第四十二話 嵐の前
その夜のこと。
遠い波の音のするなか、見張りの交代を終えたモモが甲板の手すりにもたれていると、外套の頭巾を目深にかぶった白髪の青年が隣へ並んだ。
「眠れないのですか」
「トウヤこそ。あ、お酒はもう平気?」
おのれが引き起こしたことなのに、その顛末を伝聞でしか理解していないのだろう。
トウヤは決まり悪そうに、視線をそらした。
「不思議なものですね」
トウヤはぽつりと言った。
「僕はずっと、ビャクヤを取り戻すことだけを考えて生きてきました。あの子の面影を探して、海を渡って……はじめて君を見たときも、あの子と重ねていた。それなのに」
言葉が、そこで途切れる。
どう受け取っていいかわからず、モモはうつむいた。
「わたしね」
口を開く。
「ずっと、誰かに呼ばれて、守られて、ここまで来たの。二度目の夜に、こっちだ、って道を選んだつもりだった。でも今思うと、あれも、知っている死から逃げただけ。選んだんじゃなくて、選ばされてた。トウヤは違うでしょう。全部、自分で選んできた」
「褒められた選び方では、なかったようですが」
「それでも、選んできたよ。わたしも、そうなりたい」
言いながら、モモは船室のほうへ目をやった。
この船の上で、クロウは一度、翼のあやかしと斬り結んだ。
シキは一度、モモを信じられずに後ずさった。
二人ともそれを知らず、今夜も船室で、明日の段取りを話し合っている。
トウヤはしばらく黙って、モモの横顔を楽しげにながめていた。
モモはそれを直視できずにいる。
やがてトウヤは、視線を空へと移した。
「なら、その時は。君が選んだものを、僕にも教えてください」
答えの代わりに、潮風が二人の間を通り抜けていった。
何も、まだ決まってはいない。
ただ、この夜のことを、モモはきっと忘れないのだろうと思った。
◇
海での生活に慣れるに従って、空と海を彩っていた青は、いつしか失われていった。
空は隠れ、鉛色ににごった波が船腹をたたくようになった。
潮風には冷気がまじり、これまでの旅路が嘘のように、船内から陽気な喧騒が消え失せていた。
代わって這い寄ってきたのは、視界を白く塗り潰す、異常なほどに濃密な霧。
オニの領域を守る結界だ。
隠ヶ島への上陸は、目前だった。
厨房でモモは、包丁を左手に持ち替えてしなびた芋を乱切りしながら、芋を押さえる右手へと視線を落とした。
感覚はなく、以前のようには動かない。
ただつかみ、移動する。
その動作だけであれば、かろうじて使い物になっている。
トウヤの服を仕立て直した、あやかしの加護を持つ上着。
その袖の奥で右腕が、芯から凍りついてしまったと錯覚する。
痛みはないが、うずきはする。
この霧の海のどこかにいるビャクヤの悲鳴が、結晶を通じて直接、モモの魂に届いている証拠だった。
ここからが本当の戦いだ。
うまくいく。
そしてみんなで、笑って帰るんだ。
上陸後の携行食の仕込みを進めながら、モモはその時を待った。
◇
十歩先すら見通せない白一色に視界が染まるなか、操舵室ではシキが羅針盤と海図を交互ににらみつけ、船の振動と波の音に神経をとがらせていた。
「霧の海域から船が戻らないのには、いくつかの理由がある。そのひとつが、隠れ根が連なる海底の地形なんだ。前方への監視を強めるよう、見張りに伝えてくれるかい?」
シキの指示に、伝令役の小男が「へい」と短く応じ立ち去っていく。
そこへ入れ替わるように、白い息を吐きながらトウヤが入ってきた。
見張り台から戻ったのだ。
風と霧で体温を奪われ、唇がうっすら紫色に染まっている。
「この速度なら、日が暮れるころには瀬戸に入ります。切り立った岩壁に沿うように船を進めてください。岩壁の亀裂に潮が流れこむ水路があるので、見逃さず、舵を切って船を島へと入れるように」
トウヤは船長へと向き直ると、言葉を続ける。
「姐さん、その亀裂は、島を横断するように流れる激流の水路です。島の要所ですので襲撃を覚悟してください。ただしその先、上陸してしまえば、激しい戦いはもうありません」
船長がぎょろりとした目をトウヤに向け、ニタァと唇をゆがませて発言をうながす。
トウヤは一呼吸入れると、冷え切った目つきで船長を見返した。
左手を胸に当て、首をかしげると、ささやくように付け加える。
「難所ですが、山を抜けることができれば、その先がオニの里です」
「ひゃあ……! いよいよだねえ!」
船長はうっとりとした表情を浮かべると、霧の向こうにある莫大な宝に、想いを馳せるのだった。




