第三話 硝子の指先
刺された。
土の中に埋まって、水が――。
胸をつらぬかれた痛みが、頭の中をかきむしる。
だが、手のひらの下にある衣服は破れておらず、血の一滴すら流れていない。
周囲を見渡せば、波の音だけがする、夜の船室だった。
あまりにも生々しい、死の夢だったのだろうか。
そう思い、安堵の息を吐き出そうとして、モモは自分の右手を見下ろした。
この島へ向かう旅のきっかけとなった、爪の端がわずかに白くにごっていた変異。
それがいまや人差し指と中指の、爪先から最初の節までを丸ごとのみこんで、硝子細工へと姿を変えていた。
血の通わない半透明の結晶と化した指先は、窓から差しこむ霧ごしの淡い月明かりを受けて、緋色と紺碧の影を落とす。
おそるおそる動かすと、肉の内側からピキピキと、薄氷がひび割れるような微細な音が鳴った。
冷たい。
けれどこの冷たさは、自分の身体の冷えではない気がした。
もっと暗い場所で、ずっと前から凍えている知らない誰かの――。
なんで。
どうして、いま急にこんな。
ほんのわずかに爪の端をおかしていたはずの変異が、いつの間にか、指先を肉ごと凍りつかせている。
ただの悪夢にしては、すべてが五感に鮮明に残りすぎている。
あの島へ近づいたから? それとも、あの暗闇の底で、本当に一度死んでしまったから?
わからない。
何もわからないのに、肉体に刻まれた結晶だけが、あの恐ろしい死がまぎれもない現実なのだと突きつけてくる。
死んで、戻ってきた。
同じ夜を、二度生きている。
この結晶が、自分という存在をすべて侵しつくすのではないか。
内側から響く音は、自分の命が粉々に砕け散る前触れに思えてならない。
戻ってきたはずの生が、体温を持たない硝子に置き換わっていく。
逃げ場のない恐怖に、思考の糸がぶつりと断ち切られた。
「いやぁ……っ、あ、あ……」
喉の奥が引きつり、まともに息が吸えなくなる。
息を求めてあえぐほどに肺は空気を拒み、視界が闇に覆われそうになった。
けたたましい音を立てて扉が開かれ、ふたつの色彩が視界の闇を払った。
船を焼きつくした業火の赤と、坑道をひたした水の青が脳裏をよぎり、モモは身をすくませる。
だが、視界を満たしたのは、自分を呼ぶクロウの逆立つ赤髪と、混濁した意識を理性の側へつなぎとめるシキの青髪だった。
「モモ! どうした、何があった」
「呼吸を正すのが先だ。クロウ、身体を後ろから支えて」
シキの張りつめた声を聞くや、クロウは迷うことなく寝台へ飛び乗った。
たくましい両腕が、息もたえだえのモモの細い身体を、背後から力強く抱きすくめる。
「モモ、俺が後ろに、ここにいるからな」
耳元で響く荒っぽい声。
絶対に離すまいとする腕の力強さと、そこから伝わる生命の熱。
そして眼前では、シキが膝をつき、顔をのぞきこんでくる。
「モモ、胸の音を聞いて。僕の呼吸に合わせて、ゆっくりと息を吐き出すんだ。大丈夫、僕の真似をしてごらん」
言いながらシキは、モモの身体を引き寄せ、彼女の耳を自分の胸へとそっと押し当てた。
規則正しい鼓動が届く。
暗い土の底、海水の恐怖に囚われていたモモの五感が、二人の持つ生の力によって、現実へと引き戻されていく。
「う、ぁ……し、き……くろう……」
「そうだ、よく喋れた。そのままゆっくり、息を吸って」
シキが優しく、包みこむような声でうながした。
背後のクロウは安堵の息をつき、自分の額をモモの鳶色の髪へと預けてくる。
二人のぬくもりに救われ、モモはようやく正気を取り戻した。
光を、空気を、自分を取り巻くすべてを感じられるようになると――その耳に、船底が波をかむ音が届いた。
この音は、さっきも聞いた。
このあとオニが攻めこんできて、船が壊れる。
砂時計の砂がほんの一握りも落ちないうちに、夜襲が始まる。
モモは次に訪れる恐るべき未来を思い出した。
船底から伝わるかすかな振動が肌をあわ立たせる。
ただの波でも、潮流のいたずらでもない。
あの夜、船が制御を失う直前に聞いた破滅の前触れだ。
「シキ、クロウ、お願い。今すぐみんなに伝えなきゃ!」
叫んだモモの声に、彼女を支えていた二人の身体がこわばった。
「敵が、オニが来るの。それに、この船は、もうすぐ岩礁に乗り上げて壊れちゃう」
「モモ? 何言ってんだ。そりゃ、そろそろ上陸の支度をするころだが」
クロウが背後から、身体を抱きこみ直す。
その熱は、夢のなかで見た死を忘れさせるほどにあたたかい。
けれど、そのぬくもりこそが、モモの焦りをいっそう激しく燃え上がらせた。
生きていてほしい。
離れ離れには、なりたくない。
「夢じゃない! 寝ぼけてもないよ。甲板も、帆柱もはじけ飛んで、みんな砂浜に投げ出される。炎が上がって、夜空が赤く染まるの。それから、闇の中から紅い眼をした、あの獣みたいな……」
まだ見ぬ光景を、モモはまくし立てた。
クロウとシキが、困惑して目を見交わす。
ふだんなら、ひどい悪夢におびえているのだと受け止め、そっと寄り添ってくれる二人だ。
けれど今、そのまなざしは、悪夢と呼ぶには真剣すぎる訴えを、はかりかねていた。
「シキ……」
クロウの戸惑いをはらんだ声が、船室に響く。
シキはモモの正面に膝をついたまま、自分の手を握りしめて離さない彼女の右手に、視線を落としていた。
人差し指と中指を覆いつくす結晶の変異が、月光をにぶく弾いている。
「その指先は、いつからそうなった?」
シキの問いに、モモは息をつまらせた。
説明などできるはずがなかった。
あの死の底から戻ってきたとき、時をまたいで、この指だけが凍りついたのだ――などと。
「わからない。でも信じて。もう時がないの。今すぐ船を止めないと、みんな死んじゃう!」
涙ながらに訴えるモモの指先が、シキをつかんで離さない。
シキはしばらくその目を見つめ返し、それから短く息を吐いた。
「クロウ、甲板へ。見張りへ警戒を強めるよう伝えてくれ。波の向こうにうごめく影が見えた、とでも言い含めるんだ」
「おい、本気か?」
「このおびえ方は尋常じゃない。杞憂に終わるとしても、備えを怠るべきではない。僕はここでモモを」
シキが言葉を言い切るよりも早く。
胃の底を直接揺さぶる不快な接触音と振動が、船底から響いてきた。
岩礁地帯に入ってしまった。




