第4話 豊穣神は一人で抱え込む
弥彦が初めての休日をもぎ取った、その数日後のこと。
ソウに与えられた宿舎の薄い木扉が、再び景気よく跳ね上がった。
「ソウ、大変だよ! 天照様から直接呼び出しが入っちゃった!」
「……は? 今度はなんですか。一体どこの部署が崩壊したんです?」
寝台の上で高天原の神名台帳を眺めていたソウは、深いため息をついた。
この世界に来て、まだ一週間と少し。
驚くべきことに、元社畜であるソウは、すでに高天原のルーティンに馴染みつつあった。
慣れたくはなかった。
だが、体が勝手に「上司からの急な呼び出し」というフレーズに過剰反応してしまうのだ。
「農政課の応援をお願いしたいんだって。何でも、大混乱に陥ってて手が出せない状況らしくて……」
「また人手不足ですか。この世界の最高神は、人員配置の最適化という概念をご存知ないのか……」
「あはは……たぶん、行けば分かると思うよ」
弥彦の引きつった笑みに嫌な予感を覚えながら、ソウは重い腰を上げた。
農政課の神宮に一歩足を踏み入れた瞬間、ソウは「うわぁ……」と声を漏らした。
そこは、以前の弥彦の作業机をさらに数十倍にスケールアップしたような、地獄の様相を呈していた。
「どいてください! どいてください! 稲荷山地方の秋大麦の祈願札、早く処理しないと手遅れになります!」
「こっちの雨乞い祈願の報告書、どこの棚に入れればいいんですか!?」
神使の白狐たちが、数匹がかりで巨大な書類の山を抱え、文字通り四足歩行で神宮内を爆走している。
床には仕分けの追いついていない木札や巻物が散乱し、天井近くまで積み上がった紙の束は、いつ崩れてもおかしくない。
その大混乱の中心――書類や木札、巻物の山に囲まれた最奥の机に、一柱の美しい女神が座っていた。
彼女こそが、高天原の胃袋を支え、穀物と豊穣を司る神――宇迦之御魂神である。
絹のような髪を乱し、高級な装束の袖を雑に捲り上げた彼女は、今まさに、目の前の木札に凄まじい速度で筆を走らせていた。
その美貌には、完全に限界を迎えた者の深い疲弊が刻まれている。
「ウカ様、こちらの害虫退散の決済をお願いします!」
「はい、見せて……。うーん、ここの術式の配分、もう少し調整した方がいいわね。私が書き直しておくから、そこに置いておいて!」
「ウカ様! こちらの豊作祈願の最終確認を!」
「それも私がやるわ! 置いて!」
ソウは腕を組み、その光景を冷ややかな目で観察した。
狐の神使たちは大勢いる。一人ひとりの能力が低いわけでもなさそうだ。
つまり、物理的な人手不足ではない。なのに、なぜ仕事が全く終わらないのか。
ソウはすたすたと机へ歩み寄り、忙しなく動くウカの目の前にそっと、しかし遮るように手を差し入れた。
「失礼します、豊穣神様。少し手を止めていただけますか」
「な、何よ貴方は!? 今、一分一秒を争うんだけど!」
「私はソウ。弥彦の付き添いです。……なぜ神使たちが持ってきた書類を、すべてご自分で精査し、書き直し、最終確認までなさっているのですか」
ウカは一瞬、きょとんとした顔をしたが、すぐに眉を吊り上げた。
「当たり前でしょう!? 穀物の実りは人間の命に直結するの。神使たちに勝手に判断させて、もし手違いがあったらどうするのよ!」
近くにいた神使の狐をソウが捕まえ、「なぁ、お前らって豊穣神様が確認しないと動けないのか?」と小声で尋ねる。
狐は耳をペタッと寝かせ、怯えたように囁いた。
「そうなんです……。僕たちが勝手に判断して、万が一にも失敗してウカ様に怒られたらと思うと怖くて。指示を仰ぐしかないんです……」
それを聞いたウカが、悲しそうに声をあげる。
「ひどい言い草ね! 私は今まで一度だって、あなたたちを怒ったことなんてないでしょう?」
「怒られなくても、ウカ様が全部一人で背負い込んでる背中を見るだけで、僕たちは怖いんですよぉ……!」
その時、神宮の奥から別の神使が悲鳴を上げて飛び込んできた。
「ウカ様! 問題が起きました! 東方の穀物地帯で想定外の長雨! 逆に西方の畑では深刻な日照りが発生しています! どちらも同時に対処が必要です!」
「なんですって!?」
ウカがガタッと立ち上がる。だが、机の上には未決済の木札がまだ数百枚。
「私が……私が両方の現地資料を確認して、最適解を出してから指示を――」
「それでは間に合わないでしょう」
ソウの、低く落ち着いた声が、焦るウカの動きを冷たく遮った。
「現場は今、この瞬間も干からびて、あるいは溺れているんですよ。ウカ様がお一人で複数の業務を処理している間に、今年の収穫はゼロになります。それでも構わないと言うのですか」
「それは……っ!」
ウカは唇を噛み締め、絶望したように拳を握りしめた。
固まるウカを横目に、ソウは神宮の中心で右往左往していた神使の狐たちに向き直った。
「おい、そこのお前たち! 東方の現地と西方の現地、それぞれに今すぐ一番状況が分かっている奴を走らせろ!」
「え、ええっ!? で、でも、ウカ様の決済をいただかないと、僕たちだけじゃ何もできなくて……」
「そんなもん後回しだ! 俺はこの部署の仕組みも術式も一切知らん。だからお前らに命令する! 現地に着いたら、『これ以上悪化させないための最低限の手』を、お前らの判断で今すぐ打て!」
ソウの怒号に近い、しかし迷いのない指示に、狐たちはビクッと耳を立てた。
「東方は水が引けばいい、西方はこれ以上乾かなければいい! 完璧な解決策じゃなくていいから、まずは致命傷を避けることだけを考えろ! 失敗したらどうしようとか悩むな、責任はすべて、そこにいるウカ様が取る!……いいな! 行け!」
「「「は、はいっ!」」」
ウカが「えっ、私!?」と目を見開く間もなく、狐たちはそれぞれの現場へと一斉に飛び出していった。
その日の夜。
ソウの強制的な介入により、現場の狐たちに最低限の応急処置だけを命令させて、なんとか最悪の事態を免れた農政課。
静まり返った神宮の縁側で、ウカは冷めたお茶をすすりながら、ぽつりと漏らした。
「……悔しいけれど、今日のあなたの臨機応変な指示は正確だったわ。でも、私はどうしても、他人に仕事を丸投げすることができないのよ」
「なぜそこまで頑ななのですか? 弥彦のように『嫌われたくない』というわけでもなさそうですが」
ソウが隣に腰掛けると、ウカは遠い夜空を見つめながら、寂しそうに微笑んだ。
「……大昔ね、まだ高天原の仕組みが整っていなかった頃、私の手違いで大きめの飢饉を起こしてしまったことがあるの。人間たちが飢えに苦しみ、泣き叫ぶ声を、私は今でも忘れることができない」
彼女の細い肩が、かすかに震える。
「だから、怖いのよ。失敗することが。私の確認漏れ一つで、また誰かが飢えるかもしれない。一人でも飢えさせたくない……そう思ったら、誰にも仕事を任せられなくなっちゃったの」
それは、過剰なまでの優しさと責任感が生んだ、ブラックな呪縛だった。
ソウはふぅ、と息を吐き、夜空を見上げた。
「ウカ様のお気持ちは分かりました。一人も飢えさせたくないというお志は立派です。ですが、ウカ様。あなたが部下を信じずに全てを抱え込むのは、優しさではありません。失礼を承知で申し上げれば、それは『傲慢』というものです」
「え……?」
「部下はあなたの操り人形ではないはずだ。失敗を恐れて裁量を与えないのは、彼らが成長する機会を奪っているのと同じですよ。もし今、ウカ様が倒れたら、この部署は一日で崩壊します。それが本当に、人間たちのためになるとお思いですか」
ウカは目を見開いたまま、何も言えなくなった。
「安心してください。あなたが失敗しないための仕組み(システム)を、私が作って見せますから」
翌朝から、ソウの農政課改革が始まった。
まず、高天原の全穀物地帯を東西南北のフォーメーションに分ける「地域担当制」を導入。
一定規模以下のトラブル(通常の害虫、軽度の干ばつなど)については、神使のリーダー格に「権限移譲」を行い、現地判断で即座に術式を発動できるようにした。
さらにソウがメスを入れたのは、職場に溢れる「媒体のバラつき」だった。
「先ほど神名台帳を確認しましたが、高天原の他部署ではすでに紙の活用が進んでいます。なぜ農政課だけ、祈願は木札、報告は巻物、決済は紙とバラバラなんですか。保管場所も取る上に検索性が最悪です。管理の手間が無駄すぎます」
「だって……昔からの慣習だし、木や巻物の方が、なんとなく豊穣の神っぽくて落ち着くじゃない……」
「却下です。エモさで仕事は回りません」
ウカの曖昧なこだわりをバッサリと切り捨てたソウは、すべての案件を「紙の書類」へと強制的に統一。
これに伴い、緊急案件と通常案件の「報告様式の統一」を行い、ウカの元に届く段階では、彼女が「承認(YES)か却下(NO)か」の二択で決済できるスリムな承認フローへと変更したのだ。
「ウカ様! 東方の雨、神使たちの判断で排水陣を敷き、無事に解決しました!」
「……え? あ、そう。……すごいじゃない」
最初はウカも神使たちも、新しいやり方に戸惑い、反発もあった。
しかし、実際に運用が始まると、バラバラだった媒体を探す手間が消え、滞っていた書類はみるみる減少。
業務は信じられないほどの速度で回り始めた。
それから数日後。
信じられない光景が見られた。
「お疲れ様でしたー!」
「ウカ様、お先に失礼します!」
夕刻。定時の鐘が鳴ると同時に、神使たちが笑顔で帰路についていく。
そして机には――書類が一つもない。
「……終わった。本当に、定時で仕事がなくなるなんて……」
ウカは自分の綺麗な手を見つめ、それから、深く椅子に背をもたれかけさせた。
その表情からは、長年彼女を縛っていた刺すような緊張感が消え、柔らかな笑みが浮かんでいた。
「豊穣神様も、もう少し部下を頼ってください。一人で世界を救えると思わないことです」
ソウがそう言うと、ウカはふっと吹き出すように笑った。
「そうね。覚えておくわ、人間のソウ。ありがとう」
農政課からの帰り道、隣を歩く弥彦が嬉そうにソウの顔を覗き込んできた。
「また一柱、救っちゃったね、ソウ。ウカ様、あんなに晴れやかな顔をする人だったんだなぁ」
「勘違いするな。俺は自分の平穏な生活のために、目の前の非効率を潰しただけだ」
そう言いながらも、神殿から聞こえてくる狐たちの笑い声に、ソウは少しだけ肩の力を抜いた。
すると。
背後から小さな足音がいくつも近付いてくる。
振り返ると、農政課の狐神使たちがこちらへ駆けてきていた。
「ソウ様ー!」
「だから様はやめろ」
「でもでも!」
「ありがとうございました!」
「本当に助かりました!」
狐たちは口々に礼を言いながら頭を下げる。
大きな耳がぺたんと伏せられ、ふさふさの尻尾が忙しなく揺れていた。
「礼を言われるほどのことじゃない」
「あります!」
一匹が勢いよく顔を上げる。
「最近のウカ様、すごく楽しそうなんです」
「前はずっと怖い顔してたのに」
「今日は笑ってました!」
それを聞いたソウは思わず弥彦を見る。
弥彦も苦笑しながら頷いた。
「それなら良かった」
ぽつりと漏れた本音に、狐たちは嬉しそうに顔を見合わせた。
「僕たちも、今までは目の前の書類をさばくので精一杯だったから、ようやく一息つけました」
「そうそう。今までは空が晴れてるかどうかも気にする余裕もなかったもんね」
キツネたちは、ソウのおかげで手に入った「心のゆとり」を噛みしめるように、それぞれふさふさの尾を揺らした。
だが、その中の一匹が、ふと遠くの景色に目をやったところで動きを止める。
少し年長らしい狐神使が首を傾げる。
「そういえば……」
「何だ?」
「最近、山が変なんです」
ソウは足を止めた。
「山?」
「はい」
狐は少し不安そうな顔をする。
「木霊たちを見かけなくなったんです」
「木霊?」
「山神様のお手伝いをしている精霊たちです」
別の狐も頷いた。
「いつもなら麓まで降りてきて、神米を受け取っていくんですけど」
「このところ全然姿を見ないんですよね」
「何かあったんでしょうか……」
ただの世間話。
きっと狐たちにとってはその程度のことだった。
だが。
ソウの胸には小さな引っ掛かりが残った。
弥彦の時もそうだった。
ウカの時もそうだった。
誰かが「少し無理をしている」。
その小さな違和感を放置した結果、大きな問題になっていた。
「山か……」
ソウは遠くに見える山並みへ視線を向ける。
夕日に染まる峰々は静かで、美しく見えた。
だが、その静けさが妙に気になった。
「まあ、今は考えても仕方ないか」
そう呟くと、狐たちはぱっと表情を明るくした。
「今度また遊びに来てくださいね!」
「今度はお稲荷さんご馳走します!」
「それは魅力的な提案だな」
珍しく即答したソウに、狐たちは歓声を上げた。
高天原へ来たばかりの頃は、ここに自分の居場所などないと思っていた。
だが。
気付けば、こうして声を掛けてくれる者たちがいる。
そんなことを考えた自分に気付き、ソウは少しだけ苦笑した。
その数日後。
彼は思いもよらぬ場所から呼び出しを受けることになる。
正式に「高天原業務改革」を命じられた彼が、この世界の歪みと、自分がここへ呼ばれた本当の理由を知るための最初の一歩になることを――。
この時のソウは、まだ知らなかった。




