ聞こえてくるやり取りは、まるで芝居の台本のようだった。
船長は、霧の向こうに宝が眠っているという噂を持ち出して、若者を揺さぶる。
トウヤはおびえ、命乞いをし、それから、意を決したふりで餌をまく。
煌びやかな宝飾品を身につけたオニたち。
外からは決して見えない、オニの舟が通る潮の道。
そしてその道を教えろと迫られると、あんな恐ろしい場所へ二度と戻りたくないと、床に崩れ落ちんばかりに泣いてみせた。
船長が喉の奥で愉しげに笑い、「大人しく道案内をするなら、身くらいは守ってやる」と言うころには、引き戸の隙間からそのやり取りを聞いていた二人には、もはや確信しかなかった。
低頭して震える若者の正体は――獲物を誘いこむ、狩人だ。
重々しい足音が、引き戸へと近づいてくる。
シキがクロウへ向けて素早く合図を送った。
そのまま、モモとともに音もなく物陰へ潜んだが、巨体ゆえに身のこなしの遅れたクロウは、開け放たれた引き戸から現れた熊のような巨漢と、鉢合わせる格好となってしまった。
通路を塞ぐように突っ立ったクロウを、船長は一瞬、不審そうに見下ろした。
「あら? アンタ、こんなところで何をしてるのさ」
「いや、あの、俺は、その……!」
両の目が、すっと細められる。
見張りか、盗み聞きか。
値踏みの沈黙が通路の空気を重くし、船長は一歩、距離をつめた。
クロウの背中が通路の角に突き当たり、言い逃れの道を失った。
クロウが喉を張り裂けんばかりに、怒鳴り散らした。
「それよりあの白髪野郎だ! 島への案内をさせねえのかよ。宝はどうするんだ、宝は!」
その叫びに、船長の足がぴたりと止まった。
「あらやだ、そうだったわね。惜しいけれど、お楽しみは後に取っておくわ。アンタ、手下どもを二人ほどアタシの部屋に呼び寄せてちょうだい。あのガキを操舵室へ運ばせるわよ」
「あ、ああ、わかったよ」
クロウはここぞとばかりにきびすを返し、駆け足で去っていった。
船長もまた、手下たちの到着を待つために船長室へと入っていく。
足音が遠ざかり、通路から音が消えた。
手下たちがやってくるまで猶予はない。
◇
シキはモモに短く目配せをすると、物陰から滑り出し、掛け金の外れた引き戸をそっと引き開けた。
薄暗い部屋の隅、酒樽や麻袋が乱雑に積まれた床の上に、トウヤは座りこんでいた。
さっきまで通路に響き渡っていた、あの涙ながらの命乞いの姿は影も形もない。
部屋へ入ってきた二人を見上げるトウヤは、ひどく落ち着き、遠慮のない視線を向けてきた。
シキが背後で音もなく引き戸を閉め、トウヤの前に立つ。
「おびえて、命乞いをしたほうがいいんじゃないのか? それとも演技はもう、やめたのかな」
トウヤは表情を変えず、かすかに首をかしげた。
「何のことでしょうか。僕はただの、哀れな逃亡者ですよ。お二人は、船長殿のお仲間ですか?」
かすれた声で、弱々しく紡がれる言葉。
しかし、その瞳の奥にある警戒の色は、モモにも見て取れた。
「船長とのやり取り、すべて聞かせてもらったよ」
シキが告げると、トウヤはわずかに唇をゆがめ、自嘲気味に笑った。
「耳が良いのですね。ですが、そうだとして、だから何だと言うのです。島が恐ろしい場所であることも、僕が奴隷だったことも、何ひとつ偽りはありませんよ」
時間がない。
通路の奥で、手下たちの騒がしい足音がいつ聞こえ始めても、おかしくなかった。
モモは一歩前へと踏み出し、床に座りこむトウヤの目を、まっすぐに見すえた。
「トウヤ、隠さなくていいよ。わたし、知ってるの。あなたが、あの島でみんなを導いてくれたこと。みんなが襲われて、殺されて……時がさかのぼる前のことを、わたしは全部覚えている」
トウヤのいぶかしむ双眸が、シキへと向けられる。
それでもモモは、息を継がずに続ける。
「関所で出会った真紅のオニ、グレン。わたしのことを『器』って呼んだわ。それがどういう意味なのか、あなたなら知ってるんでしょう? それに、何のために、こんな演技をしてまで、あの島で争いを起こそうとしているの?」
時がさかのぼるなどという、突拍子もない妄言。
まともに取り合うなら、頭の狂った娘か、何らかの目的を持った騙り者と、笑い飛ばされて終わるはずだった。
だが、トウヤは笑わず、切り捨てもしなかった。
薄暗い荷物部屋に、沈黙が降りた。
哀れな逃亡者の仮面は、まだかろうじて貼りついている。
けれど、その下で頬がかすかにこわばり、膝の上の指先が衣のすそを握りこんだのを、モモは見た。
伏せられていた瞳が持ち上がり、得体の知れないものを測るようにモモの顔をじっと凝視する。
かたわらで、シキがわずかに目を細めた。
トウヤは、それまでの弱々しかった態度を、すっと収めた。
「お嬢さん。君は何者だ? なぜそこまで知っている」
部屋の外から、騒々しい足音が近づいてきた。
クロウに呼び寄せられた船長の手下たちが、こちらへ向かってきている。
残された時間は、もういくらもない。
トウヤの視線を受け止めながら、シキは一歩前に出て、声を低めた。
「手短に話そう。僕たちの目的は、あの船長たちを島の関所から遠ざけることだ。君が彼らをどこへ案内し、どんな火種をおこそうとしているのかは知らないし、邪魔をする気もない。僕たちは目的を果たすために、互いを利用し合えるはずだ」
トウヤは凝視したままシキの言葉を受け止め、小さく息を吐いた。
「島に着いたら、君たちが何をどこまで知っているのか、すべて話してもらう。それが条件です」
「約束しよう」
シキが短く応じるのと同時に、引き戸が荒々しく引き開けられた。
体躯の大きな二人の船乗りが、部屋へと踏み入ってくる。
「おい、船長がお呼びだ。操舵室まで来てもらうぜ」
その怒声が響いたときには、トウヤはすでに床の上で小さく身を震わせ、元のおびえきった奴隷の姿へと戻っていた。
「ひっ……あ、頭をたたかないでください、大人しく従いますから、どうか……」
引きずられて部屋を出ていくトウヤは、すれ違いざま、前髪の隙間から一度だけモモの姿を捉えた。
その顔には、計算高さでも、恐怖でもない、得体の知れない存在を見るような深い疑念が浮かんでいた。
連行されていくトウヤの背中を、モモとシキは物陰から見送った。
モモは自分の右手を強く握りしめた。
◇
通路の階段を駆け下りてきたクロウと合流し、三人は足早に甲板へ移動すると、船尾に近い日除けの陰へと身を潜めた。
夕日は海に隠れ、船を包んでいるのは、湿り気を帯びた夜のとばりだった。
深い霧が立ちこめ、星が読めない。
行く手にあるのは隠ヶ島だ。
時折吹く風が霧を払うと、わずかにその輪郭がうかがえた。
モモの右手の結晶はほのかに光を放ち、脈打つ痛みが、島へ近づきつつあることを知らせていた。
操舵室から、船長の怒声が霧を引き裂いて聞こえてきた。
「針路はそのままよ! 潮の流れに逆らわず、その小島の間の瀬に船を滑りこませなさい!」
転舵する船体のきしみが増していく。
シキは目を細め、霧の向こうでわずかに変化していく小島との位置関係を測っていた。
「どうやら、トウヤは約束を守ったらしいね。正面の入り江を避けて、島の裏手へ回りこんでいる。潮の流れを言い訳にして、こちらの望み通りに誘導しているよ」
トウヤのその確かな手際に、モモは安堵よりも、底知れなさを感じていた。
この船を島へと引き入れた先は、かつて目の当たりにした、あの惨劇の光景へと確実につながっている。
霧はますます濃くなり、船首すら見失いそうなほどに、世界を白く染め上げていく。
その白い闇の奥から、あの重苦しくも、なつかしい気配がゆっくりと近づいてくるのを、モモは確かに感じていた。




