第6話 門は間違えない
「……で、なんで天照様直々の呼び出しの行き先が、この『天路管理課』なんだよ」
翌朝。五月晴れの爽やかな光が差し込む中、ソウは肩にとまった雉(鳴女)を指先で撫でながら、隣を歩く弥彦を胡叔そうに見やった。
最高神からの呼び出しと聞けば、普通は高天原の象徴たる壮麗な神宮を思い浮かべるだろう。
少なくともソウは、豪華な一室で威厳あふれる天照大御神と対面する心の準備をしていた。
ところが、案内された先は高天原の中心部からかなり離れた、深い森の奥だった。
鬱蒼と茂る巨木はどれも数百年以上の樹齢を重ねた神木であり、その隙間を縫うように伸びる山道を進むたび、賑やかな神々の気配は薄れ、やがて完全に消えていく。
代わりに鼓膜を震わせるのは、ざわめく木の葉を揺らす風の音と、名もなき鳥の鋭い鳴き声だけだ。
「あはは……」
弥彦は頬をかきながら、引きつった乾いた笑みを浮かべた。
「天照様は最高神だからね。直接会う前に、まずは『ソウがどこから、どうやって高天原へ来たのか』をきっちり調べろってことらしいよ。身元調査みたいなものかな」
「つまり事情聴取か」
「うん、まぁ、そんな感じ」
高天原に不時着して以来、弥彦の過酷な労働環境改善だの、豊穣神の部署改革だのに巻き込まれ、気付けば怒涛の毎日が過ぎ去っていた。
目の前の案件を片付けることに必死で、今さらになって最も根本的な問題が頭をもたげる。
「そういえば俺――いつ元の世界に帰れるんだ?」
ソウが何気なく投げかけた問いに、弥彦の足が止まった。
ぴたりと。
本当に、冗談みたいにぴたりと。
「……」
「おい」
「……あ、見てソウ! 今日は雲海がすっごく綺麗だねぇ!」
「あからさまに目を逸らすな。こっちを見ろ」
「ごめん完全に忘れてた!!」
弥彦はガシガシと頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
「だってソウが優秀すぎるんだよ! 高天原の労働環境がどんどん良くなるし、ウカ様も狐たちも大喜びだし! 気付いたら『異界帰還手続き』の存在自体が僕の頭から綺麗さっぱり消え去ってたんだよ!」
「囲い込みがえげつないぞ」
そんな軽口を叩き合いながら山道を抜けた先に現れた建物は、これまでソウが見てきた高天原の華やかな神殿群とは明らかに一線を画していた。
それは、力強く美しい木目がひと際目を惹く巨大な欅の宮だった。
その木目を覆い隠すほどに、びっしりと古めかしい封印符が貼られ、風に揺れて不気味な音を立てている。
太く真っすぐに伸びる門柱には、素人目にも神秘さを感じる古代文字が深く刻まれていた。
神の座する宮というよりは、厳重に秘匿された巨大な資料保管庫だ。
「うわ……」
中に入った瞬間、ソウは思わず目を見張った。
外観の威圧感以上に、内部の光景は圧倒的だった。
経年で黒ずんだ欅の板壁一面を埋め尽くす膨大な巻物の山。
天井のカズム高さまで届く巨大な台帳棚。
そして何より異様なのは、その壁の各所に掛けられた大小様々な「鍵」の群れだった。
銀色、金色、錆びついた黒鉄色。
一瞥しただけでは何に使うのかさえ分からない、幾何学的な形状をした鍵たちが、恐ろしいほどの規則正しさで整然と並べられている。
「ここが天路管理課だ」
弥彦が、無意識のうちに声を潜めて囁く。
「高天原とあらゆる異界を繋ぐ『門』――黄泉比良坂とか、天浮橋とかさ。そういう、世界の境界を管理・統括してる部署なんだ」
「思ったより、シャレにならない重要部署だったな」
「うん、かなり重要。ここが機能しなくなったら高天原は内側から崩壊するよ」
その時だった。
コツン。コツン。
静まり返った空間に、硬質で正確すぎる足音が響き渡った。
まるで定規で測ったかのように狂いのない歩幅。
通路の奥から現れたのは、一切の乱れがない漆黒の装束を身にまとった一人の神だった。
切れ長の冷徹な目元、神経質そうに結ばれた薄い唇。
そして、その腰元にはジャラリと重量感のある大量の鍵束が揺れている。
境界と門を司る神――天石門別神であった。
「誰だ。立ち入り許可証は」
低く抑えられた声がソウたちを射抜く。
その瞬間、ソウの脳裏に前世の嫌な記憶がフラッシュバックした。
無表情な対応。融通の利かなそうな雰囲気。徹底的な形式主義。
これはいわゆる、お役所、官僚、書類手続き。
現代社会における「典型的な窓口業務」の体現だ。
(うわぁ……)
ソウは心の中で深くため息をついた。
(絶対に関わりたくない、一番めんどくさいタイプだ……)
重厚な木目調の執務机の向こう側で、天石門別神はぴくりとも表情を崩さなかった。
天路管理課の最高責任者であるその神は、至極淡々と、一枚の古びた書類をソウの前に差し出してくる。
そこには、見慣れた、けれどこの世界では絶対に呼ばれるはずのない文字が躍っていた。
「――山城創」
ソウは思わず眉をひそめ、喉の奥が微かにひりつくのを感じた。
本名だ。
高天原というこの異界において、「真名(本名)」が持つ呪術的な意味を知って以来、彼は頑なに「ソウ」とだけ名乗ってきた。
現代社会から予期せぬ転移をしてきた身を守るための、弥彦から教えられた、彼なりの最低限の防衛策だったはずだ。
それなのに、眼前の堅物そうな神は、まるで今日の天気を口にするかのような平然さで、その秘匿していたはずの真名を呼んだのだ。
「……どこでそれを調べたんです?」
警戒を隠そうともせずソウは低めの声で尋ねる。
傍らに控える弥彦も、心なしか身を固くした。
「入界記録だ」
天石門別神は、彫刻のように整った顔を微動だにせず答えた。
「高天原へ足を踏み入れた者は、神であれ妖であれ、あるいは塵芥のような存在であれ、全て我が局の帳簿に記録される。当然の処置だ」
「へえ、大した管理能力ですね」
ソウは少しだけ肩の力を抜きつつ、相手の出方を探るように言葉を繋げた。
「なら、俺がどうやってこの世界に引っ張られてきたのかも、その優秀な記録とやらを見れば分かるんじゃないですか? ぜひ教えてほしいんですが」
「それを調べている」
即答だった。あまりの淀みのなさにソウは次の言葉を待ったが、続く神の言葉は、予想に反して酷く奇妙なものだった。
「――だが、分からない」
「……は?」
思わず、間の抜けた声が漏れた。
ソウは耳を疑り、目の前の生真面目な顔を見つめる。
「分からないって……どういうことです? 記録があるから俺の名前が分かったんじゃないんですか」
「そのままの意味だ」
天石門別神は感情の失せた瞳のまま、机の上に鎮座する分厚い漆黒の台帳を開いた。
パラパラと紙がめくられるたび、微かな神力の残滓が部屋に青白い光となって漂う。
そこには、気の遠くなるような年月分の入界記録がびっしりと並んでいた。
上位の神々。その眷属たる神使。自然から生じた精霊。
そして――ごく稀に境界の裂け目から迷い込んでしまう、ソウのような人間。
その全てに、どこの「門」を、いつ、どのような状態を通過したかの詳細な記録が残されている。
だが、ある一か所を探し出した天石門別神の指先がぴたりと止まった。
「お前の『山城創』という名前と、高天原に存在しているという事実だけが、ある日突然、帳簿の余白に出現した。……お前だけが、どこの門を通過したのか、どこにも記録されていないのだ」
水を打ったような静寂が執務室に落ちた。
時計の針の音さえ聞こえない沈黙の中、ソウは冷や汗が背中を伝うのを感じた。
名前だけが仕組みに直接書き込まれたような不気味さ。
「それって、単なる記入漏れじゃないんですか?」
「あり得ない」
天石門別神はソウの言葉を遮るように即答した。
その声には、一切の感情がない、絶対的な自負が込められていた。
「我が天路管理課が管轄する『門』は、絶対に間違えない。高天原へ入るには、空間の境界を越える必要がある。境界を越えるには、必ずいずれかの門を通る。空間を越えれば、術式が自動的にその魂の軌跡を記録する。例外など、この高天原の開闢以来存在せん」
「じゃあ、俺は門を通らずにここへ来たってことに……」
「あるいは」
天石門別神の切れ長の目が、鋭く細められる。
「門を通過したにもかかわらず、記録がされないほどの『何か』が起きたか、だ」
その不穏な言葉が、重苦しい静寂の中に溶けていく。
記録を司る神と、記録のない異邦人。二人の間に、息の詰まるような沈黙が流れた。
(「何か」……。それが、俺がここに来た原因なのか?)
ソウがその言葉の重みを反芻し、生唾を飲み込んだ、まさにその時だった。
ゴゴゴゴゴ……。
地底の底から這い上がってくるような、不気味な地鳴りが足元を揺らした。
「……っ?」
壁に掛けられた無数の鍵たちが、チリチリと細かく震え、嫌な金属の擦れ音を立て始める。
天石門別神の表情が一瞬にして凍りついた。
不吉な予感が背筋を駆け上がる。
境界を守る管理局の秩序が、いま、内側から決定的にひび割れようとしていた。




