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第二十九話 立ちはだかる劫火

 月明かりを含んだ霧が、白鬼の里を青白く沈めている。

 モモはその情景を振り返ることなく、記憶を頼りに裏山へと足を向けた。


 白い息を吐きながら、峻険な山道を進んでいく。

 指全体が完全に硬質な硝子へと変貌した右手は、今や動かすことすらままならない。

 もはや痛みを感じることはなく、ただ、この先の祠、ビャクヤの元へとモモを急き立てるのだ。


 急がなければ。

 トウヤが、祠の封印を解いてしまう前に。


 目指すのは、かつて別の時の廻りのなかで、モモが一度だけ足を踏み入れた洞窟だった。

 その入り口へと続く険しい岩壁の連なりを駆け上がる。


 しかし、洞窟を視界に捉えられるよりも早く、その異変は訪れた。


 不意に、すべての音が消えた。

 木々を揺らしていた風も、鳥の羽音も、自分たちのせわしない足音すらも、音無き音にかき消された。

 同時に、肌を刺す圧迫感。

 岩壁の輪郭が揺らぎ、湿った腐葉土から白い煙が立ちのぼっていく。


 足を止めたモモが声を絞り出すより先に、シキがモモの前に立ち、白刃を抜いた。

 後ろ手にモモに下がるよう合図をすると、腰を落とし、構えをとった。


「よもや、ここまでやってこようとはな」


 声の主が、岩陰からゆったりと姿を現した。

 隠ヶ島の首領――グレンだ。


 二本の角は赤銅色に熱され、逆立つ黒髪は炎そのもののようにゆらめいている。

 血走った両眼は底知れない怒気をはらみ、見る者を圧倒する。

 そして巨大な金砕棒が、その太い右腕に握られていた。


 シキの背が、一瞬だけたじろいだ。

 刀の切っ先が、かすかに震えている。


 それに構わず、グレンが金砕棒を担ぎ上げ、シキとの距離を無造作につめる。

 戦いは避けられない。


「モモ、駆け抜けるんだ。できるね?」


 シキが、モモを振り返った。

 そこにあるのは、有無を言わさぬ決意の表情。

 左手へと回りこむと、気合の声をあげた。


 走りながら刀を逆手に持ち替えると、もう一方の手で腰の鞘を引き抜く。

 腕をそのまま前方へ大きく振り上げると、グレンの顔面へと向かって投げつけた。

 同時に、大きく踏みこみながら、白刃をひらめかせる。


 グレンはその猛攻を避けようともせず、シキを目掛け、金砕棒を振り下ろす。


 角に命中した鞘が、激しい炸裂音とともにはじけ飛んだ。

 火花が散り、立ちこめる硝煙がグレンの頭部を覆う。

 わずかにそれた金砕棒をすんでのところでかわしざま、シキの刃が、グレンの右腕の皮膚を浅く切り裂いた。

 そのままシキは、転がるように足元へと滑りこむ。


 だが、硝煙に灼かれてなお、グレンの巨躯にはわずかの揺らぎもなかった。

 視界を潰されながらも、ひるむことなく四肢を振るう。

 振り回した左の拳が、ふところに入りこまんとするシキの脇腹を捉えた。


「が……っ!」


 不安定な体勢から繰り出された、予測のできない反撃。

 にもかかわらず、その拳はシキをたやすく吹き飛ばすだけの質量と殺傷力を秘めていた。

 すでに意識を飛ばしているシキが、受け身も取れず、二回、三回と、転がるように地面を跳ねる。


 そこへ、視力の戻ったグレンの金砕棒が打ち下ろされた。



    ◇



 よろめきながら山道を駆けるモモの背後から、戦いの音が消えた。


 振り返るな。


 視界がにじみ、嗚咽が漏れそうになる。

 それでもモモは、がむしゃらに足を動かし続けた。

 クロウに続いて、シキまでもが、わたしのために命を散らそうとしている。

 振り返りたかった。

 けれど、足は止まらなかった。


 巨岩の間を駆け抜け、禁忌の洞窟へと続く開けた岩場へと飛び出したところで、モモは足をもつれさせ転倒した。


 倒れ、転がったまま動けないモモの視線の先。

 そこに、不自然に倒れ伏しているものがあった。

 もう二度と動かない、白髪の男――トウヤだ。

 そのすぐそばには、折られた純白の片翼が打ち捨てられている。


「トウ……ヤ……」


 モモの声が震えた。

 船長を謀り、争いを起こし、そうまでして会いたかった弟のもとへ。

 それでも、届かなかった。


 だれも、救われない。


 背後から、朝になりきる前の山肌を登ってくる重い足音が近づき、長い影が落ちる。

 振り返らずとも、それが誰なのかはわかった。

 巨大な金砕棒を引きずったグレンが、霧を裂いて歩み寄ってくる。


 ああ、だめね。

 ひとりでやろうと決めたのに、結局途中から助けられて。

 なにもかもが、中途半端。


 モモは上半身を起こすも、力なくその場に座りこんだまま、グレンを迎えた。


「逃げ回っていた子供は、お前で最後だ」


 地底から響くような、グレンの声音。

 その言葉に、モモの胸は痛んだ。


 迫りくる死の恐怖のなかでも、モモの瞳はグレンのまとう真紅の劫火を見つめ続けていた。

 そのゆらめきは、あまりにも張りつめ、狂いそうなほどの焦りに満ちていたのだ。


「グレン、あなたはどうして、そこまでして……」


 モモは自分の結晶化した右手を強く抱きしめ、声を震わせながらも問いかけた。


 グレンは金砕棒を地面へ突き立てると、深く底知れない孤独のまざる眼光で、モモを見下ろした。


「あの光を放っておけば、我が同胞も、この島に生きるすべての命も、ことごとく滅ぶ定め。我は、浅はかな振る舞いで島に危機をもたらす羽虫どもから、封印を護らねばならぬ」


 モモの頭のなかで、散らばっていた惨劇が、ひとつにつながった。


 しかし、それ以上の問答は許されなかった。

 考える間もなく、引き抜かれた金砕棒が、頭上高くへと持ち上げられる。


「滅せよ」


 モモはゆっくりと目を閉じ、結晶化した右手を胸に押し当てた。

 そして、消え入るような小さな声で祈った。


「――お願い。もう一度だけ」


 鉄の塊が振り下ろされた。


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