第14話 真白き夜明け
「――その歪んだ完璧主義、私が根底から叩き直して差し上げます」
ソウが突きつけた冷酷な宣戦布告。絶対無謬の最高神と、人間界から来たプロジェクトマネージャーの視線が火花を散らし、執務室の空気は張り詰めた弦のように限界まで緊張していた。
ソウは手元にある高天原全体の業務フロー図を広げ、天照の有能さを逆手に取った「解体プラン」を提示しようとした――その時だった。
バタバタバタバタッ!!
突如、重厚な廊下の向こうから、床を激しく踏み鳴らす無数の足音が響いてきた。
「天照様ーーッ!! 緊急事態です!!」
悲鳴とともに扉を蹴破るようにして飛び込んできたのは、天照の身の回りの世話やスケジュール管理を一手に引き受ける内侍課の白猫の神使たちだった。
普段の気高く優雅な身のこなしはどこへやら、白毛を逆立て、尻尾を太くした彼らの腕には、これまでに見たこともないほどの分厚い書類と、大量の巻物が溢れんばかりに抱えられている。その後ろの廊下には、現場から彼らへと書類を押し付けた祭祀課の白鹿や天路管理課の鴉たちも、息を切らせて雪崩れ込んでいた。
「どうしたのです、騒々しい。私は今、ソウと監査の対応中ですよ」
天照が不快げに眉をひそめ、先ほどスサノオの名を出された時の冷徹な余韻を宿したまま声を鋭くする。
「農政課、山神領、祭祀課、天路管理課……すべての現場から、かつてない規模の報告書と申請書が、いま同時にこの部屋に向かって押し寄せています!!」
「……何ですって?」
天照が驚愕に目を見開いたのと同時だった。執務室の窓の外、影すら作らせない陽光に満ちた廊下が、一瞬で白と黒の紙の津波に埋め尽くされた。
「農政課、地域担当制に基づく本日の全千枡の土壌水分量報告です!」
「山神領、定期連絡網より、木々一本ごとの健康状態の定時連絡、計四万件!」
「祭祀課、仕分けルールに基づき『重要祭祀』に分類された、今後百年の国家祭礼計画、全件の最終承認申請です!」
宇迦之御魂神のところの白狐たち、大山津見神の木霊たち、天児屋命の白鹿たちが、次から次へと内侍局の白猫たちを突き飛ばんばかりの勢いで書類を運び込んでくる。
その光景を見た瞬間、ソウの脳内に最悪の電流が走った。
(しまっ……! 監査で天照の抱え込みを叩く前に、システムの方が限界を迎えやがった……!)
これらは他でもない、ソウがこれまでの部署で「現場の効率化のため」に構築してきた最新の伝令ネットワークそのものだった。
ITのないこの世界で、これまでは「現場の要領の悪さ」という目詰まり(ボトルネック)のおかげで、天照の元に届く書類は適度に間引かれ、時間差攻撃になっていたのだ。しかし、ソウが現場のパイプをピカピカに掃除し、白狐や白鹿たちのフットワークを劇的に軽くしてしまった結果、高天原中のすべての情報が一切の滞りなく、リアルタイムで最上流である天照一人の元へと集中する「人海戦術のDDos攻攻撃」と化してしまったのだ。
「大丈夫、です……! これくらい、私がすべて……っ!」
天照は押し寄せる書類の束を、神速の腕で捌き始める。
だが、相手は限界を知らない現場の「生のログ」だ。次を処理しても、その十倍の量の報告を抱えた現場が後ろに並ぶ。どれほど天照の脳(CPU)が優秀でも、人力の物理的な紙の物量には物理的に追いつかない。
カツン、と天照の持つ筆の動きが、生まれて初めて、完全に止まった。
彼女の額から、大粒の汗がぽたぽたと書類に落ちる。完璧な微笑みは完全に消え、処理オーバーによる負荷でその美しい顔が真っ白に変色していく。
「あ……、あ……」
限界を悟り、絶望に震える最高神。
ソウは自分の設計ミスを苦々しく噛み締めながらも、この最悪のバグを「天照のワンマン体制を完全に解体する契機」へと瞬時に昇華させるべく、一歩前に踏み出した。
その手元に、懐から取り出した一冊の小さな「木札」をパチンと叩きつける。
それは、現場が持ち込む無数の「紙(生データ)」の山を物理的に遮断するように、天照の机の最前線に境界線として据え置かれた。木札の表面には、ソウの筆跡で、どの案件を誰が処理すべきかを定めた「決裁権限の境界線」が、神の国の新たな法のごとく冷厳に刻まれている。ペラペラの紙の津波を堰き止めるには、文字通り、びくともしないシステムの「骨組み」を叩きつける必要があったのだ。
「そこまでです、天照様。あなたがどれだけ優秀でも、世界のすべての生データを一人で処理し続けたら、いつか魂が焼き切れます。トップの仕事は、現場の作業を代わりにやることではありません。『あなたにしかできない決定』をすることです」
ソウが提示したのは、現代ビジネスにおける「エスカレーションルール(承認権限の自動振り分け)」の概念だった。
「いいですか、よく聞いてください。これからは、予算以下の日常雑務はすべて他の神様たちに『現場決済』させます。あなたへの報告も、この部屋への持ち込みも一切禁止です。部署間の揉め事だけを局長たちに決済させ、あなたの元には『週に一回の事後報告』しか上げさせません」
ソウは呆然とする白猫や各部署の神使たちを振り返り、新調したスーツの袖を翻して鋭い指示を飛ばした。
「おい、お前たち。その持っている書類の九割は、お前たちの主の承認で片付くはずだ。今すぐ各部署に持ち帰って、ウカ様たちの机に叩きつけてこい! ここには高天原の存続に関わる重大案件、全体の1割未満の書類以外、一歩たりとも持ち込ませるな!」
ソウのプロとしての的確な、そして圧倒的な指示に、神使たちや内侍課の白猫たちは「ふにゃあああ!?」「は,、はいぃぃっ!」と蜘蛛の子を散らすように、抱えていた書類を持ってそれぞれの部署へと猛ダッシュで引き返していった。
あっという間に、部屋を埋め尽くしていた紙の津波が引き、静寂が戻る。
残されたのは、ただ呆然と、自分の空っぽになった手を見つめる天照だけだった。
「仕事が……ない? 私が、何も、していない……?」
何千年も、一秒たりとも休まずにすべてを背負い続けてきた最高神が、生まれて初めて「暇」という概念に直面し、子供のように困惑していた。その白く美しい両手は、行き場をなくしたように空中で微かに震えている。
「それでいいのですよ。トップが暇そうにどっしり構えて、最後の責任を取るためだけにいる組織こそが、本当に健全な組織なのですから」
ソウは、どこか救われたような、けれど存在理由を揺るがされて戸惑う天照を見つめ、少しだけ声音を和らげた。
「あなたは今まで、書類の文字ばかりを見て、外をまともに見てこなかったのではないですか。目の前の数字や、反発する弟への苛立ちで頭をいっぱいにすることではありません。太陽の仕事は、薄暗い部屋で判子を押すことではないはずです。顔を上げて、外を見てください」
促されるように、天照がゆっくりと立ち上がり、何百年ぶりかに自らの足で執務室の大きな窓辺へと歩み寄った。
窓を開け放った瞬間、心地よい風とともに、遠くから溢れんばかりの「声」が飛び込んできた。
農政課のオフィスからは「これなら定時で上がれるぞ!」とはしゃぐ白狐たちの弾んだ笑い声。これまでは泥にまみれて書類をめくっていた彼らが、お互いのふさふさとした尾を揺らしながら、自立した現場の喜びを分かち合っている。
山神領からは、煩雑な報告業務から解放されて本来の心の余裕を取り戻した木霊たちが、みずみずしい新緑の葉を鳴らしながら唄う、のどかで調和に満ちた森の歌。
祭祀課の廊下からは、二重三重の重複業務から完全に解放され、誇らしげに胸を張って軽やかに歩を進める白鹿たちの、蹄の小気味よい足音。
そして遥か高天原の青空からは、天路管理課の鴉たちが、かつてのような悲鳴交じりの羽ばたきではなく、美しいV字の編隊を組んで悠々と風を捉える姿があった。
「風速調整、現場決済で完了!」「定時運行、問題なし!」
重い書類の束から解放され、本来の美しさを取り戻した漆黒の羽が、太陽の光を浴びてビロードのように誇らしく輝いている。
効率化され、自立した現場。そこには、天照が命を削って管理しなくても、自分たちの足でしっかりと立ち、笑顔で世界を回し始めた神々と神使たちの姿があった。
「ああ……みんな、あんなに嬉しそうな顔をして……」
天照の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは悲しみではなく、あまりの安堵感ゆえの涙だった。自分がすべてを抱え込まなくても、世界は壊れない。それどころか、皆が生き生きと輝いている。不出来な弟への執着も、張り詰めていた義務感も、その涙と一緒に溶けていくようだった。
「ソウ……。私は、自分の光でみんなを縛り付けていたのですね」
「違いますよ。あなたの光が強すぎて、みんな甘えてしまっていただけです。あなたが影に隠れて見守ってやることで、ようやく彼らも自分の足で歩き出せました。これからは、たまに道を踏み外しそうな者がいたら、上から眩しい正論でぶん殴って軌道修正してやりなさい。それがトップの『神次元の有能さ』の正しい使い道です」
ソウがそう言って不敵に笑うと、天照は涙を拭い、これまでの張り詰めた作り物ではない、心からの、本当に温かい太陽の微笑みを浮かべた。
「ふふ、手厳しいのですね。……ありがとう、ソウ。」
窓から差し込む雲一つない爽やかな光が、天照を、そして高天原を穏やかに満たしていく。それは、誰の犠牲の上でもない、本当の意味で健やかに世界を照らす、本物の太陽の輝きだった。
嵐のような大改革から、数昼夜が数えられ――
最高神の業務大改革という、高天原の歴史がひっくり返るような大仕事を終えたソウは、弥彦の社の裏手にある、見晴らしの良い縁側で盛大に寝転がっていた。
「うわぁ、ソウが仕事をしてない! 天変地異の前触れだ!」
弥彦がわざとらしい悲鳴を上げながら、お盆を持ってやってくる。お盆の上には、農政課の白狐たちが「一番いいお米で作りました!」と届けてくれた炊きたての塩結びと、山神領の木霊たちが採ってきたみずみずしい果実が並んでいた。
「うるさいな。有給消化ってやつなんだよ。労働者の正当な権利だ」
ソウは新調した紺青のスーツの上着を丁寧にハンガーにかけ、シャツの袖をまくりあげて、塩結びをがぶりと頬張った。
米の甘みと絶妙な塩気が、激務で疲れた身体に染み渡る。
「でも、本当に変わったよね、高天原。天照様、昨日は『お茶の淹れ方を習うのです』って言って、内侍課の白猫たちと楽しそうに笑ってたんだ。あんなに穏やかな天照様、初めて見たよ」
「へえ、そりゃあ良かった。あの調子なら、もう俺が余計な巻き込み事故で残業させられることもないだろうしな」
縁側にごろんと横たわり、流れる白雲を見上げる。
高天原に落とされたあの日、会社帰りのくたびれたスーツを着て「ここはどこのブラック企業だ」と絶望していた自分が嘘のようだった。
今、自分の傍らにあるのは、この世界の仲間たちが、ソウを信頼し、受け入れてくれた証である深い紺青の戦闘服。
鏡を見るたびに感じていた「借り物」を着ているような落ち着かなさは、もうどこにもない。
この世界の風は心地よく、飯は美味い。
「……ま、悪くない日常だな」
そう呟き、満足げに目を閉じた。
ほんの少しの、けれど最高に贅沢な休息。組織を叩き直し、最高神すら救ってみせた人間のプロジェクトマネージャーは、静かな寝息を立てて、深い眠りへと落ちていった。
どれほどの時間が流れただろうか。
心地よい風に揺り起こされるようにして、ソウがゆっくりと瞼を開けると、そこには思いがけない人物の姿があった。
「――よく休めましたか、ソウ」
いつの間にか縁側に立っていたのは、あの神々しい光を纏った最高神・天照だった。
その表情には、かつて世界を一人で背負っていた頃の張り詰めた冷徹さは微塵もない。今の彼女は、ただそこにいるだけで周囲を温かく照らす、穏やかな本物の太陽そのものだった。
「天照様!? いつからそこに……っ」
慌てて跳ね起き、襟を正そうとする弥彦を、天照は優しく手で制した。そして、まだ眠気の残る目をこすりながら起き上がるソウを、静かに見つめる。
「良いのです、そのまま。今日の私は、定時に仕事を終えて散歩に出てきただけなのですから」
天照はふっと、これまでの張り詰めた作り物ではない、心からの温かい微笑みを浮かべた。
そして、その手に携えていた、日輪の紋様が美しく刺繍された大きな翳をそっと胸の前に掲げ、凛とした声音で一同を見渡した。一瞬にして、辺りが神聖な空気に満たされる。
「弥彦。そして、ソウ」
背筋を伸ばす二人に、天照はどこまでも深く、慈愛に満ちた眼差しを向けた。
「あなた方は、高天原の歪みを正し、神々と神使たちの足元に確かな夜明けをもたらしてくれました。特にソウ、あなたの流儀は時に不遜で生意気でしたが……その冷徹なまでの正論こそが、私を、あるいはこの世界を救ったのです」
天照は一歩前へ踏み出し、手に持った翳を優雅な所作でソウの頭上へと翳した。まるで、高天原に新しく吹き込んだ心地よい風を、彼に授けるかのように。
「もはや、あなたをただの『監査官』という器に留めておくわけにはいきません。現場を巡り、問題を解決し、神々の務めを正しく導く者――これよりあなたに、高天原の正式な役職を授けます」
天照の手元から、眩い陽光の粒子が溢れ、ソウの胸元へと吸い込まれていく。
光が収まったそこには、新たな神威を宿した、深い紺青のスーツにぴったりと馴染む真新しい木札が掛けられていた。
それはかつて、ソウが冷徹なルールとして天照に突きつけたあの木札と、まるで対になるように美しく磨き上げられていた。あの日、人間が神を縛るために提示した「システムの木札」は、今、最高神の承認を経て、ソウに高天原の全権を委ねる「正統な権限の印」へと昇華したのだ。
「これより、ソウを『特任調整役』に任命します」
それは、ソウがこれまで高天原で成し遂げてきた「神々と神使をまとめ、現場を改善する」という功績を,、最高神自らが認め、公式に与えた最高峰の肩書きだった。
天照は満足そうに目を細めると、さしばを静かに引き、弥彦と、そして新たな肩書きを得たソウの二人を交互に見つめて、力強く告げた。
「弥彦。そして、特任調整役・ソウ。――二人に、高天原の未来を拓く、新たなる任を命じます」
「は、はいぃっ! 謹んでお受けいたします!」
嬉そうに胸を張る弥彦の隣で、ソウは胸の木札を指先で軽く弾き、いつものの不敵な笑みを浮かべた。
「特任調整役、ですか。……やれやれ、これで名実ともに、神様連中の残業を減らすための合法的な権限を手に入れちまったわけだ」
「ふふ、期待していますよ、私の生意気な調整役」
天照の鈴を転がすような笑い声が、雲一つない高天原の青空へと響き渡る。
人間のプロジェクトマネージャーと、新しく生まれ変わった神々の日常は、ここからまた、健やかに回り始めるのだった。
高天原業務改革プロジェクト・完




