第三十二話 はじまりの日
穏やかな朝。
波の音。
カモメの鳴き声。
木窓の隙間から差しこむやわらかな光が、心地の良い今日を予感させる。
モモが目を開けたここは、船室ではなかった。
帰ってきてしまった。
四年の歳月を過ごしてきた、ひどくなつかしい我が家。
五度目の廻り。
まだ、船にすら乗っていない。
モモは自分の右腕を、視線でなぞった。
時の檻をねじ曲げ、未来を過去へとつなぎ直した、その代償。
それは、かつてなく肉体を侵食していた。
爪先から這い上がった青白い結晶は、すでに手首を、前腕を包みこみ、肩の付け根にまで届いている。
木窓から差しこむ陽光が結晶の腕を透かして、床に純白の影を落とす。
指先を動かそうとしても、感覚はない。
夜、夕暮れ、昼、そして今度は、幾日も前。
腕ひとつ分、さかのぼった。
次に死ねば、どこまで戻るかは知らないが、その時、わたしに残されているものはあるのだろうか。
いや、次なんて、ない。
ガタガタ、と音を立てて、少し立て付けの悪い木扉が開け放たれる。
部屋に飛びこんできたのは、クロウ。
モモはほっとして、笑顔をこぼす。
「な……、お、起きてたのかよ」
慌てたクロウがくるりと回れ右をして、飛びこんできた勢いのままに部屋を出ていく。
その向こうから、シキの声がする。
「だから、言っただろう。――モモ、支度ができたら、あさげにしよう」
「うん、すぐに」
そこで、モモは自分が寝間着姿でいることに気がついた。
「支度してから、行くね……」
消え入りそうな声で返事をすると、顔を真っ赤にして、寝台へと頭から飛びこんだ。
あったのだ、確かにこんなことが。
油断していたわけではないけれど、不意打ちすぎる。
なんで今なの。
モモの一度きりの記憶によると、この日、船はまだ港を出ていない。
数日のうちに、隠ヶ島への乗船の許可を取りつけに行くことになる。
火照る頬を両手で押さえながら、モモは息を整えた。
いつまでも寝台にもぐりこんでいるわけにはいかない。
寝乱れた鳶色の髪を、左手だけで手早くすく。
硝子と化した右腕を、少し大きめの衣の袖へと、慎重に通す。
思うように動かない腕を左手で抱え上げるようにして、何とか身支度を済ませて居間へと向かう。
◇
板張りの床を踏んで部屋を出ると、魚を焼く香ばしいにおいが鼻をくすぐった。
食卓には、すでに三つの膳が並べられている。
クロウは必要以上に大きな身振りで、魚を盛りつけている。
その横顔はまだ、耳の付け根まで赤く染まっている。
「おはよう、モモ。昨夜はご苦労だったね」
椀に麦粥をよそいながら、シキがちらと笑顔を向ける。
一度、外出してきたのだろう。
寝起きのモモと異なり、身支度が整えられていた。
その手元に、別の光景が重なった。
四度目の廻りの夜、金砕棒を担いだ巨体の前へ、迷いなく出ていった白い背中。
駆け抜けるんだ、と言った声。
それきり、背後で戦いの音が消えたこと。
モモの足が、敷居の上で止まった。
「モモ?」
「ううん。おはよう、シキ」
あの夜のシキは、僕を頼れと言った。
目の前のシキは、それを知らずに粥をよそっている。
覚えているのが自分だけなら、自分が抱えていればいい。
港での暮らしの記憶が、島のむごい記憶を解きほぐしていく。
隠ヶ島へ出発する間際まで、モモは酒場で給仕として働いていた。
昨晩は大宴会があり、家路についたのは夜明け前のことだったのだ。
クロウとシキは時折商船に乗りこみ、用心棒や護衛の仕事をしている。
かつての貧困街の仲間たちと徒党を組み、今では夜回りや火消しの男衆を率いるまでになった。
この日は、モモに代わって二人が朝の支度を買って出てくれていた。
やや焦げついた魚は、朝市で仕入れてきたものだろう。
「お魚、ちょっと焦げてる。……でも、いいにおい」
気がつけば、歌うような小さな独り言が唇からこぼれていた。
あの癖が、戻ってきている。
よく通る美しい声はごまかしがきかず、酒場では親方に「呼びこみの口上より客を寄せる」と笑われたものだった。
島では幾度も死んだ。
声を出すことさえ忘れてしまいそうな夜を、いくつも越えてきた。
それでも、湯気の向こうに二人の顔があるだけで、心は勝手に、いつものモモへと戻っていく。
配膳はわたしの仕事、と手が先に動いた。
左手ひとつで箸をそろえ、椀の位置を直し、こぼれた汁を素早くふき取る。
片腕がきかなくとも、港の酒場と宿の給仕で染みついた手際は健在で、見る間に食卓が整えられていった。
それを横目に、シキが何かを言いかけて、小さく苦笑した。
食事が始まると、クロウがシキに目配せをして、興奮した様子で話を切り出した。
「モモ。行けるぞ、隠ヶ島。港で、乗組員を集めている船を見つけたんだ。オニ退治さ。腕に覚えがある奴を探しているんだ」
「この数年、手を尽くしてきた。でも、僕たちだけであの島を目指すには、準備も、資金も、まるで足りていない。ただし、この話に乗るならそれも不要。危険を承知で、やる価値はあると思う」
右手の結晶の呪いを解く手がかりを求めて、三人は方々を駆けまわってきた。
わかっているのは、古い民話の一節――オニがつかう呪いに、人を結晶に閉じこめる術がある、という不確かな伝承だけ。
そのオニとあやかしが住むという隠ヶ島の噂は、ふた月ほど前から、モモが給仕をする酒場でも人気の話題だった。
島から逃れてきたという男と、その男が持ち出したという宝の噂で、港は持ちきりだったのだ。
「話を聞かせてくれて、ありがとう。でも、わたしからもいいかな」
「ん? なんだよ」
「オニにも、暮らしがあるんだよ。その暮らしを守るためなら、容赦なく、人間だって殺せるんだ」
クロウとシキが、いぶかしむような表情になる。
それを見ながら、モモは続ける。
「宝があるなんて話は、たぶん嘘。島には貧しい里があって、いつ来るかもしれない敵を迎え撃つための関所もあって。オニたちはそこで、人間と同じような営みをしているだけだよ」
「やけに詳しいな」
「酒場で、誰かが話しているのを聞いたのかい?」
クロウが難しい顔をして、シキは興味ありげに先をうながす。
「そんなところに、武器を持って乗りこんでも、争いが起こって、憎しみを生むだけ。この呪いの謎を解き明かすには、オニとだって、話し合うべきなんだ」
そう言うなり、モモは、だらりと下げたままだった右手を、左手で目線の高さへと持ち上げた。
衣がはだけ、右腕全体を覆う結晶があらわになると、クロウとシキの箸が止まった。
「船が出航するのは、まだ何日も先だよ。だから、しっかりと準備をして挑みたいんだ。驚くことばかりだと思うけど、知ってること、ぜんぶ話すよ。それから、どうしたらうまくいくのか、いっしょに考えてほしい。あ、わたしはわたしだよ。誰かに操られたり、あやかしが化けてるなんてこともないよ」
固まったまま動かないクロウを尻目に、こめかみを押さえたシキが、何かを言いかけてからやめて、モモの右手にそっと触れる。
モモは、左手をその上に重ねると、真剣そのものの表情で、二人の顔を交互に見た。
「何度でも、わかってもらえるまで、話すよ。あのね……」
長い長い一日は、まだはじまったばかり。




