第10話 泥を背負う覚悟と昏い谷の予兆
現場視察の最中、暴走する大山津見神の前に立ちはだかり、「その歪んだ精神論、今日限りで徹底的に解体させてもらいます」とタンカを切ったソウは、即座に行動へ移った。これ以上、一分一秒の猶予もこの現場には残されていない。
ソウはその足で大山津見神を説得し、木霊、水霊といった山神領の全神使を、いまなお災害の熱気と砂埃が漂う広場へと緊急招集した。
ソウの前に集まった神使達は、一様に不安と疲弊の入り混じった表情を浮かべている。
「大山津見神様、および皆様。本日より、この山神領におけるすべての業務運用方法を変更します。ただいまより、ここの組織改革――『業務効率化および危機分散計画』を執行します」
ソウは手にした木の枝で、地面の泥に素早く滑らかな図を描き始めた。
その背筋をピンと伸ばした立ち姿には、かつて数々の修羅場案件を予算内で成立させてきた、プロジェクトマネージャーとしての静かな威厳が満ちていた。
ソウは手元で一度、神々への敬意を示すように軽く一礼してから、大山津見神に向けて視線を真っ直ぐに据える。
「まず、大山津見神様。あなたが今後、すべての現場へ直接赴くことを一律で禁止します」
「な、何だとぉっ!?」
「その代わり、ここにいる木霊、水霊、皆様の特性に合わせ、それぞれに明確な巡回区域と権限を割り振ります。私が作成したこの『状況確認書』を基に現場を管理し、異変を察知した際は、決して個人で抱え込まず、即座にこの詰所で情報を共有、連携して初期対応に当たってください」
「えっ……わ、私たちが、そんな重要な役目をですか……?」
不安そうに、互いの顔を見合わせる部下の神々。
これまでただ主の背中を追うことしか許されていなかった彼らにとって、それはあまりにも大きなパラダイムシフトだった。
「次に、天照様の元へ直接、何の中介も挟まずに届く『緊急報告用の直通伝令』を新設します。通常の書類と混同して埋もれないよう、これ以降、緊急案件にはすべてこの『赤い紙』を使用してください。優先順位を、人間の視覚的に、そして直感的に明確にするのです」
この徹底的なシステム化に、やはり最初に噛み付いたのは大山津見神であった。
「ふざけるな! そんな、まどろっこしい規則や書類を作っている暇があるなら、俺がこの足で直接現場に動いた方が、よっぽど解決が早い!」
「その結果がこれだ!」
ソウの、氷点下まで冷え切った、しかし烈火のような一喝が広場に炸裂した。
大山津見神の巨躯が、その気迫に一瞬だけビクリと強張る。
「その結果、ご自身が過労で倒れかけ、守るべき山領の崩壊を招きかけているのでしょう。あなたが彼らを、部下を信頼せずして、一体誰が彼らを信じるというのですか。上に立つ者の真の職務とは、一人で全ての泥を背負うことではありません。適切に権限を委譲し、彼らに『任せる』ことです!」
ソウの鋭く、しかし本質を突いた冷徹な正論に、大山津見神はぐっと言葉を詰まらせた。
(――俺は、あいつらを護っていたつもりで、ただ信用していなかっただけなのか。)
大きな拳を握り締め、何かを言い返そうとするが、周囲の部下たちの、どこか期待と覚悟を孕んだ瞳を見て、ついに気まずそうに視線を落とし、沈黙した。
その日の夕方。
茜色の夕日に燃えるような美しさで染まる山頂で、ソウは大山津見神と二人きりで佇んでいた。
眼下に広がる、どこまでも続く壮大な緑の海を見つめながら、巨体の神が、昼間の強情さが嘘のようにぽつり、と掠れた声で呟いた。
「……山が、好きなんだ」
「はい」
「木も、川も、獣も。ここに生きるもの、息づくもの全てが、俺にとっては我が子のように愛おしい。全部、俺のこの手で、完璧に守ってやりたいんだ。……だから、人任せにするのが、あの小さく弱い若造どもに任せるのが、本当は怖かった。俺の目の届かないところで、俺の不手際のせいで、何かが傷つくのが、たまらなく嫌だったんだ……」
不器用で、傲慢なまでに純粋な、一柱の神の告白。
ソウは呆れたように長く息を吐き出したが、その表情には、いつしか温かい苦笑が混じっていた。
「……なるほど。大山津見神様、あなたは高天原にいるウカ(宇迦之御魂神)様と、全く同じことを仰っていますよ」
「ぬ? あのいつも机で死にそうになっている豊穣神か?」
「ええ。あの人も最初は、現場のすべてを自分で背負い込もうとして、勝ために自滅しかけていましたからね。高天原だの中つ国だのに関わらず、神々というのは、皆さん責任感が強すぎて、他人に頼るのが下手すぎる傾向があるようです」
ソウは一歩前に踏み出すと、大山津見神の、岩のように強固で、しかし今はひどく小さく見える大きな背中を、パシッと小気味よい音を立てて叩いた。
「一人で背負うのをやめる『覚悟』を持つことも、上に立つ者の大切な役目ですよ、大山津見神様」
その後、ソウが不眠不休で山積みの書類を仕分けし、滞っていた予算申請を強引に通してから、数週間後。
ソウの発案した新たな巡回・権限委譲制度が、本格的に始動した。
赤い紙を用いた緊急伝令のシステムも回り始め、情報の共有速度と処理能力は、これまでのワンマン体制が嘘のように劇的に向上した。
小さな異変や神獣の縄張り争いは、大山津見神が直々に出張るまでもなく、部下たちの迅速な連携によって、未然に防がれるようになっていく。
「大山津見神様! 北東の斜面で、神獣の新たな足跡を発見しました! ですが問題ありません、私の班で先回りして追跡、誘導します!」
木霊の少女が、かつての悲壮感など微塵も感じさせない、ハツラツとした声で誇らしげに報告する。
大山津見神は習性からか、一瞬だけ自分で動こうと身体を強張らせたが――背後から突き刺さるソウの冷ややかな視線に気づき、ハッとして足を止めた。
「任せることも、上に立つ者の役目」――頭に過ったその言葉を噛み締めるように、ふっと苦笑して肩の力を抜き、不器用な笑みを浮かべて手を振った。
「……よし! 北東の件は任せた! だが、絶対に無理はするなよ! 危なくなったらすぐに俺を呼べ!」
「はいっ! 行ってきます!」
木霊たちが嬉そうに、そして生き生きとした足取りで、それぞれの持ち場へと走っていく。
大山津見神はその小さくなっていく背中を、まるで我が子の成長を喜ぶ父親のように、どこか眩しそうに見守っていた。
「案外……俺がいなくても、何とかなるもんだな」
「最初からそう言ってるだろ。組織ってのはそういうものなんだよ」
やれやれと首を振るソウの横で、弥彦がその様子を眺めながら、優しく微笑む。
「神様って、皆さん根っこは同じんだね」
「ああ。不器用で、頑固で、本当にお人好しだ。まったく、手がかかる」
遠くの山並みを見つめる大山津見神の背中は、初めて出会ったあのボロボロの時よりも、ほんの少しだけ、軽くなっているように見えた。
その帰り道。ソウはふと、足を止めた。
山神領のさらに奥――中つ国の果て、かつて国譲りの舞台となった出雲の地へと続く、どこか不自然に澱んだ空間の広がり。
そこから微かに吹き抜けてきた風が、ソウの肌を撫でた。
「……?」
「どうしたの、ソウ?」
弥彦が不思議そうに振り返る。
ソウは無言のまま、風が吹いてきた遥か地平の先、大地の底へと沈み込んでいくような闇の気配をじっと凝視していた。
「いや……気のせい、か」
ほんの一瞬。本当に爪の先ほどの一瞬だけ、背筋が凍りつくような違和感を覚えたのだ。
あの天路管理局の最奥で目撃した、重苦しい気を放つ歪んだ『門』。
そこから放たれていた、世界そのものを拒拒するような不気味な気配が、今の一瞬、大地の底から微かに、本当に微かに漏れ聞こえたような――。
「……気のせい、だよな」
ソウは自分自身に言い聞かせるように小さく呟き、再び歩き出した。
だが、世界の安寧を根底から揺るがす、真の異変の足音は。
彼らの預かり知らぬところで、静かに、だが確実に、すぐそこまで近づいていた。




