第12話 託された背中と仕立ての礼服
最高神・天照の執務室を退室し、長廊下に出た瞬間、ソウは深いため息とともに、激しくこめかみを揉みほぐした。
「……見たか、あの書類の山。あれはもう『過重労働』なんてチャチな言葉で表現していいレベルじゃないぞ。ただの書類の樹海だ」
「うん……天照様はね、高天原のすべてを照らす光だから、すべての神々の、すべての案件を等しくご自身の手で包み込もうとしちゃうんだ。でも、さすがに限界だよね……」
弥彦が沈痛な面持ちでうつむく。
天路管理課、山神領、そして祭祀課。これまでソウが叩き直してきたどの現場のワンマン上司よりも、天照の背負う闇と責任は文字通り「神次元」だった。あの絶対的な光の裏で、彼女はただ一人、自滅のカウントダウンを刻んでいる。
「どいつもこいつも、上の奴らが揃いも揃って自爆特攻精神なのは、この世界の遺伝子なのか? ……まあいい、あの天照大御神という最高経営責任者の業務の流れ(フロー)、近いうちに必ず全解体してやる」
ソウはそう言って、自分のヨレた袖口に目を落とした。
高天原に落とされたあの日、会社帰りのままだった衣服は、度重なる現場視察と激務ですっかりくたびれ、今は弥彦に借りた神域の簡易な着物を羽織っている。それも悪くはなかったが、どこか「借り物」を着ている落ち着かなさが、自分がこの世界の人間ではないという事実を、鏡を見るたびに突きつけてくるようだった。
「最高神の業務改革に乗り出すんだ。さすがに、いつまでもこの借り物の恰好ってわけにもいかないな……」
「あ、それならソウ! ちょっと付き合ってほしい場所があるんだ!」
弥彦がぽんと手を叩き、いつになく弾んだ声でソウの腕を引っ張った。
連れてこられたのは、高天原の片隅にある、清らかな機織りの音が響く美しい工房だった。
中に入ると、そこには見覚えのある顔ぶれが勢揃いしていた。
農政課の白狐、山神領の木霊の少女、天路管理課の黒鴉神使。そして、最近出会った祭祀課の白鹿神使の姿もあった。
「……お前ら、なんでここにいるんだ? 自分の持ち場は大丈夫なのか?」
ソウが眉をひそめると、工房の奥から、豪快に笑いながら一柱の女神が現れた。
機織りを司る神、天羽槌雄神である。
「お前さんが噂の人間殿かい! 驚くことなかれ、この若造どもがね、お前さんにどうしても贈りたいものがあるって、それぞれの職場の繋がりを頼って上質な神糸や稀少な素材を必死に集めて持ってきたんだよ」
「俺に……?」
白狐の一匹が、ふさふさの尻尾を気恥ずかせそうに揺らしながら一歩前に出た。
「ソウ様が作ってくださった『地域担当制』のおかげで、私たちの作業効率は劇的に上がりました。これはその、農政課のみんなからの感謝の気持ちです!」
「私たちの山神領からも、最高級のしなやかな麻糸を提供させてもらいました! ソウさん、いつもボロボロの格好で駆け回ってたから……」
木霊の少女がはにかむ。
「天路管理課も黙って見てられません! 効率化された伝令網のおかげで浮いた予算で、うちの最高神鳥から分けてもらった、光を吸い込む黒鴉の風切羽です。衣を縁取る美しい刺繍の絹糸に紡いでおきました!」
黒い羽織を翻した鴉の神使が、不敵に笑って胸を張る。
続いて、昨日の今日でまだ少し息の荒い祭祀課の白鹿の一頭が、誇らしげに角をゆすった。
「僕たちの重複業務を救ってくれたお礼です。これは、天児屋命様のお許しを得て持ってきた、古びて生え変わった最高品質の硬質な鹿角です。衣の前留め(ボタン)に加工してください!」
「……お前ら」
ソウは絶句した。
かつて深夜の倉庫で、ただ目の前のトラブルを共に乗り越え、「ソウがいてくれてよかった」と言われたときも嬉しかった。だが、今回は違う。
自分のあずかり知らぬところで、白狐も、木霊も、鴉も、白鹿たちもが自発的に他部署と連携し、ソウのために知恵を絞り、最高の素材を集めて動いてくれたのだ。ソウがこの世界に植え付けた「組織の連携」という種は、彼ら自身の意志で、ソウへの感謝という形になって見事に花開いていた。
「さあさあ、着てみな。お前さんが元の世界で纏っていたという、仕事に赴くための型破りな衣の仕組を、弥彦から細かく聞き出して、うちの最高技術で仕立て直したんだからね!」
天羽槌雄神が差し出してきたのは、一着の衣服だった。
鏡の前に立ったソウは、その出来栄えに息を呑んだ。
それは、見慣れた現代のビジネススーツの、無駄のない洗練されたシルエットそのものだった。
しかし、使われている生地は高天原の神糸と山領の麻糸で深く織り上げられた、夜空のように静謐な紺青。光の加減で、まるで神域の星々が瞬くような微かな輝きを放っている。
袖口や襟元には、鴉の羽から紡がれた艶やかな漆黒の糸で、どこか神聖な威厳を感じさせる繊細な刺繍。そして、前身ごろには存在感を放つ、美しく削り出された白鹿の角のボタンが縫い付けられていた。
動きやすさを重視した立体的な仕立てでありながら、どこまでも洗練されている。
「……完璧だな。元の世界のどんな高級仕立屋でも、ここまでのものは作れない」
袖を通すと、驚くほど軽いくせに、背筋が自然とピンと伸びるような心地よい緊張感が走る。
それは、かつて元の世界で「生活のために」着ていた、くたびれた鎧ではない。
高天原のすべての神々と神使たちが、ソウを「自分たちの仲間」として、一人の専門家として認め、託してくれた、この世界で唯一無二の「ソウのための戦闘服」だった。
「かっこいいよ、ソウ! 借り物じゃない、それが君の、高天原での姿だね」
弥彦が我がことのように目を輝かせて笑う。周囲の白鹿や白狐、鴉や木霊たちも、満足そうに歓声をあげて拍手を送ってくれた。
「……ああ。悪くない。いや、最高だ。みんな、ありがとな」
ソウはふっと、これまでにないほど深く、心からの笑みを浮かべた。
胸の底に残っていた「自分はいつか去る異分子だ」という冷たい澱は、この完璧な仕立ての衣服の温もりに溶かされ、完全に消え去っていた。
新調された紺青の衣服の襟を、ソウは右手でぐっと正す。その目はすでに、前を見据えていた。
「よし、戦闘服も新しくなったことだ。……それじゃあ弥彦、そろそろ本丸へ殴り込みに行こうか。あの最高神を、過労死の未来から引きずり戻すぞ」
「うん! 行こう、ソウ!」
高天原を揺るがす最大の業務改革――天照大御神の救出劇に向けて。
新しい背中を手に入れた人間のソウ(プロジェクトマネージャー)は、頼もしい仲間たちの笑顔に見送られながら、力強く一歩を踏み出した。




