第四十三話 前哨戦
日が沈み、白さを失って黒く沈んだ濃霧の中を、船は、潮の流れに逆らわずゆっくりと進んでいた。
ついに、たどり着いた。
すでにここは隠ヶ島だ。
船の両舷から天を衝くようにそそり立つ岩壁は、夜の闇と同化して巨大な黒い影となり、船幅をかろうじて通せるほどの隙間しかなかった。
星明かりすらさえぎられた水路は、さながら巨大な怪物の喉奥を進んでいるかのようで、激しい水流と、それに反響する波音とが、船員たちの鼓膜を震わせていた。
甲板の中央で、黒鉄の六角棍を握りしめたクロウが、険しい目つきで頭上の崖をにらみ上げた。
「待ち伏せにはうってつけだな」
操舵室の木窓から身を乗り出したシキが、闇にまぎれる岩棚を鋭く見すえる。
「ああ。これほど高低差のある狭路だ。落石や、弓での攻撃への備えが必要だよ」
二人の会話が耳に入った男たちが、「盾だ」だの「頭上を見張れ」だのと騒ぎ立てる。
クロウの言葉はもはや、海の男たちにとって無視できないものとなっていた。
統率を嫌う荒くれ者たちとはいえ、迫る戦いを前に何もせずにいられるほど、腹の据わった者ばかりではない。
そんな男たちにとって、クロウとシキの落ち着いた態度と確固とした言葉は、実に頼りがいのあるものだった。
船倉から木板が次々と運び出され、即席の防御壁が組まれていく。
それから間もなくして、闇の奥、船の上方から無数の火矢が襲来した。
かつての廻りで、なすすべもなく甲板を炎に沈めた、あの火の雨だ。
だが、今度は違う。
赤々とした火の粉が夜空を焦がすなか、矢の大半は盾や木板によって防がれ、甲板や帆に突き刺さった矢も、手際よく蹴り折られ、片付けられていく。
「盾がねえやつぁ、火消しだ!」
「オニが来るぞ! 備えろ!」
操舵室の脇で、船長が大鉾の石突で甲板を打った。
怒鳴ってはいない。
ただ、火矢の落ちる場所を読み、人の少ない舷へ手下を三人、四人とあごで振り分けていく。
騒ぐ男たちの背中が、そのあごの動きひとつで整っていくのをモモは見た。
火矢は、露払いに過ぎなかった。
頭上で縄が鳴り、見上げれば、両崖から投げ下ろされた何本もの縄を、紅い影が次々と滑り降りてくる。
まだ空中にあり、まだ届かない――その一瞬を、シキは待っていた。
船べりを蹴り、帆綱をつかんで身を振ると、降下中の縄へ白刃を一閃させる。
支えを断たれたオニは夜へ投げ出され、そのまま水路へと落ちていった。
黒い激流が、その咆哮を一口でのみこむ。
「みんな、目を閉じて!」
モモの声が響く。
狙いは甲板ではなく、岩壁だ。
張りついて降下の順番を待つ影の群れ、その鼻先の岩へ飛礫がたたきつけられると、炸裂音とともに白光が奔った。
闇を見通す眼を灼かれたオニたちは、岩棚にしがみついたまま顔を覆った。
戦意をもくじかれたオニたちは、船が過ぎ去ってなお、動こうとはしなかった。
水路に落ちたオニたちが、下流の岩場へ這い上がっていくのが見えた。
「グガァァァッ!」
それでも数体が甲板へ降り立つと、獰猛なうなり声をあげた。
だが、クロウは正面から迎え撃たなかった。
舵柱を背に半歩引き、振り下ろされた斧を、わざと柱に喰わせる。
刃が木に深くかんだその硬直へ、六角棍の横薙ぎがうなりを上げた。
オニの巨体が甲板にたたきつけられ、そのまま動かなくなる。
二体目の槍は、誘いだ。
かわしざま、石突が胸を突く。
背後へ回りこもうとした三体目には、返す棍が膝を、あごを、続けざまに打ち抜いた。
見る者には、力任せの大立ち回りにしか映らないだろう。
だがクロウの目は次の敵を捉え、棍は常に、最短の弧だけを描いていた。
「十分通じるぜ。負ける気がしねえ」
その一言が、男たちを大いに焚きつけた。
我も我もと、来襲するオニに立ち向かう。
体格において劣る人間たちが、オニを追いつめていく。
最初こそ化け物の姿に腰が引けていた船乗りたちだったが、勝利を重ねるうちに、その顔からは完全に恐怖が消え失せていた。
「次ァどこから来やがる!」
「オニ退治なんて、大したことねえじゃねえか!」
その浮かれた声を、太い悲鳴が断ち切った。
崖に張りついていた最後の一体が、滑り降りざまに放った投げ矢。
それが、操舵室の脇で大鉾を振るっていた船長の顔面をかすめ、その片目を裂いたのだ。
「ぎ……っ、この、泥人形風情が……!」
片手で顔を覆い、指の隙間から血を滴らせながらも、船長は倒れなかった。
残った片目で着地したばかりのオニをにらみ、大鉾を横薙ぎに振るう。
異形の身体は船べりを越えて宙を舞い、黒い激流にのまれて消えた。
「目玉ひとつで済ませてやったと思いな! 野郎ども、たるんでんじゃないよ!」
顔を血に染めたまま吠える船長の姿が、男たちの浮かれた気分を引きしめた。
それから船長は残った片目で甲板を見渡しながら、指で帆柱を、とん、とん、と打った。
頭数を数えているのだと、モモは少し遅れて気づいた。
かつてのモモの記憶では死の罠でしかなかった夜の瀬戸。
それを、今やわずかな損失で乗り越えつつある。
船は鬨の声を上げながら、オニの島の奥深くへと突き進んでいく。




