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第五十一話 知らない朝

 二人の足音が洞窟の闇に溶けて、祠には、結晶のきしむ音だけが残った。


 人間たちが、関所に押し寄せている。


 知らない。

 この先を、モモは知らない。

 四度の廻りの中で、こんな朝は一度もなかった。

 計画は成った。

 ビャクヤは目覚めた。

 それなのに、戦いが起きている。


 モモは、自分の右手を見た。

 硝子は、爪の先のひと欠片を残すだけだ。

 みずみずしい、ただの手だ。

 幾度もの死を越えてきた廻りの力は、もうこの手の中にない。

 知っていることも、使えるものも、何ひとつ。


 それでも。


「行かなきゃ」


 膝に力をこめた。

 立てなかった。

 もう一度。

 壁に手をついて、ようやく立った。


「お主、何を」


 長老が、かすれた声を上げた。

 ビャクヤが床の上で、小さく首を振っている。


「あの人たちを島へ連れてきたのは、わたしなの。呪いを解くため、手がかりを探しているうちに、引き寄せてしまったのよ」


 声が、震えていた。

 けれど、止まらなかった。


「だから、わたしが終わらせないと」


 伝令の紅鬼が、槍を握り直した。

 盾となれと命じられた相手が、自分で歩いていこうとしている。

 モモはその横を、壁伝いに抜けた。



    ◇



 洞窟を出ると、東の空がわずかに白みはじめていた。


 里を抜ける道は、来たときのままだった。

 白砂の道。

 わらぶきの家々。

 軒先で揺れる、ともらない提灯。


 燃えていない。


 モモは足を止めて、長老の家の前に立った。

 三度目の夜、この戸口の前で、あの老人は杖を取り落として両腕を広げていた。

 燃える家々を背に。

 その光景は、いまここにある白砂の道と、ぴたりと重なって、どちらが本当なのかわからなくなる。


 どちらも本当だ。

 燃えた夜は、わたしの中にだけある。


 板戸の隙間から、小さな目がこちらを見ていた。

 あの子だ。

 クロウを見て泣き出した、年端もいかない子オニ。

 その後ろで、母親が布をかぶった頭を低くしている。


 何か言おうとして、言葉が出なかった。

 ごめんなさいも、もう大丈夫も、この母子は知らない夜のことだ。


 モモは一度だけ頭を下げて、歩き出した。


 山道は長かった。

 走れない。

 何度も転んだ。

 右手で岩をつかんでも、力が入らない。

 身体がついてこない。


 死ぬのが、怖い。

 いつからか、それを忘れていた。

 間違えても、もうやり直せない。

 咎廻りの、最後の朝。

 知らない朝を、自分の足で歩くしかない。


 峡谷の先の空が、篝火に赤く染まっているのが見えた。



    ◇



 同じころ、シキは戦場を走り抜けていた。


 関所の内庭は、出口のない戦場と化していた。

 関所の建物の門を背に、盾を隙間なく並べて立ち塞がる紅鬼の戦士たち。

 そこへ幾度も繰り返される波状攻撃。

 果敢に攻め立ててはいるが、決め手に欠け、悲鳴の数は人間の側に多い。

 この不毛な命の削り合いを後方から指揮しているのが、あの髭面の船長だ。

 片目を失いながらも、戦力のかたよりを作り、死角へ回りこませる。

 海千山千の荒くれ者を従えてきた、実戦の将さながらの用兵だった。


 グレンは戦士たちに防衛の陣を敷かせ、腕を組んで沈黙している。

 進むことも退くこともかなわぬ、泥沼のこう着状態だった。


 どこにも、赤髪の偉丈夫の姿は見当たらない。

 あいつは、そういう男だ。

 光を受けたトウヤが山中で倒れていれば、それを捨て置けるような奴では、決してない。


 シキはグレンの耳にだけ入る声で、言葉を届けた。


「僕たちにはもう一人、仲間がいる。トウヤもおそらくそこに。この無意味な戦いを終わらせるには、彼らの力が必要だ。僕が連れてくる」


 戦場の最後尾へとたどり着いたところで、紅い影が横合いから飛び出し、シキを襲った。

 身を沈めて致命的な一撃をかわし、頬をかすめた爪に、浅い一太刀を返す。

 そこにいた一体のオニは、しかし、シキの顔を見ると不意に殺意を解いた。

 視線をシキから参道の方角へと、二度移す。

 シキが追ってこないことを確認し、そのまま離脱していった。


 誘いか、あるいは別の罠か。

 シキが参道へと視線を走らせると、古い巨木の影から、揺れる赤髪が姿を現した。


「シキ……?」


 参道から現れたのは、憔悴しきったトウヤを背負うクロウだった。

 驚きの後に安堵の息を漏らし、にやりと笑う。


「お前と参道で落ち合う羽目にならなくて、よかったぜ」


 シキは刀を鞘へ収めると、かすめられた頬を袖で拭い、クロウの元へと駆け寄った。

 相棒の胸を拳で打つ。


「目的は果たしたよ、クロウ。モモの呪いは解けた。彼女は祠で、長老たちと一緒にいる」

「っ……! やったな! 本当にやったな……!」


 クロウの顔に、はじけるような歓喜がともる。

 その背にトウヤがいなければ、踊り出していたことだろう。


 だがすぐに、篝火によって浮かび上がる関所の惨状が、現実を突きつける。


「途中までは、うまくいっていたんだがなあ。山ん中でオニと出くわして、敗走寸前だった。そしたら辺りが昼間みたいに明るくなって、オニどもが散った。船長が形勢逆転だと吠え立てて、ここまで追ってきたってわけさ。それと白髪野郎な。俺が見つけたときには、息も絶え絶えだった」

「わかってる。あれは、モモの光だ」

「わかってんなら、いいんだ。あとで聞かせてくれればよ。それより……よっと」


 クロウは、重さでずり落ちていくトウヤを、肩の反動を使って背中の中心へと納め直した。


 トウヤが弱々しくまぶたを持ち上げ、かすれた声を絞り出した。


「随分と騒がしいですね。そうか、ここは関所。あの光のせいで……」


 クロウは、暗い表情をシキへ向けた。


「結局、総力戦か。こうなっちまったら、とことんやるしかねえのか。なあ、シキ」


 しかし、相棒の問いへの答えは、すでに用意されていた。


「いや。ひとつだけ、手がないわけじゃない」


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