第三十三話 安宿
港の喧騒から少し離れた、薄暗い安宿の一室。
灯火を消した部屋のなかで、外套を脱ぎ捨てた白髪の青年が、月明かりを頼りに、卓上に広げた海図をにらみつけていた。
桟橋の一角に、爪で刻んだ小さな印がある。
乗組員を集めている、あの船の泊まる場所だ。
出航の日は近い。
脱いだ外套は、椅子の背で青白く光っていた。
あやかしの力を封じた衣。
これを羽織っているあいだは、背の翼も、白鬼の血も、人間の目には映らない。
どちらの一族からもまじり物として疎まれてきた男が、人間の港でふた月近くも息を潜めていられたのは、この衣のおかげだった。
海図の隅に、金貨のつまった革袋がある。
トウヤは、その袋に指先を触れさせた。
宝飾品は、この港の裏市でたたき売った。
「隠ヶ島から命からがら持ち出してきた宝だ」と、これみよがしに触れ回りながら。
ひと月が過ぎ、ふた月目に入って。
噂をうのみにした命知らずの略奪者が、ついに現れた。
あとは、島から逃れてきた生き証人としてあの船に接触し、自らの手で略奪者どもを島へ導く案内人となるだけだ。
そのための舟も、すでに用意できている。
宿の薄い木扉が開いた。
「何者です」
立ち上がり、ふところの短刀へ手を伸ばしかけたトウヤの身体が、扉の隙間に立つ人影を見て、硬直した。
「ビャクヤ!」
思わずその名を叫び、トウヤは椅子を蹴立てて駆け寄って、数歩進んだところで、その足がぴたりと止まった。
「いや、違う。……君は誰ですか」
ビャクヤとは似ても似つかない、人間の娘だった。
娘は何も言わずに、自分の右腕を覆う大きな袖をまくり上げた。
すると、硝子のように透きとおった右腕があらわになる。
そこから放たれる波動に、トウヤの胸がしめつけられた。
この感覚、この禍々しくも愛おしい気配は、まぎれもなく、あの祠の奥で眠り続ける弟ビャクヤのそれと同じものだった。
「お嬢さん、君は何者ですか? どうして僕のところへ?」
モモは、トウヤの瞳をまっすぐに見返した。
「港に噂を流したのは、あなたでしょう。トウヤ、あなたの復讐の果てに何が起きるか、わたしは知っているの。……部屋に入っても、いい?」
返事を待たずに、モモは部屋へ入った。
三度目の廻りで、里が焼けるのを笑っていた男が、目の前にいる。
ひとこと言いたくなるのをこらえて、モモはそのままトウヤを抱きしめた。
「何を……」
そう言いながらも、ビャクヤの気配をまとうこの少女を、トウヤは避けることができなかった。
意思に反して、身体がそれを受け入れてしまっていた。
モモの頬を、涙が伝っていた。
細い腕が背に回されると、トウヤは長年の孤独が嘘であったかのように、熱い血のめぐりを思い出した。
衣服越しに伝わってくるのは、あの深く仄暗い檻の中で凍えている弟の、かつてのぬくもりそのものだったからだ。




