第11話 祝詞(のりと)は誰のためにある
高天原が、年に一度の「大祭」を間近に控えていた頃。
八百万の神々が一堂に会し、地上の人々が捧げた一年の祈りと感謝を天へと届ける、神代より続く最重要の国家神事。そのため、普段はどこか悠久の時の流れに身を任せ、気の抜けた空気の漂う高天原も、この時ばかりは肌を刺すようなピリピリとした慌ただしさに包まれていた。
しかし、ソウが足を踏み入れた「祭祀課」の建物だけは、その慌ただしさの次元が文字通り狂っていた。
「……おい、なんだよここ。異次元のゴミ屋敷か?」
思わず絶句したソウの視界を埋め尽くしたのは、文字通り天井に届かんばかりに積み上がった大量の巻物の山、そして棚から雪崩を起こして床に散乱する四角い書類の束だった。
その狭い隙間を、立派な角に大量の巻物と書類をこれでもかと引っ掛けた白鹿の神使たちが白目を剥きながら全力疾走し、誰もが肉体的・精神的な限界を迎えた土気色の顔で、悲鳴のような声を上げている。
「大規模な図書館の引っ越し現場じゃないのか、これ。しかも鹿が労働させられてるぞ」
「……残念ながら、ここが八百万のすべての祭礼を司る祭祀課だよ、ソウ。あの白鹿たちは天児屋命様の忠実な使いなんだ」
案内する弥彦の声も、周囲に充満する濃厚な負のオーラにあてられて、いつもより三割増しで疲れ切っていた。肩ががっくりと落ちている。
「完全に終わってるな、この組織」
ソウがこめかみを押さえて頭を抱えたその時、部屋の奥の書類の壁の向こうから、冷徹で、けれどどこか切迫した鋭い怒号が次々と飛んできた。
「第三祭場の神具搬入申請がまだ承認されていません! 誰が持っているのですか!」
「第五祭場の神酒管理簿、書式が三代前の古い巻物です! 四角い最新様式に転記しなさい!」
「第七祭場の参加許可証、ここにわずかな押印漏れがあります! 最初の巻物の照合からすべてやり直し!」
「ひぃぃっ、申し訳ありません!」
割を食った神使たちが、慌てて角の巻物や書類を落としそうになりながら首をすくめ、青ざめた顔で抱え直して再び別の山へと走っていく。
その阿鼻叫喚の震源地、机の上の書類の山に埋もれるようにして座っていたのが、祭祀課の長――天児屋命だった。
整った知的な顔立ち、一ミリの乱れもない厳かな衣装、背筋のピンと伸びた隙のない姿勢。だが、その美しい瞳の奥には、今にもパチンと弾けて狂気に変わりそうなほどの、病的な焦燥感が宿っている。
「あなたが……天照様のおっしゃっていた、人間のソウですか」
天児屋命がようやく顔を上げた。その声には一切の潤いがない。
「山城創だ。あんたが祭祀の長である天児屋命だな」
「ええ。弥彦から話は聞いています」
そう言いながらも、彼の視線は手元の書類へ瞬時に戻り、凄まじい速度で筆を走らせていく。ソウの顔をまともに見たのは一瞬だけだった。
「手伝っていただけると助かります。見ての通り、我々には一刻の猶予もない」
「あの、少しいいですか。一体何が起きているんです? ただの祭りの準備ですよね」
「『ただの』とは不敬な! 大祭の準備です!」
ソウが周囲の混沌を見渡しながら尋ねると、天児屋命は即座に噛み付くように鋭い声を上げた。
「天児屋命様、これほど膨大な書類がすべて本当に必要なんですか?」
「必要です」
「……重複しているように見えるものも大量にありますが、本当に?」
「全部です。一枚たりとも、一文字たりとも欠かすことは許されません」
(……出たよ。安定の『超絶心配性ワンマン神様』だ)
天児屋命の病的なまでの頑なさに、ソウは胃のあたりがズキリと痛むような、嫌な予感を覚えるのだった。
翌日。
ソウはさっそく祭祀課の業務プロセスの監査を始めたが、すぐにその異常性に頭を悩ませ、凄まじい頭痛に襲われることになった。
「おい、弥彦。この『事前確認申請書』という新しい四角い紙と、こっちの『古式事前確認巻物』……これ、書いてる内容まったく同じだよな?」
「そうだね。あ、こっちの神代の規則集に書かれている項目も、そっちの最新の台帳と完全に重複してる。ほら、あそこの白鹿さんも同じ内容を巻物から四角い紙に転記して、両方を角に挟んで走ってるよ」
調べれば調べるほど、出てくるのは「同じような申請書」「似たような確認項目」「重複した無意味な規則」のオンパレード。しかも、それぞれの書類が作成された年代もバラバラで、古い巻物の上に新しい四角い書類がツギハギで積み重なっている。
ソウには見覚えがあった。宇迦之御魂神のいる農政課でも、これと全く同じことが起きていたのだ。
あの時は、数千年前の古い収穫規則(巻物)を誰も廃止できないまま、時代の変化に合わせて新しい管理書類(四角い紙)をどんどん上乗せしたせいで、現場の狐たちが二重三重の手間に泣いていた。
だが、この祭祀課の「地層」は、農政課の比ではないほど深く、暗く、ねじれていた。過去の遺物がそのまま暗黒のミルフィーユのように組織を圧迫している。
ソウは回らない頭を叩きながら、執務室の天児屋命にその書類と巻物を容赦なく突きつけた。
「天児屋命様。この『第七段階・事前神具清浄審査申請書』という書類と、その元になったと思われるこの古びた巻物ですが、一体誰が、いつ作成したものなんですか?」
天児屋命は書類に視線を落とし、不快そうに眉をひそめた。
「……分かりません」
「局長であるあなたが把握していないとは、どういうことですか」
「古すぎて記録が残っていないのです。私がこの職を引き継いだ時には、既にその巻物がありました。内容は同じでも、歴史ある巻物の手順を省くわけにはいかない。だから新しい書類と合わせて両方で確認しているのです」
ソウは盛大に天を仰ぎ、頭を抱えた。
「では、なぜ内容も用途も重複している、完全に形骸化した古い巻物を、今もわざわざ残して二度手間を踏んでいるんですか。新しい紙の方だけで十分でしょう」
「必要だからです!」
天児屋命は声を荒らげた。その瞳には、恐怖に似た頑なさが宿っている。
「ですから、誰が、何のために必要だと定義したのかを伺っているんです。農政課でもそうでしたが、古い前例を捨てる恐怖のせいで、あなた自身が現場を絞め殺しているんですよ!」
「それは……」
天児屋命は答えなかった。いや、答えられなかったのだ。
ただ「昔からある規則だから」「確認を怠って何かあるのが怖いから」という理由だけで、誰も意味を理解していない暗黒の業務が、雪だるま式に膨れ上がっていた。
そして、大祭の前日にソウが最も恐れていた事件は最悪の形で起きた。
「主様! 大変です! 明日の『新穀奉納の神事』が開催できません!」
若い白鹿の神使が、前脚をがくがくと震わせながら上げた悲痛な叫び声に、祭祀課の喧騒が一瞬で凍りつく。
「何だと!? 神具も揃い、担当の神々もすでに待機しているはずだ。なぜだ!」
天児屋命が勢いよく立ち上がる。白鹿は震える蹄で、角に引っ掛けていた一枚の未記入の紙を差し出した。
「古い巻物の審査は通ったのですが、直近で追加された『神木前広場使用許可願・副々案』の提出が、締め切りの一時間前に間に合いませんでした……!」
「……は?」
ソウは耳を疑った。現場の準備は完璧。やる気もある。
なのに、たった一枚の「誰も読まない、古い巻物と内容が重複した四角い紙切れ」が足りないというだけの理由で、伝統ある神事が中止に追い込まれたのだ。
祭祀課は騒然となり、白鹿たちは右往左往し、担当の神は頭を抱えて泣き叫ぶ。その中心で、天児屋命は真っ白な顔のまま、無言で未記入の書類を見つめ、小刻みに震えていた。
その夜。
静まり返った祭祀課の際に、ソウはいた。夜風にあたって頭を冷やしていると、背後から力のない足音が聞こえてくる。
現れたのは、昼間の完璧な姿が嘘のように、肩を落とし、酷く小さく見える天児屋命だった。
彼はソウの隣に並び、星の輝く中つ国の夜空を見上げながら、ぽつりと呟いた。
「……失敗が、怖かったのです」
いつもなら「不敬だ」と怒るはずの神の、初めて聞く、ひどく脆い弱音だった。
「遥か昔、私の小さな祭祀の不手際で、地上に大不作という災いが起きました。飢えに苦しむ人々の嘆きを、私は今も忘れることができない。……だから、二度とあのような失敗が起きないよう、確認項目を増やした。それでもまた別の小さな問題が起きて、さらに新しい規則を四角い紙で増やした。古い巻物も捨てられぬまま、それを何百年、何千年も繰り返しているうちに……」
天児屋命の言葉が、自嘲気味に止まる。
ソウは何も言わず、ただ夜風に吹かれながら彼の次の言葉を待った。
「……誰も、全体のシステムを理解できなくなりました。私は、災いからみんなを守りたかっただけなのに……」
月光に照らされた天児屋命の姿は、これまでソウが出会ってきた神々――弥彦や他の神々たちと、全く同じだった。
責任感が強すぎるのだ。守ろうとして、真面目に抱え込もうとして、逆に自らが作った規則という名の鎖で身動きが取れなくなっている。
「天児屋命様」
ソウはズボンのポケットに手を突っ込んだまま、静かに、けれど真っ直ぐに告げた。
「規則というのは、一体何のために存在すると思いますか?」
天児屋命は答えない。ただ、ソウの言葉をじっと待っている。
「人々を助けるためでしょう。現場を円滑に動かし、全員を守るためにあるはずです。あなたが今なさっていることは、現場を困惑させ、神事を破綻させる本末転倒な行為ですよ。あなたが本当に守るべきなのは、過去の遺物であるただの巻物や紙切れではない。明日の祭りを心待ちにしている者たちの、笑顔なんじゃないですか」
夜の静寂の中に、ソウの言葉が深く染み渡っていく。
天児屋命は大きく目を見開いた後、ふっと憑き物が落ちたように、小さく息を吐いた。
翌朝。
大祭の当日であるにもかかわらず、ソウによる超突貫の「祭祀課大改革」の火蓋が切って落とされた。
「時間がない、迅速に仕分けをしていくぞ! 重要な祭祀、通常の祭祀、簡易な祭祀、この三つに全業務を即座に分類しろ! 出所不明の重複規則、形骸化した古い巻物はすべて廃止、即刻破棄だ!」
ソウの怒号に近い指示が飛ぶ。
「しかし、それではもし手落ちがあったら……!」と耳を伏せて不安がる白鹿たち。
そこへ、天児屋命が力強く一歩を結び、前に踏み出した。
「全責任は私が持ちます! 簡易祭祀の承認権限は、これより各現場の神使長に委譲します! 巻物も書類も捨てて、目を回している暇があるなら現場へ走って!」
「は、はいっ!」
課長自らの覚悟の決断に、祭祀課がまるで生き返ったように猛烈に動き出す。
無駄な巻物と書類の山が次々とゴミ箱へ消え、滞っていた血管が通ったように、仕事がスムーズに流れ始めた。
──そして高天原に、厳かで、けれどどこか楽しげな祝詞が響き渡る。
鮮やかな衣装をまとった神々が舞い、広場には神々の笑い声と活気が満ち溢れていた。滞っていたすべての神事が嘘のようにスムーズに執り行われ、高天原は久しぶりに、本当の意味での「祭りの熱気」に包まれていた。
その様子を遠くから見つめながら、天児屋命は眼鏡の奥の目を細め、小さく微笑んだ。
「『規則は人を守るためにある』……ようやく、思い出すことができました。感謝します、ソウ」
「お役に立てたのなら何よりです。最初からそう申し上げていたでしょう」
ソウは呆れ顔で笑いながら、この世界にきて早々に見つけ、すっかり気に入って愛飲している天然の炭酸霊泉を一気に煽った。
大祭の翌日。
見事な手腕で祭祀課を救ったソウと弥彦は、最高神・天照大御神の執務室へと呼び出されていた。
「素晴らしい働きでした、ソウ殿。あなたのおかげで、今年の祭祀は過去最高の効率と、神々の笑顔で満ち溢れていました。本当に感謝します」
完璧な慈愛の微笑みを浮かべて感謝の言葉を述べる天照。
しかし、ソウの視線は、天照の背後に広がる光景に完全に釘付けになり、凍りついていた。
(……待て、おい)
天照の広い机の上。そして、部屋のすべての壁際。
そこには、これまでソウが見てきたどの部署――天路管理課、山神領、そしてこの祭祀課のどれよりも、圧倒的で、絶望的な量の「書類と巻物の山」が、まるで巨大な暗黒の山脈のようにそびえ立っていた。
驚くべきことに、その大半にはすでに天照の手によって「決済済」の鮮やかな朱印が押されている。彼女はたった一人で、この狂気的な物量を毎日リアルタイムで処理し続けているのだ。
天照は疲れを見せる素振りすら一切なく、完璧な最高神の笑みのまま、次の、気が遠くなるような厚みの書類へと機械的に手を伸ばしている。
ソウの背筋に、冷たい汗がだらりと伝わった。
彼は隣にいる弥彦の袖を、小声でぐいぐいと引っ張る。
「なぁ、弥彦……」
「どうしたの、ソウ?」
「……あのさ。この高天原で、今、一番危ないのって……あの最高神じゃないか?」
全てを笑顔で、完璧に、たった一人で抱え込もうとしている、絶対的な光の神。
ソウの戦々恐々とした指摘に、弥彦は引きつった苦笑いを浮かべ、消え入りそうな声で囁き返した。
「……たぶん、高天原の神々全員、薄々そう思ってるよ」
「言えよ!!」と突っ込みそうになるのを、ソウは必死で堪えた。
だが、誰も言えないのだ。彼女は高天原を統べる、絶対無比の最高神だから。
天照の、あまりにも美しく、そしてあまりにも歪んだ完璧な背中を見つめながら、ソウの胸の奥で、これまでで最も不気味で巨大な胸騒ぎが、激しく警報を鳴らし始めていた。




