第13話 落日のない高天原
新調した紺青の戦闘服に袖を通したソウの佇まいは、これまでとは明らかに違っていた。
仲間たちの感謝と信頼が織り込まれた深い夜空色の生地が、彼の背筋を自然と押し上げる。ソウは右手でぐっと襟元を正すと、最高神・天照大御神の執務室へと続く重厚な扉を、迷いなく開け放った。
「天照大御神。これより、あなたの業務フローに対する緊急監査を行います」
「ひっ……!?」「そ、ソウ殿、謁見のお約束は……!」
室内に控えていた側近の神使たちが、突然の乱入に一瞬声を荒らげかけたが、ソウのその立ち姿を見た瞬間、全員が言葉を失って気圧された。見違えるような威厳と、一国を背負うプロフェッショナルとしての静かな気迫が、新調された衣服によって完璧に引き出されていた。
しかし、部屋の主である天照は、そんなソウの登場にも完璧な、慈愛に満ちた微笑みを崩さなかった。
「おや、ソウ。見違えるほど見事な装いですね。ですが、見ての通り、私は今少し手が離せなくて」
そう言う天照の手元は、一分一秒の淀みもなく動き続けていた。
彼女の机の上、そして周囲の壁際にそびえ立つ「書類と巻物の山」。それは農政課や山神領、祭祀課のどれよりも圧倒的な量だったが、天照はその山から機械的に書類を抜き取ると、凄まじい速度で目を通し、次々と決済の印を押し、指示書を書き加えていく。
ソウは無言で彼女の前に歩み寄り、その手元の動きをじっと凝視した。
(……なんだ、この処理速度は。狂ってる)
これまでの宇迦之御魂神や大山津見神、天児屋命といったワンマン神たちは、仕事を抱え込みすぎた結果、処理能力を超えて現場をパンクさせ、自滅しかけていた。
だが、天照は違う。彼女は八百万の神々から上がってくる、ありとあらゆる膨大な案件を、信じられないほどの超高速で、しかも「完璧」に処理しきってしまっているのだ。
彼女が出す決済には、一ミリの狂いも、一瞬の迷いもない。神々が何日もかけて頭を抱える難題を、彼女はその圧倒的な「神次元の有能さ」で、力技で捩じ伏せ、片端から終わらせていく。
「……なるほど。これが『最高神』のスペックというわけか」
ソウは低く呟いた。
彼女はパンクしていない。能力が高すぎるがゆえに、この狂ったワンマンシステムを、たった一人で「成立させてしまっている」のだ。
「ええ。高天原のすべての営みは、私という太陽の光によって等しく照らされ、回っています。神々が困らぬよう、すべての案件を私が把握し、最善の道を示す。これが私の役目ですから」
天照は疲れを見せる素振りすら一切見せず、ただ完璧な機械のように次の巻物を開く。そのあまりにも歪んだ「完璧」に、ソウのプロジェクトマネージャーとしての血が、怒りで沸騰した。
パシッ、と小気味よい音が室内に響いた。
天照が次に伸ばしようとした手を、ソウの、紺青の袖口に包まれた手が上からしっかりと押さえて止めたのだ。
「な……っ!?」
側近の神使たちが息を呑み、弥彦が「ソウ……!」と顔を青くする。
「天照様。あなたが有能すぎるせいで、この高天原の組織は完全に壊死しかけています」
ソウは冷徹極まりない視線を、絶対的な光の神へと真っ直ぐに据えた。
「……どういう意味でしょう、ソウ」
初めて天照の動きが止まり、その美しい瞳の奥に、怪訝な影が差す。
「あなたが一人で完璧にこなすせいで、下の神々は考えることをやめ、全権限がこの部屋に一極集中しているのですよ。これは組織ではありません。あなたの超人的な処理能力に依存した、ただの『個人商店』です。あなたが倒れたら、高天原のシステムは一瞬で崩壊します」
「いいえ。私は太陽。疲れることも、倒れることもありません。これまでも、これからも、私がすべてを背負い、やり遂げてみせます。それが、私が皆を愛し、守るということの証明です」
天照の声音には、絶対的な義務感と、それゆえの狂気的なまでの頑なさが宿っていた。
その聖域のような頑迷さに、ソウは鼻で笑い、冷酷な事実を突きつけた。
「本当に『すべて』を我が手で包み込めていると思っているなら、大間違いです。大方、あなたがそうやって一人で完璧な正論を振りかざして息苦しいシステムを作ってしまうから、反発して枠組みをぶち壊そうとする者が出てくるのですよ。……そういえば、人間の世界の神話でも聞いたことがあります。あなたのやり方に激怒して、高天原で暴れ回ったという――」
「っ……」
ソウがそこまで言った瞬間、天照の完璧な微笑みが、初めてピキリと凍りついた。
彼女の脳裏に、一つの強烈な不協和音が鳴り響く。
高天原のルールをことごとく無視し、姉である彼女の敷いた美しい統治システムを鼻で笑い、反発し続けている実の弟。
天照は手元にあった筆をカタタ……と小さく震わせると、いつもの慈愛をかなぐり捨てた、酷く冷淡な声を絞り出した。
「……スサノオの話を、しているのですか」
「やはり、こちらの世界でも実在するのですね。あの問題児は」
ソウは神話の知識が的中したことに内心で納得しつつ、天照の尋常ではない動揺を見逃さなかった。
「あの子は、この堅実な高天原の仕組みを、ただの退屈な玩具だと吐き捨てて、ろくに机に向かいもしない。すべての仕事を部下に丸投げして暴れ回る、ただの乱暴者よ。私の光が届かない、高天原の『お荷物』です。……ソウ、あの子の話はしないで頂戴」
すべてを規則正しく我が手で包み込もうとする姉。
そのシステムそのものを拒絶し、外へと飛び出していった弟。
神話の乱暴者というイメージの裏に、この書類の山に埋もれた、常に光に満ちた不夜城の執務室の歪み――「組織の在り方を巡る根深い決裂」が隠されているのではないかと、ソウはプロの勘で直感していた。
(……スサノオ、か。最高神の姉がそこまで嫌悪する現場……そっちの実態も、いずれこの目で確かめる必要がありそうだな)
ソウは思考を切り替えると、天照の手を押さえたまま、不敵に口元を歪めた。
「身内の問題は後回しです。まずは、あなたからですよ、天照。……その歪んだ完璧主義、私が根底から叩き直して差し上げます」
高天原を統べる絶対無謬の最高神と、人間界から来た一人のプロジェクトマネージャー。二人の、組織の在り方を巡る壮絶な全面戦争の火蓋が、今、切って落とされた。




