第8話 急転直下の出張命令と白銀の架け橋
あの第参封印門の決壊危機から、数日後。
ソウの提案した定期点検制度が軌道に乗り、見違えるように風通しの良くなった天路管理課の一室で、ソウは再び天石門別神と対峙していた。
あの日、堅物神が口にした「お前は何者だ」という疑問。
それを解き明かすべく、彼は管理課が持つ過去すべての入界ログを、数日間かけて徹底的に洗い直したのだ。
だが、机の上に積まれた膨大な報告書を前に、神の口から告げられたのは、やはり背筋が凍るほどの、不可解な「異常」だった。
「――お前だけが、どこの門を通過したのか、どこにも記録されていないのだ」
天石門別神の冷徹な声が、執務室に重く響いた。
システム上のエラーすら認めない絶対的な門の管理体制において、ソウという人間の存在そのものが「あり得ないイレギュラー」だという事実。
門が間違えないのだとしたら、自分をこの世界に引っ張り込んだのは一体どこの誰なのか。
その背後に潜む、高天原を揺るがしかねない不穏な影。
背筋を伝う冷や汗とともに、ソウがその言葉の意味を深く考えようとした、と同時に――
コケコッコーーーーーーー!!! バサササササササササッ!!!
「ぶふぉっ!?」
静寂を切り裂く烈しい鳴き声とともに、窓を蹴破らんばかりの勢いで飛び込んできた「金色の鳥」が、ソウの顔面にクリーンヒットした。
あまりの風圧と衝撃に椅子ごとひっくり返りそうになりながら、ソウは顔に張り付いた羽毛ともがき合う。
「いっ、痛てぇ……! なんだ、襲撃か!?」
「あ、あれ!? ソウ、それって天照様直属の神使――『長鳴鳥』じゃない!?」
弥彦が、驚きに目を丸くして指差す。
以前、伝言を運んできた長閑な雉とは訳が違う。
ソウの頭を踏み台にして執務机に着地したその真っ白な鶏は、神力を帯びた「金色の書状」をくちばしに深く咥えていた。
最高神の圧倒的な力が込められたその書状を机に叩きつけると、鶏は一仕事終えた風に格式高く胸を張り、光の粒子となって消え去った。
ソウは鼻頭をさすりながら、忌々しげに机の上の文面に目を落とした。
『山城創。お前が門の記録をすり抜けた怪しい存在であることは、天石門別神の報告により把握した。よって、お前の身元が完全に割れるまで、我が直轄の「特別監査官」に任命する』
「……は?」
ソウの口から呆然とした声が漏れる。さらに文面は続いていた。
『現在、下界――「葦原の中つ国」の山岳地帯を管轄する大山津見神の現場より、深刻な人手不足と業務過多による悲鳴が届いている。お前のその、既存の枠にとらわれない「ちえ」とやらで、速やかに現地の労働環境を改善し、地脈の崩壊を防げ。なお、これは最高神の絶対命令である。断れば不法入国者として即座に次元の彼方に処分する』
「ちょっと待て一方的な命令がすぎるだろ!!」
ソウは思わず机を叩いて立ち上がった。
事情聴取のために呼び出しておいて、記録がないと分かった瞬間に「じゃあ怪しいから死ぬ気で働いて証明しろ」とばかりに現場へ拉致という名の強制的な出張命令だ。前世でもここまで露骨な横暴はなかった。
「……天照様らしい、無慈悲かつ合理的なご判断だ」
天石門別神は、相変わらず無表情で深く頷いていた。
「我の管理記録にないお前をこのまま高天原に留めるのは危険だが、その実力は今までの部署改革で証明されている。ならば、崩壊しかけている中つ国の現場に放り込み、使い潰しつつ監視するのが最も効率的というわけだ」
「使い潰すって言うな! 監査官って言え!」
「どちらでも同じだ。私は私で、お前がなぜ記録されなかったのか、過去の術式の記録を徹底的に洗う。お前は中つ国で、その命がある限り働くが良い」
「冷たい! この堅物神、仕組みが安定した途端にこれだよ!」
ソウが頭を抱えていると、隣で一緒に書状を覗き込んでいた弥彦が、なぜか「えへへ……」と嬉しそうに微笑んでいた。
「良かったねソウ! 死刑執行じゃなくて出張だよ! しかも僕も『お目付け役兼案内役』として同行を許可するって書いてある! 久しぶりの下界だなぁ!」
「お前、前向きの化身か? 完全にトカゲの尻尾切りとして危険地帯に送られてるんだぞ」
とはいえ、最高神の絶対命令に逆らえるはずもない。
拒否権のない案件を受注させられた時の絶望感を味わいながら、ソウは深くため息をついた。
「……分かったよ、行けばいいんだろ、行けば。その大山津見って神の現場を、徹底的に健全化して戻ってきてやらあ」
こうして、ソウの身元調査はうやむやのまま、急転直下の下界への強制出張が決定したのだった。
天路管理課での大騒動の後、最低限の荷物をまとめたソウと弥彦は、中つ国へと続く唯一の壮麗な木造の架け橋「天浮橋」の入口へと、ついにたどり着いていた。
「この世界は大きく三つに分かれてるんだ」
弥彦にそう説明されながら見上げる橋は、遠目から眺めていた時よりもさらに異様で、そして圧倒的なスケールを誇っていた。
もはや「橋」という概念を崩壊させるほどに、果てが見えない。
橋幅だけで近代的な多目的スタジアムがいくつも並びそうなほどに広く、夕闇の中で厳かに佇むその姿は、釘を一本も使わずに組み上げられた、緻密の極みを尽くした総檜造りの巨大建築物だった。
夕日の残光を浴びてしっとりと艶めく床面は、幾世代もの神職の手によって磨き上げられた極上の銘木のように、優美な木目を浮かび上がらせている。
足元の雲海は斜陽に染まり、燃えるような金色の波となって、格式高い欄干の木肌を優しく舐めながら、ゆったりと畝りながら流れていく。
ソウは恐る恐る、欄干の隙間から橋の下を覗き込んだ。
厚く、濃い雲海の切れ間、遥か遥か下方に広がっているのは、目が眩むほどに深い緑の絨毯――いや、人間の手など一切入っていない、剥き出しの自然そのものである巨大な原始の森と、どこまでも連なる険しい山脈の群れだった。
高天原が「整えられた神聖な箱庭」なのだとしたら、あそこは「生い茂る混沌の生命」そのものだ。
あれが、これから彼らが向かう場所。
「……なぁ、弥彦」
ソウは眼下に広がる圧倒的な質量と自然の威容に気圧されながら、喉を鳴らしてぽつりと言った。
「大山津見神様ってのは、この辺り全部を管理しているのか?」
「この辺りどころじゃないよ」
弥彦は呆れたような、しかしどこか誇らしげな苦笑を浮かべて、首を傾げた。
「今、ソウの見えている山脈全部さ」
ソウは絶句した。もう一度、眼下の景色に視線を落とする。
山。山。どこまでも視界の全てを塗りつぶすように山が連なっている。
地球の大陸をも彷彿とさせる壮大なスケールのすべてが、たった一人の神の守備範囲だというのか。
「……正気か? どんな単独労働だよ」
「僕に言われてもさ」
弥彦は困ったように肩をすくめる。
「でも勘違いしないでね。神様は必ずしも、自分の領域にずっと住み着いているわけじゃないから」
「どういう意味だ?」
「例えばウカ様」
聞き覚えのある、毎朝ぐったりとした顔で机に向かっている豊穣神の名前が出て、ソウは思わず顔を上げた。
「ウカ様は本来、この下界――『葦原の中つ国』で熱烈に信仰されている神様だよ。田んぼや畑、人間たちの町にあるお稲荷さんの神社なんかで祀られているだろ?」
「そういえばそうだな。俺の世界でも、いたるところに赤い鳥居と狐の石像があった」
「でも、ウカ様本人は高天原に立派な社を構えて、そこで事務仕事をして着座しているんだ」
「……確かに」
毎日文句を言いながら一緒に働いていたので忘れそうになるが、言われてみれば奇妙な話だった。
人間界で一番稼働しているはずの神が、なぜ高天原のオフィスに常駐しているのか。
弥彦は人差し指を立てて、得意げに解説を続ける。
「神様の社は一つじゃないんだよ。高天原にすべての元締めである『本社』があってね、中つ国や人間界には『分社』や臨時の『祭場』があるんだ。信仰の強い土地や、その神様の属性に合う場所には濃い神気が集まるから、神様はそこを拠点にしてこちらの世界に降りてこられるんだよ」
「なるほど、遠隔勤務か。……いや、本社と支社があるなら、ウカ様は中つ国への出張を繰り返してるってことか?」
「うん。感覚としては、高天原に籍を置きながら現場へ行く、単身赴任みたいなものかな」
ソウはふむ、と顎に手を当てる。
「前世の総合建設業や製造業の構造と同じだ」
高天原を「東京本社」とし、中つ国を「地方事業所」や「現場」だと考えれば、前世のビジネス感覚としても非常にしっくりくる。
「じゃあ、その大山津見神ってのも、高天原の本社から遠隔勤務で中つ国の山を管理すればいいだろ。なんで部下の木霊たちは『限界だ』って大騒ぎしてんだ?」
「大山津見神様も、もちろん高天原に立派な本社はあるよ。ただね……」
弥彦はちょっと言いにくそうに頬を掻いた。
「あの人は山が好きすぎて、というか現場が好きすぎて、ほとんど中つ国から動かないんだよね」
「……仕事中毒かつ、現場の叩き上げ現場監督か」
「うん。かなり近いと思う」
最高神の命令も聞かず、電波の届かない現場に四六時中張り付いて、泥にまみれてヘルメットを被っている頑固親父の姿が、ソウの脳裏にありありと浮かんだ。
そんなトップが最前線でオーバーワークに陥っていれば、そりゃあ木霊たちも、管理不全で泣きつくだろう。
(なるほどな……)
ソウは少しだけこの世界の構造を理解した。
今回は「山神」の現場だが、これが他神の治める領域だろうが、温泉の湧き出る土地だろうが、あるいは特定の地方に根付いたローカルな神だろうが、基本のビジネスモデルは同じなのだ。
高天原という中央に籍を置きながら、中つ国という現場に権能を伸ばしている。
システム自体は合理的だ。
問題があるとすれば、神々がそのシステムを無視して「現場主義」にのめり込みすぎるという、極めてブラックな精神論のせいだった。
「おや、そこの人間。我が天浮橋を前にして、ずいぶんと難しい顔をしているね」
ふいに、頭上からおっとりとした声が降ってきた。
驚いてソウが見上げると、橋の欄干のさらに上、雲が固まってできたような奇妙な椅子に腰掛け、長い煙管をふかしている神がいた。
ゆったりとした白い衣をまとい、中性的な美貌に、どこか掴みどころのない笑みを浮かべている。
「――豊雲野神様!」
弥彦が慌てて頭を下げる。
「豊雲野神……確か、天路管理課の組織図で名前を見た、天浮橋の管理者か」
ソウがそう呟くと、豊雲野神は煙管から紫煙をくゆらせ、楽しげに切れ長の目を細めた。
「いかにも。この果てなき架け橋と、周辺を包む豊雲野の雲海を統括する者さ。天石門別神から連絡は回っているよ。天照様の命により、これから中つ国の大山津見のところへ行くそうだね」
「ええ。その大山津見神の現場が、人手不足で破綻しかけてるらしくて。……ちなみに豊雲野神様、この天浮橋の管理体制は大丈夫なんですか? また『属人化』で崩壊しかけてたりしません?」
先日の天路管理局の一件がある。
ソウが疑り深い、完全なシステム監査さながらの視線を向けると、豊雲野神は「おや、手厳しい」とクスクス笑った。
「ご心配なく。我が天浮橋の通行管理は、そこのウカ(宇迦之御魂神)の領域とも仕組みを連携させていてね。中つ国からの莫大な物流と、信仰の関税計算は、すべて自動化……とまではいかないが、手引化されて上手く回っているさ。問題があるとすればあちらではないかな」
豊雲野神はパイプの先端で、幾百、幾千と重なる緻密な木組みの梁のその先――遙か彼方の、地の底の方向を指し示した。
「この橋を渡った先、大山津見の治める膨大な山々のさらに奥には、地上の主である大国主神の治める出雲。そしてその出雲の地の底には、生者と死者を分かつ黄泉比良坂が口を開け、根の国、さらには黄泉の国へと続いているということだ」
「……根の国、黄泉の国」
その偉大な地名に、ソウの背筋が微かに緊張する。
「天石門別神がお前に言っただろう? 『門は間違えない。お前は呼ばれたのだ』と。高天原の記録をすり抜け、お前をこの世界に引っ張り込めるほどの規格外の『歪み』を起こせる存在がいるとすれば、それは……高天原から最も遠い、その地の底の深淵に潜む者かもしれんよ」
豊雲野神はそこから先を言葉にせず、ただ意味深に微笑んだ。
「まあ、まずは目の前の『過労死寸前の山神』を助けてあげることだね。あそこの現場が崩壊して地脈が狂えば、天浮橋の物流も止まってしまう。お前の『ちえ』とやらで、あの頑固な現場監督を救ってやっておくれ」
「……言われなくても、労働環境の改善は俺の仕事(本能)なんで。これ以上過酷な現場を見過ごせません」
ソウはふっと不敵に笑った。改めて、神木の温もりが残る広大な橋の向こうを見つめる。
「現場主義の独裁的な上司に、人手不足で泣きつく部下たち。……なんか、思い出しただけでも胃が痛くなる嫌な予感しかしないんだが」
「大丈夫だよ」
弥彦がいつもの調子で、にこにこと無責任に笑う。
「今までだって何とかなったし、ソウなら楽勝だよ!」
「その台詞を言うやつが、計画を一番大失敗させるんだよ」
悪態を吐きながらも、ソウは諦めたように一歩を踏み出した。
美しく木目を光らせる、壮大な橋の上へ。
夕日と雲海が混ざり合う、黄金の境界の向こうへ。
新たなトラブルが口を開けて待つ、葦原の中つ国に向かって――。




