第三十一話 名付け
二人の視線の先に、星明かりに揺れる船影があった。
シキは衣服を脱ぎ捨てると、音もなく海へと飛びこんだ。
潜水して船首へと肉薄すると、係留した錨の鎖を伝い、器用に這いあがっていく。
一方のクロウは、正面の歩み板から、堂々と甲板へと足を踏み入れる。
「やい! 俺の弟を返してもらいに来たぜ!」
寝静まった夜の港に、クロウの声が響き渡った。
船内に潜んでいた男どもが何事かと色めき立ち、甲板へと次々と這い出てくる。
「なんだあ? このガキ」
「わざわざ売り物のほうから飛びこんで来やがったぜ」
クロウは両手で持った松明を肩の横に立てると、八相の構えを取り、男たちをにらみつける。
それを見た男たちは、相手が子供一人だとわかるや、下卑た笑いに、油断した顔つきではやし立てる。
男たちの意識がクロウへと引きつけられた隙をつき、シキは船内へと侵入を果たしていた。
それを見届けたクロウは、一歩目を踏み出すと、そのまま後部甲板へ向けて走り出した。
追ってきた男の一人を豪打の一撃でたたき伏せ、さらに走る。
色めき立つ男どもの前で足を止めると、投擲の構えを取り、松明を振りかぶった。
クロウの放った松明は弧を描いて飛び、折りたたまれた帆に命中した。
たちまち甲板は、炎の明かりに包まれる。
「この炎は特製だぜ。はやく消さねえと、どこまで燃え広がるかわかんねえなあ!」
船内へと侵入したシキは、暗い通路を探っていく。
甲板から響く足音と怒号を聞きながら、油のにおいのこもる船底の荷物部屋へとたどり着いた。
一人残されていた見張りを難なく無力化すると、鍵を奪い、閉じこめられていた子供たちを次々と解放していく。
「これで全員か? さあ、甲板では今ごろ、こわーいオニが暴れてるぞ。見つからないように、そっと逃げ出すんだ。僕についてきて」
シキが甲板に顔を出すと、燃えさかる炎を消そうとする者、逃げ回るクロウを追う者、たたきのめされ昏倒している者で、船は惨状と化していた。
シキはクロウの健在を確認すると、一瞬だけ安堵し、すぐにまた表情を引きしめる。
子供たち一人ひとりの顔を見て、にっこり笑う。
「いいかい。甲板にいるオニに捕まったら、また船の底に逆戻りだよ。でも、僕についてこられたら家に帰れる」
まっすぐにシキを見つめ返してきた子供を先頭に、隊列を組む。
シキ自身は、小さな女の子を背負うと、号令をかけた。
「じゃあ、いくよ……それ!」
◇
港での騒ぎをかぎつけて、船乗りや夜回りたちが集まってきた。
ほどなくして赤獅子丸の炎は消し止められたが、拘束された二人の男の供述もあり、十手を差した年かさの親分と若い下っ引きによって、船乗りたちは次々と捕縛されていった。
翌朝には、捕らわれていた子供たちは親元へと引き渡され、あるいは、引き取り手の元へ向けて報せが送り出された。
救い出した子供たちのなかに、一人だけ、行き場のない少女がいた。
衣服は汚れ、桃のように頬をふくらませ、何よりもその右手の爪の端が、まるで硝子細工のように不自然に白く透きとおっていた。
「お前、名前は?」
クロウの問いかけに、少女はひどくおびえた様子で立ちすくみ、自らの右手を抱きしめることしかできなかった。
それが、モモとの出会いだった。
「行くところがないなら、俺たちの隠れ家へ来いよ」
「屋根だけはあるよ。他には、何もないけど」
クロウにおぶわれ、隠れ家に連れ帰られたその晩から、少女は高熱を出して寝こんでしまった。
クロウとシキは水を汲み、ぬらした布を替えながら、うなされる少女を代わる代わる看病した。
熱のせいで、少女の顔はますます腫れあがっていった。
熱がようやく引きかけた朝、薄く目を開けた少女に、クロウはあらためて名を尋ねた。
だが少女は、布団代わりのむしろの端を握りしめたまま、力なく首を振るばかりだった。
過去のことはおろか、自分の名前すら思い出せなかったのだ。
名がなければ、呼んでやることもできない。
腕を組んでうなっていたクロウは、桃色に腫れた顔をしばらく見つめてから、とっさに口にした。
「モモってのはどうだ」
シキが顔を上げたが、少女は、熱にうるんだ瞳をまたたかせ、はじめて口を開いた。
「なんで、モモ?」
小さな声で問われ、クロウは目を泳がせ、ぶっきらぼうに答えた。
「なんとなくだ」
あんまりな名付けに、シキは肩をすくめた。
けれど少女は、口のなかでその響きを幾度かかみしめると、ふ、と息を漏らすように笑った。
「モモ……。うん、それ、いい」
拾いものみたいな名前を、気に入ったらしい。
熱の去りきらない顔に、ようやく笑みが浮かぶ。
◇
強きに従い、弱きを従えるのが、道理というものだ。
弱きに従うのは、道理に反する。
ゆえに、今や強者となった我らが、弱者となった者を従えることとした。
立場は入れ替わるが、それ以外は、これまでと何も変わらない。
それの、何が間違っているというのか。
あやかしから、こう突きつけられた。
従えているのではなく、共生しているつもりだった。
不要な力を、必要な力へと換えていくことで、より良くなっていくと考えていた。
歩み寄っている気になっていたんだ。
でも、そうじゃなかった。
わかり合えない、とそこであきらめてしまった。
だから、全部なかったことにしようと思ったんだ。
いや、そうじゃない。
本当に守りたかったのは、そういうことじゃない。
ただ皆と、兄様と、できれば紅鬼たちとも、笑って暮らしたいだけだったんだ。
言葉よりも切実に、大虐殺の歴史の真意が、少年の抱える苦悩が、胸の奥へと流れこんでくる。
そしてそこへ、もうひとつ。
少年の祈りとは裏腹な、狂気によってゆがめられた昏い祈り――知らない感情が流れこむ。
たすけて……。
――何に代えても、必ず救い出します。
さむい……。
――その繭を溶かすため、すべて燃やしつくそう。
だめだよ……。
――そう、このままでいいはずがありません。
にいさま……。
――僕の命など、君が笑ってくれるなら安いものです。
わかっていますよ。
僕だけが、味方なのですから。
だから待っていてください。
いまから君に、逢いにいきます。
ああ、わたしだけが、この咎廻りを終わらせることができるのね。
そのために、わたしは――。
境界のない、白い世界。
惹かれ合う想いがまざり伝わる、束の間の邂逅を超えて、最後の遡行がはじまる。




