第十九話 微笑み
薄暗い通路には、ひんやりとした湿気と、古びた木材のにおいが立ちこめている。
甲板の馬鹿騒ぎが、厚い木壁にさえぎられて遠のいていく。
突き当たりの部屋に入り、扉を閉めると、部屋の中の空気はいっそう冷ややかに感じられた。
シキはモモの手首を離すと、あらためて、その右手を注視した。
さっきまでは、ほんの指先、爪の一部だけだったはずの結晶が、五指すべてを覆っている。
理解の範疇をはるかに超えた事態を前に、シキの内心はかつてないほど揺れていた。
それを表に出せば、モモをおびえさせてしまう。
動揺を胸の奥へ押し殺して声を絞り出した。
「いつから……その手はいつから。ついさっきまでは、爪の先ほどの変異だったはずだ。それがなぜ、こうも短時間に」
問いかけながら、シキはモモの顔をのぞきこんだ。
「それに、なぜ、君はそうも落ち着いているんだ」
モモは、感覚を失っているはずの右手の指先を見つめている。
薄暗がりのなかでも、硝子と化した五本の指は、死んだ色の半透明の光を放っていた。
これまでの彼女なら、震えて泣き出してもおかしくない状況だ。
モモはゆっくりと顔を上げた。
その瞳には涙も、おびえもなく、ただゾッとするほど平坦で乾いている。
そしてまばたきもせず、ふわりと唇の端を持ち上げて微笑んだ。
ただ形だけをそれらしく模したような、血の通わないいびつな笑みだった。
「シキにわかるように、説明するね」
目の前の相手をいたわる、優しい語りだし。
だが、その声の調子も、小刻みな首のかしげ方も、シキの記憶にあるいつものモモとは妙にずれていた。
見えない糸で操られた木偶人形が、少女のふりをしている。
シキの胸の奥で、冷たい汗がじわりとにじんだ。
いま目の前にいるのは、本当に僕の知っているモモなのか。
それとも、モモを疑い取り乱している、僕のほうがおかしくなってしまったのか。
おのれの正気すら信じられない思いにシキが身を硬くするなか、モモは感情のない笑みを浮かべたまま、淡々と語り始めた。
「島の関所には、グレンという支配者がいるの。言葉を交わしてもわかり合えないし、戦っても絶対に勝てない。でもね、関所の先にある白鬼の里には、この右手のことを知っているオニがいる。里の裏山の祠には、とても強い力を持ったオニがいるの。話ができる状態ではないかもしれないけど、わたしはそこを目指したい」
モモは硝子の右手を、少しだけ持ち上げてみせた。
「やり直すたびに、この手が凍っていく。だからもう、あまり時間は残っていないんだと思う。でも、里までの道は知っているから、シキ、いっしょに来てほしいの」
そこまで一気に話し終えると、モモはシキの様子をじっと見つめた。
シキは細身の刀の柄に手をかけたまま、動けずにいた。
自分の顔が蒼白になっているのが、鏡を見なくてもわかる。
その顔を見て、モモはふっと笑みを消し、小さく首をかしげて考えこんだ。
「そうよね……突然こんなことを言われても信じられないよね」
その寂しげなつぶやきと同時に、乱暴に扉が開け放たれた。
「ひどい目にあったぜ!」
息を荒くしたクロウが、部屋に飛びこんできた。
衣服を大慌てで整えながら、文句を垂れる。
「あの船長、馬鹿力で振り回してくるわ、いつまでも離してくれねえわ、今度ばかりは終わりだと思ったぞ。って、どうしたよお前ら。何かあったのか?」
クロウは二人の間にただよう、ピリピリとした空気に気づいて、言葉を失った。
無表情でたたずむモモ。
態度を決めかねているかのような、落ち着きのないシキ。
モモは、そんな困惑する様子のクロウに向き直った。
「ちょうどよかった。クロウも聞いて。もうすぐ、島から舟で逃れてきた奴隷が現れるよ。白髪の――白鬼っていう、オニの一族。名前はトウヤ。あいつはおびえたふりをしながら船長に取り入って、みんなを、紅鬼と戦わせようとするの」
モモはそこで一度言葉を切り、シキとクロウの顔を交互に見つめた。
硝子の指先が、部屋の薄暗がりのなかで冷たく光る。
「そうなるから……そうしたら二人とも、信じてくれる? わたしの言っていることを。わたしは、これからどうなるかを、知っているの」
あまりに突飛で、それでいて確信に満ちた予言。
クロウはモモの尋常でない様子に圧倒されながらも、おずおずと口を開いた。
「これから、なんだって? わかんねえよ、俺には。信じるって、何を?」
クロウは戸惑いを隠せず、シキへ助けを求めた。
だがシキは、モモの右手と、その笑わない瞳を凝視したまま、ぴくりとも動けなかった。
頼みの綱のシキまでが黙りこみ、部屋を支配する重苦しさに耐えかねたのだろう。
クロウは頭をがしがしとかくと、いつもの調子で笑い飛ばそうと声を張った。
「あ、そうだ。霧だよ、霧。さっき甲板で聞いたんだけどよ。この先は濃霧地帯で、あやかしが出るってさ。迷いこんだ船をみんな沈めちまう、おそろしい怪異の噂だ」
クロウは、いたずらをした子供を見るような目で、にっと笑う。
「さてはモモ、その話、知ってたな? ははっ、すっかり騙されるところだったぜ」
しかしモモは表情を変えずに、クロウを見返すだけだった。
そのあまりに冷ややかな態度に、シキは胸の奥の焦りをいよいよ抑えきれなくなる。
鋭く、さえぎるような声で言い放った。
「少し黙っててくれ、クロウ」
「お? おう……」
クロウはシキのただならない気迫に押され、言葉をのんだ。
沈黙が、じわじわと三人を追いこんでいく。
どれほどの時が流れただろう。
丸窓から差す光が、いつの間にか琥珀色に変わっていた。
その重い沈黙が、唐突に破られた。
「前方に舟だ! 誰か乗ってやがるぞ!」
ドタドタと甲板を駆ける激しい足音とともに、船乗りの濁声が響き渡った。
モモの口角が持ちあがった。
「ね?」
シキの手が、刀の柄の上で止まった。
恐ろしいものを見る目を、目の前の少女へ向けていた。
「本当に……。モモ、君は――」
その後ろでは、クロウが壁へ背を預けている。
大剣が鞘ごと押し付けられ、木目を傷つけていた。
モモはそれ以上何も語らない。
硝子の指先を見つめていた。
その横顔には、予言を的中させたことへの自慢げな様子も、考えをめぐらせているようなそぶりもない。
ただ、二人の返事を待っている。
「漂流者、だってさ。確かめに行こうぜ。そいつ、放っておくとマズいんだよな」
クロウが、おどけた声をあげた。
いたたまれないのだろう。
いつもなら考えるのはシキの役割なのに、その本人が押し黙ってしまっているのだから。
クロウはぴしゃりと両の頬を張ると、大声を出した。
「クソッ……わけがわかんねえよ! でもこういうときはよ、考えていたって仕方ねえぜ」
扉を開け放ち、廊下へと足を運ぶ。
しかし、シキは動けず、モモも何を考えているのかわからない表情でクロウを見つめている。
「なんだよ。ったく。だったらそうやって、いつまでも固まってやがれ! 俺は、その白髪野郎が本当にモモの言う通りの奴なのか、この目で確かめてくる。お前らは、そこで頭を冷やしてろ」
言葉とは裏腹な、途方に暮れた顔で、クロウはこの場から逃げ出した。
乱暴に扉がたたきつけられる音が響き、薄暗い船室には、ピキピキとかすかに鳴り響く結晶のきしみと、シキのやや乱れた呼吸の音だけが残された。




