第5話 人間の居場所
農政課の改革を終え、高天原の全穀物地帯を分ける「地域担当制」が始動してから、数日後のこと。
慌ただしい手伝いを終えた帰り道、夕暮れに染まる高天原の街路を歩きながら、ソウはふと足を止めた。
「じゃあ、ソウ様! また明日!」
「お疲れ様でした、ソウ様!」
業務を終えた狐神使たちが、それぞれの尾を揺らしながら、賑やかに宿舎へと帰路についていく。
それを見送るソウの胸に、冷たい風が吹き抜けるような、小さな違和感が芽生えた。
(……みんな、帰る場所があるんだな)
狐たちには、肩を寄せ合って眠る宿舎がある。
神々には、それぞれの信仰が形作った立派な社がある。
隣を歩く弥彦にだって、小さくとも自分の住居があるのだ。
だが、自分は違う。
自分は元々、何の前触れもなくこの世界に引きずり込まれた「神隠しの被害者」だ。
元の世界に帰る方法をずっと探している、高天原の住人ではない異分子。
この世界では本名すら名乗れず、偽名の「ソウ」で通している。
今いる部屋は与えられたもので、敷いている布団も、袖を通しているこの着物も、すべては借り物だ。
帰る方法が見つかれば、いつかここを去る存在。
――高天原は、広く、美しい。
けれど、どこまでいっても自分の世界ではない。
「ここに、自分がいてもいいのだろうか」という割り切れない思いが、澱のように胸の底に沈んでいた。
「……ソウ? どうしたんだい、急に立ち止まって」
隣を歩く弥彦が、不思議そうにソウの顔を覗き込んできた。
「いや……なんでもない」
「ふーん……」
弥彦は夕日に目を細め、珍しく悪戯っぽい笑みを消して、真面目な声音で問いかけてきた。
「ねえ、ソウ。……ここから、帰りたい?」
「そりゃ、帰りたいさ」
即答だった。
元の世界には、自分の本名を知る人がいて、確かな生活があったのだから。
だが、ソウは少しだけ言葉を詰まらせ、茜色に染まる神域の街並みを見つめた。
「……お前の休日をもぎ取れたし、ウカ様のブラックな職場もマシになった。だけどさ……最近はちょっと分からなくなってきたんだ」
「?」
脳裏に浮かぶのは、太い尻尾を激しく揺らしながら、慣れない書類仕事に頭を抱える狐や、一緒に頭を抱える神たちの姿。
「帰りたいはずなのにさ。……なんだか、放っておけない奴が増えちまったからな。この前聞いた、山の件だって気になってる」
それを聞いた弥彦は、一瞬きょとんとした後、いつものように嬉そうに目を細めた。
「くすっ、あはは! 本当にソウらしいね」
その夜。
静まり返った宿舎の部屋で、ソウが一人、借り物の机に向かって山神の資料をめくっていると――。
――コンコン
静かに扉が叩かれた。
こんな夜更けに誰だろうと首を傾げながら障子を開けると、そこには数匹の狐神使たちが、そわそわとした様子で身を寄せ合って立っていた。
「ソウ様……! 夜分遅くに申し訳ありません!」
「だから、その『様』はやめろって。……どうしたんだ、みんなして」
先頭に立つ丁寧語の白狐が、きゅっと耳を伏せながら、大切そうに抱えていた竹皮の包みを差し出してきた。
「あの、これ……どうぞ! この前の約束の、お稲荷さんです! 本日の賄いで、少し余ってしまいまして。ソウ様にお裾分けを、と」
「余った?」
包みから漂うのは、甘酸っぱくて香ばしい、出来立ての匂い。
どう見ても、今しがたソウのために一生懸命に作ったばかりの、瑞々しい稲荷寿司だった。
絶対に余り物なんかじゃない。
「ありがとな。わざわざこれだけのために――」
ソウが苦笑しながら手を伸ばした、その時だった。
「誰かーーっ! 誰か来てくれーーっ!!」
廊下の向こうから、別の神使が息を切らせて駆け込んでくる。
「大変です! 倉庫の神米の山が崩れました! このままだと米袋が破裂して、せっかくの収穫が台無しに……っ!」
「なっ……!?」
狐たちが一斉にあたふたと慌てだす。
「どうしよう!」「早くウカ様に指示を仰がないと!」とパニックになりかける彼らの背中を、ソウの鋭い声が叩いた。
「おい、慌てるな! 豊穣神様を叩き起こすまでもない、案内しろ、俺も行く!」
倉庫に駆けつけると、そこは文字通りの大惨事だった。
高く積まれていた米俵や麻袋が崩れ落ち、通路を塞いでいる。
「おい、そっちの重いのは俺が持つ! お前たちは崩れそうな上の袋を支えてくれ!」
「は、はいっ!」
大した大事件ではない。ただの、深夜のちょっとしたトラブルだ。
だが、そこには明確な「変化」があった。
「ソウ様! こっちの紐が解けそうです!」
「ソウ様、次はどれを運びますか!?」
「これ、どこに置けばいい!?」
誰も命令などしていない。
上下関係の厳しい高天原において、彼らは神でもないただの人間を、自然と頼り、その指示に従って動いていた。
ソウが作った「現場の人間が自分で判断して動く」というシステムが、彼らの中に息づいている証拠だった。
「よし、これで最後だ! 一気に持ち上げるぞ、せーのっ!」
全員で泥臭く汗を流し、最後の麻袋を積み終えたとき、深夜の倉庫に「わああっ!」と歓声が上がった。
「助かったー……!」
「本当に、ソウ様がいてくれて良かったです!」
狐たちが、晴れやかな笑顔でソウを見上げる。
「……っ」
その言葉に、ソウは一瞬、言葉を失った。
高天原に文字通り「落とされて」から、初めてのことだった。
何かを劇的に変える「改革者」としてでもない。
物珍しい「人間」としてでもない。
ただの、泥臭く一緒に汗を流した「ソウ」という一人の存在として、彼らに必要とされたのだ。
胸の奥の、ずっと冷えていた場所に、じわりと温かい灯がともるのをソウは感じていた。
ここはまだ借り物の部屋だけど――彼らの言葉が、確かにソウの「居場所」をここに作ってくれていた。
狐たちが満足そうに帰路につき、静寂を取り戻した部屋。
机の上には、綺麗に空になった稲荷寿司の竹皮が残されている。
壁に寄りかかり、その様子をずっと見ていた弥彦が、静かに声をかけてきた。
「どう?」
「何がだよ」
「高天原さ」
ソウは少しだけ沈黙し、それから窓の外に広がる、見たこともないほど美しい神域の夜空を見上げた。
「……悪くない」
ぼそりと、それだけ答える。
自分の居場所なんて、どこにもないと思っていた。
けれど、この世界の冷たさは、もう感じなくなっていた。
だが、その平穏を切り裂くように。
開け放たれた窓から、一羽の美しい雉が、一条の光を纏ってひらひらと部屋に舞い込んできた。
その鳥は机の端にふわりと降り立つと、首を傾げ、人間の言葉で滑らかに喋り出した。
『人間・ソウ。至急参上せよ。――天照大御神が詔なり』
厳かな、しかしどこか無機質な鳴女の声が室内に響き渡る。
「……っ!? 天照様直々の呼び出しだって……!?」
それを聞いた弥彦が、一瞬で顔を真っ青にしてガタガタと震えだす。
最高神からの名指しの召喚。
それが何を意味するのか、神隠しの人間にとってどれほど異常な事態か、察するに余りあった。
それは同時に、ソウがこの世界に呼ばれた理由へと繋がる、最初の一歩でもあった。
「……ちっ。今度は何だってんだ」
ソウは盛大なため息を吐き、頭をガシガシと掻いた。
せっかく見つけかけた平穏な居場所は、やはり、そう簡単には維持させてくれないらしい。




