第十八話 甲板の相撲
心を閉ざすことでしか、自我を保てない。
そうすることでしか、大切な人を守れない。
そう思えるのは、そうまでして失いたくないものがあったから。
壊れゆく心をつなぎとめる、遠い日の記憶――知らない感情が流れこむ。
自分を伝えるにはまず、相手を知ることから。
だから旅立とうとしている。
これは、現在だけではなく、未来を紡ぎ、守っていくための最初の一歩。
でもせめて、身の安全を祈らせて。
災いと悪意を退ける衣を羽織らせて。
これは、僕だけじゃなくて、兄様とともに信頼を築いてきた、皆からの贈り物。
離れ離れになっても、僕たちはつながっているよ。
ほら、お揃いなんだ。
似合ってるよね、二人とも。
◇
四度目の廻り。
同じ日の、今度は昼。
ぼんやりとしているモモの視界の端で、男たちが輪になって大声をあげている。
甲板では、上半身をはだけた二人の男が、重心を低く落として取っ組み合っていた。
歓声と素足が床を踏み鳴らす音が、船全体を小さく揺らしている。
「昔はよくとったよな、シキ」
太い腕を組んだクロウが、その光景をながめながら無邪気な笑みを浮かべる。
隣にたたずむシキは、わずかな苦笑をにじませた。
「無理やり付き合わされる身にも、なってほしかったね」
クロウはさらに熱を帯びた目で、人垣の輪のなかで汗を散らす男たちを見つめる。
「さすがに鍛えられてはいる。だが、俺の敵じゃないな」
その熱狂のすぐ側で、モモはただ、海原の先をながめやる。
「でも……船長には、かなわないよ」
うつろな声で、ぽつりとつぶやいた。
脳の奥底におりのように残っていた記憶の断片が、意識の表面を滑り出ただけの、頼りない声。
しかしクロウには、その一言で十分だった。
「は? かなわない? 俺が? 誰に?」
思わず大きな声が出た。
甲板の喧騒を突き破るほどの、恐れを知らない若者の声だ。
「俺が負けるわけ、ねーだろうが」
クロウがむきになって胸を張ると、そのやり取りを聞きつけた周囲の荒くれ者たちが、新しい見世物を喜ぶようにドッと沸いた。
「おい、おい! 小僧、大きく出たじゃねえか。それだけ言うなら、やってみろよ」
クロウは、おのれの胸をたたき、不敵に笑ってみせる。
「いいぜ、望むところだ」
男たちが歓声で応じると、人だかりを割って、巨体の船長が、ぬっと進み出る。
「いい度胸じゃないの」
いかつい顔に怪しげな笑みを浮かべ、ぎょろりとした瞳でクロウの全身を見つめる。
「アタシが直々に揉んであげるわ」
声を響かせるなり、上着を脱ぎ捨てた。
次いで、その下に隠れていた銭函を上着の上に置くと、クロウに向き直った。
昼下がりの日差しに、分厚い肉体がむき出しになる。
負けじとクロウも上半身をはだけると、鍛え上げた肉体で応じた。
だが、威勢がよかったのは最初だけ。
組み合ったところで、すぐに勝負が決まってしまった。
クロウ渾身の押しこみは、巌の巨躯にびくともしない。
逆に船長はその帯を軽々とつかみ上げると、まるで童をあやすように、甲板の上で振り回してみせる。
「ほらほら、どうしたの色男。アンタの力はそんなものなの!」
「ぐ、おおっ……化け物かよ、あんた!」
何度組み直しても、足をかけても、まるで歯が立たない。
すっかり主導権を握られ、宙で手足をばたつかせるクロウの姿に、周囲の男たちから爆笑が沸き起こった。
クロウは完全に形無しになり、ひたすら手玉に取られ続けていた。
その喧騒をよそに、モモは水平線の彼方をながめていた。
もう、戦わない。
トウヤもグレンも、言葉が通じる相手ではなかった。
それに、クロウとシキには、これ以上傷ついてほしくない。
できるだけ争いを避けて、誰よりも早く白鬼の里へ行く。
この島の過去を調べあげる。
それが、この右手を治す唯一の手がかりのはずだから。
脳裏を閉ざしていた霧はようやく晴れ、思考が形を成し始めていた。
右手の肉の内側から、ピキピキと冷たいきしみが這い上がってくる。
夜、夕暮れ、昼。
戻るたびに、遠くへ。
そのぶん、わたしが失われる。
次に死んだら、どこまで戻って、どこまで凍るのだろう。
死ぬたびに、咎をひとつ背負って戻る。
長老の口にした「咎を廻り」という言葉が、ひとつの名となって浮かんだ。
咎廻り。
視界の端で、シキの動きが止まった。
モモの右手をのぞきこんだまま、まばたきもしない。
結晶は今、右手の五指すべてを根元から甲まで覆いつくすように広がっていた。
太陽の光がにぶく透過し、藤色の影を甲板に落としている。
動かそうとしても、感覚はどこにもなかった。
熱のない半透明の結晶と、なり果てていた。
モモは首をかしげて、シキを見返した。
もう、おびえはなかった。
周囲には大勢の船乗りたちが集まり、手玉に取られるクロウの見世物に大騒ぎしている真っ最中だ。
シキは何度か呼吸を整えると、周囲に悟られないよう、努めて落ち着いた声音を作った。
「陽に当たりすぎたようだ。モモ、少し休んだほうがいいんじゃないか」
シキはモモの手首をそっと、しかし拒絶を許さない強さで握りしめた。
モモは抵抗することなく、シキに導かれるまま歩き出す。
「俺の負けだって……ふおっ、言ってん……だろ!」
クロウの悲鳴と、それを笑う男たちの歓声を背に、二人は甲板を後にした。




