第9話 山神の悲鳴と見えざる隘路(あいろ)
長大な天浮橋を渡りきり、大山津見神の管轄する広大な山岳地帯へと足を踏み入れたソウと弥彦。
そこで彼らを待っていたのは、大自然の雄大さや清々しさなど微塵も感じさせない、末端労働者である木霊たちの阿鼻叫喚の悲鳴だった。
「ひいいい! 今月分の植林の割り当てが終わりませんー!」
「山の傾斜計算と等高線の書類が雪崩を起こしたぞー! 誰か生き埋めになってる!」
「予算申請が通ってないから苗木が足りませんーー!!」
まるで建設会社の仮設プレハブ小屋のような神殿の奥。山のように未処理案件の書類が積み上がった机を前に、過労死寸前で完全に白目を剥いている、巨躯の山神・大山津見神の姿がそこにあった。
「……なるほど」
ソウは腕を組み、パキパキと指の骨を鳴らす。その目は、獲物を見つけたプロのコンサルタントのそれだった。
「これは天路管理課よりタチが悪いな。現場の熱意だけで回そうとして完全に詰んでる。――よし弥彦、まずは業務手順の棚卸しと、仕事の可視化から始めるぞ。徹夜の準備をしておけ」
――その夜。
ソウは山神領の薄暗い詰所に引きこもり、現地に乱雑に放置されていた書類の束を、文字通り徹底的にひっくり返していた。
弥彦が気を利かせて淹れてくれた、少し苦めの薬草茶をすする。その間も、ソウの視線は書類に書かれた数字や文言の一言句を、恐るべき速度で走査していく。
夜が更け、静寂が詰所を包み込む頃、元社畜の鋭い鑑識眼は、ついにこの組織を蝕む「致命的な構造欠陥」の正体を突き止めた。
「……おい、弥彦。これを見てくれ」
「どうしたの? 何か決定的な問題でも見つかった?」
ソウが冷え切った指先で指し示したのは、山神領から高天原の天照へと送られた、定期報告書の控えだった。
「大山津見神様は、口頭でも上層部への報告でも『問題なし』の一点張りだった。だが、この実際の現場から上がってきた細かい異変報告の束を見てみろ。現場からの悲鳴、地脈の乱れの予兆は、むしろ大量に出されている。過剰なほどにな」
だが、ソウがその隣の書類をめくると、そこには衝撃の光景があった。すべての詳細な報告書の末尾には、一律で、形式的な「問題なし」の承認スタンプが大山津見神の手によって押されていたのだ。
「緊急を要する神獣の暴走案件も、道端の草木が枯れたという通常案件も、すべて同じ形式の書類で、同じ箱に入れられ、全く同じ優先順位で処理されている。つまり……情報量が多すぎる上に整理されていないせいが半分、そしてもう半分は、大山津見神様がすべて『自分が動けばいい』と抱え込んで、事実上握り潰しているせいだ。結果として、上層部の誰も、この現場の本当の危機を精査できていない。重要な警告が、日々の雑多な定型報告の中に完全に埋もれてしまっているんだ」
現場の末端たる木霊たちは、必死に悲鳴を上げて書類を出していた。
しかし、組織のパイプラインが不完全なせいで、天照の元にその声が届く頃には、ただの「異常なし」という無機質な定型文にまとめられ、隠されてしまっていたのだ。
「原因はこれだ。現場の怠慢でもなければ、天照様の不手際でもない。組織の仕組み(パイプライン)が完全に機能不全を起こしている。先日の天路管理課と同じだ。個人の超的な限界に依存した、典型的な『独裁的経営の弊害』だよ」
ソウは書類を机に叩きつけ、目をいたわるように揉み解した。しかし、その目は闇夜の中で静かに光を放っていた。
「見つけたぞ、情報の隘路を。――よし、明日から一気にひっくり返す」
――だが翌朝。
ソウが徹夜の目をこすりながら立ち上がった直後、社の奥から「山神様がまた『机に向かってられるか!』って斧を持って現場に走っていっちゃいましたー!」という木霊たちの悲鳴が響いた。
無理やり体を動かして最前線へ向かったワンマン社長を追うため、ソウと弥彦は急ぎ社を飛び出したのだった。
ソウたちは、大山津見神を追うと同時に、現状をさらに深く把握するため、彼が管轄する、葦原の中つ国の広大な山岳地帯の最前線へと直接足を運んだ。
高天原の完璧に統制され、剪定され尽くした美しい庭園のような自然とは完全に一線を画する、荒々しく、泥臭く、圧倒的なまでの生気と質量を持った大森林。
一陣の風が吹き抜けるたび、緑の海全体が地鳴りのような音を立ててざわめく。川面から吹き上げる湿り気を帯びた冷たい風と、むせ返るような土の匂い。まるで世界そのものが巨大な生き物として絶え間なく呼吸を繰り返しているかのようだった。
「……空気が違うな。重いというか、生きている感じがする」
「どう? ここが僕たちの守るべき、葦原の中つ国だよ」
「想像していたよりもずっと野性的だ。神の領域というより、怪物の住処と言われた方がしっくりくる」
ソウは眩しそうに遠くの山並みへと目を細めた。
右を見ても、左を見ても、視界の端から端までが圧倒的な緑と岩肌で埋め尽くされている。連なる嶺は一つや二つどころではない。
「上(天浮橋)から見た時も頭がおかしいと思ったが、昨晩の書類と合わせると、いよいよ狂気がリアルに伝わってくるな。右を見ても左を見ても、この質量すべてを、大山津見神は本当にお一人で背負うつもりか」
「うん。大規模な霊脈の調整や神域の維持といった基幹業務は、基本的には全部大山津見神様がお一人で背負っているんだ」
「終わってるな」
ソウの回答は一瞬だった。元社畜としての防衛本能が脳内で一斉に警報を鳴らしていた。現場がどれだけ精神論で踏ん張ろうが、破滅は時間の問題だ。
重苦しい現実を前に、二人がこれからの交渉の難航を予感した時だった。
「いたぁぁぁぁーーーーっ!」
大気を引き裂くような、悲痛な悲鳴が森の奥深くから響き渡った。
木々の隙間から半泣きで飛び出してきたのは、十体近い小さな木霊たちだった。以前、天路管理課の窓口へと命からがら駆け込んできたあの精霊たちだ。
彼らは、見知った顔である弥彦の姿を捉えるや否や、一縷の望みをかけるようにその足元へ転がり込んできた。
「や、弥彦様ーーっ! 助けてください、このままじゃ山神様が死んじゃいます!」
「全然寝てくれないの! いくら休んでって言っても、怒鳴り散らして現場に行っちゃうの!」
完全に精神的・肉体的な限界を迎えた現場の、文字通りの「悲鳴」だった。
「落ち着け。まずは現状を正確に把握する。具体的に、何が起きている?」
ソウが問いかけると、木霊たちは堰を切ったように報告を捲し立てた。
丸三日の一睡もなき強行軍、南の山火事、東の参道の大崩落、北の尾根での神獣の縄張り争い、西の川の霊水噴出――そして、そのすべてをあの馬鹿正直な山神が一人で解決しようとしているという、絶望的なトラブルのオンパレード。
「また、このパターンか……」
「高天原の内部だけかと思ってたけど……地上の神々も、根深い病を抱えていたんだね……」
弥彦の目が濁っていく。宇迦之御魂神しかり、天石門別神しかり。この世界のトップは、どうしてこうも自分を切り売りすることしか考えないのか。
「……分かった。案内しろ。現場を見なければ、対策も立てられない」
ソウは長く伸びた前髪を無造作にかきあげ、完全に「戦闘モード」へと意識を切り替えた。
小さな案内人たちに連れられて険しい山奥へと進むほど、周囲の景観は目に見えて悲惨なものへと変貌していった。
炭化して黒く焼け焦げた巨木、大きく抉れて参道を埋め尽くす大量の土砂と巨岩。
本来ならば生命の息吹に満ち溢れているはずの美しい山容が、明らかな「過負荷」によってあちこちから悲鳴を上げている。ソウの動体視力が捉える範囲だけでも、同時多発的に発生した災害の爪痕が、初期対応だけで手一杯になり、その後の復旧まで手が回らずに放置され始めているのが分かった。
「完全に異常事態だよね。霊脈の歪みが、そのまま土地の物理的な破壊となって噴出してるんだ……」
荒れ果てた山道を、息を切らしながら歩を進める中で、ソウは確信していた。これはシステム全体がカタストロフに向かって瓦解を始めている予兆だ。
正式な復旧対応が追いついていない現場の惨状。そしてついに、その崩壊の元凶であり、最大の被害者でもある存在と、現場で正面から対面することとなった。
「ガハハハ! よくぞ来たな、天照の若造ども! 遠路はるばる、こんな辺境までご苦労なことだ!」
地響きのような、地を揺るがす豪快な声が山々に響き渡った。
装束は至る所が破れ、山火事の煤で真っ黒に汚れた大山津見神。背中には、刃こぼれだらけの巨大な斧を背負っていた。一目見ただけで「現場叩き上げの熱血ワンマン社長タイプ」と直感できる佇まいだ。
だが、その豪快な笑顔とは裏腹に、顔色は土色に濁り、その鋭い眼光の裏にはどす黒く染まった濃いクマが刻まれている。立っている足元も、わずかに小刻みに震えていた。
「あの……大山津見神様……?」
弥彦が恐る恐る声をかける。
「その、単刀直入にお尋ねしますが……ちゃんとお休みになられていますか?」
「休んどるさ! 三日前に、そこの木陰でがっつり一時間は寝たわい!」
「それを世間では『一睡もしていない』と言うんですよ!!」
ソウの容赦のないツッコミが、静まり返った山々に空しく響き渡った。
「ぬうっ!? 何を無礼な若造が――おっと、ガハハ! ほら、次だ! 次は東の参道の修復へ行くぞ!」
大山津見神は、今にも崩れ落ちそうなフラフラの足取りで巨大な斧を担ぎ直し、無理やり身体を動かして歩き出そうとする。
その後ろからは、部下である木霊、草木を司る野椎神、水霊の幼い少年少女の姿をした神使たちが、今にも泣き出しそうな顔で、わらわらと裾に縋り付いていた。
「オオヤマツミ様! もう止めてください! これ以上は本当にお体が持ちません!」
部下たちは全員、この不器用な主を心から愛し、心配している。だが、肝心の主たる本人が、その愛情をすべて空回りさせて突っ走っているのが現状だった。
「大山津見神様、失礼ですが、極めて事務的な観点からお尋ねします」
ソウは、目の前で行われているあまりにも非効率なスタンドプレーに呆れ果て、冷徹なトーンで問いかけた。
「この広大な山神領を、一体どれほどの手だてで差配されているのですか。実際に動ける人員の数を教えてください」
「ん? 俺一人で十分だ!」
大山津見神は、何を当然のことを、と言わんばかりに堂々と胸を張った。
「完全に御身の限界を超えています。どれほど神としての御力が強大であろうとも、体は一つ、限界というものがある。あなたがやっているのは『統治』ではない。ただの『その場しのぎの曲芸』です」
そこへ、山道の茂みを激しく掻き分け、血相を変えた木霊の伝令が飛び込んできた。
「大山津見神様! 大変です! 西の尾根で、神獣がまた縄張りを巡って暴れだしました! このままでは結界が破れます!」
「何っ!? よし、分かった、俺が今すぐ行って叩きのめしてくる!」
「――お待ちください。大山津見神様」
踵を返しようとした大山津見神の前に、ソウは迷うことなく一歩を踏み出し、その進路を遮るようにして深く一礼した。
丁寧に、しかし絶対にそこから先へは通さないという、鉄の意志をはらんだ美しいお辞儀だった。
「な、何をする若造――!」
「さらに別の場所で、霊脈の小規模な崩落が起きたと、先ほどそちらの水霊が報告していました。大山津見神様、あなたのお身体がいくつあっても、この状況では足りません。そもそも、なぜ他の眷属たちに適切な権限を与え、職務を委ねないのですか!」
「いや、それはできん!」
大山津見神は、ソウの言葉を遮るように即答した。
その瞳に宿るのは、頑固一徹な職人気質。現場の苦労、危険、すべての重圧は、上に立つ自分一人が背負えばいいという、自己犠牲に満ちた、しかしあまりにも独善的な「目」だった。
夕べ書類を精査して見つけた、あの「情報の隘路」。現場の悲鳴を全て「問題なし」のスタンプ一つで握り潰し、自分が動くことで完結させようとするワンマン体制の弊害が、今、目の前で最悪の形で具現化している。
ソウは不敵に、しかしどこか容赦のない笑みを浮かべ、両手の指の関節をパキリと鳴らした。その瞳の奥で、冷徹な監査官の炎が鋭く燃え上がる。
「昨日見つけたボトルネック、そしてこの現場の惨状……すべてのパズルは繋がった。大山津見神様、あなたのその『全部俺がやる』という歪んだ精神論、今日限りで徹底的に解体させてもらいます」




