第3話 休み方を知らない神
弥彦がその場に倒れ伏した瞬間、周囲の空気がピリリと冷たく張り詰めた。
空間の境界が曖昧になり、どこからともなく白い霧が立ち込める。
その霧の奥から、静かに、しかし圧倒的な神威をまとった者が姿を現した。
そこにいたのは、雪のように白い毛並みの耳と尾を持つ、美しい白狐の神使であった。
神に直接仕えるその姿は、一目で高天原の住人であると分かる気高さを放っている。
白狐の神使は倒れた弥彦を一瞥すると、一瞬だけ、内心の動揺を隠すように耳をピクリと後ろに伏せた。
しかし、すぐに流れるような美しい動作でソウへ向けて深く一礼する。
「……申し訳ありません。少々、お体に障りましたでしょうか。人間のお身内では、我が主の神威を受け止めきれなかったようです。こちらの出力調整の想定が甘く、ご迷惑をおかけいたしました」
口調こそ極めて丁寧だが、その声の端々には「上に知られたら怒られる」というような、生真面目ゆえの必死さが微かに滲んでいる。
「ですが、どうかご安心を。事の顛末は私から主へ、上手く……いえ、正確に報告しておきますので。どうかこれ以上の混乱はご勘弁ください。……それでは、私はこれにて失礼いたします」
白狐の神使はどこか慌てた様子で再度一礼すると、尾を揺らし、霧に溶けるようにして一瞬で姿を消した。
あとに残されたのは、静まり返った空気と、ただ呆然と立ち尽くすソウ、そしてぐっくりと意識を失った弥彦だけであった。
弥彦が運び込まれたのは、高天原の一角にある医務室だった。
寝台に横たわる弥彦の周りには、彼に仕事を押し付けていた関係部署の神使たちが数体、集まっていた。
ソウは、彼らがさぞ青ざめ、反省しているだろうと思った。
しかし、返ってきた反応は、ソウの予想を斜め上に裏切るものだった。
「なんだ、ただの疲労か」
「大げさに騒ぐから驚いたぞ。少し休めばすぐに治るだろう」
「そうそう。弥彦様は昔から丈夫なのが取り柄だからね。明日にはまた手伝ってもらわないと、各部署の書類が滞って困るよ」
口々に交わされる、緊張感の欠片もない丁寧な言葉。
ソウは自分の耳を疑った。
誰もこの事態を深刻に受け止めていない。
一柱の神が過労で倒れたというのに、まるで「スマホの充電が切れた」くらいの感覚で話している。
胸の奥から、ドス黒い怒りがせり上がってくるのをソウは止められなかった。
「……皆さん、少し静かにしていただけませんか」
ソウの、低く抑えられた声が医務室に響いた。
その場にいた神使たちが、怪訝そうに一斉にソウを振り返る。
人間の分際で神使たちに異議を唱えるなど本来なら不敬にあたるが、ソウの目に宿る剣呑な光に圧され、誰も口を挟めない。
「働かせすぎだ、とは思いませんか」
一職の神使が、不思議そうに首を傾げた。
「何を言っているんだ、お前は。だって、あの方は『神』だぞ? 病にかかるわけでもないし、死ぬわけでもない。これくらいで壊れるはずが――」
「神であれば、限界なく使役しても問題ないと? ……失礼ながら、正気とは思えませんね」
ソウは静かに、しかし明確に拒絶の意思を示した。
(こいつら、悪意がないんだ……。本気で「神だから大丈夫」と思っている。完全にマネジメントの感覚が麻痺してる。元の世界のブラック企業の経営者だって、もう少しマシな言い訳をするぞ)
翌日。
ソウは未だ眠り続ける弥彦に代わり、彼の宿舎に残された書類を片っ端から調べ始めた。
そして、その記述を読み進めるうちに、完全に絶句した。
* 農政課:作付け計画書の作成補助、および現場調整。
* 祭祀課:祭具の在庫管理、搬入作業補助。
* 天路管理課:定期点検報告書の代筆、不具合対応。
* その他:各部署の書類整理、神具運搬、神使たちの愚痴聞き、雑務全般。
「なんだこれ……ふざけるのも大概にしろよ……」
本来なら、複数の部署の神使たちがそれぞれ人員を割いて行うべき膨大な仕事量が、すべて「弥彦」という一柱のラインに集中していた。
理由は単純だった。
「弥彦が、絶対に断らないから」。
「……よし、割り切ろう。やってやるよ」
元・社畜の血が騒いだ。
かつて自分を追い詰めた「業務過多」という怪物に、まさか神の世界でリベンジすることになるとは思わなかったが。
数日後。
ソウは弥彦に仕事を押し付けていた関係部署の神使たちを、一堂に集めた。
不満げな神使たちを前に、ソウは弥彦の机から持ってきた書類を、机の上に整然と、しかし重々しく置いた。
「皆様、お集まりいただきありがとうございます。早速ですが、この『一等田の数値調整』。本来はどなたの管轄ですか」
「……それは、我が農政課の担当ですが」
「では、この神具の搬入計画は?」
「うっ、それは祭祀課の……」
「最後にこれ、門の点検報告書は?」
「天路管理課、です……」
ソウは腕を組み、静かだが鋭い視線を神使たちに向けた。
現代社会の「デキるプロジェクトマネージャー」さながらの、理知的な威圧感だ。
「では、なぜその全ての業務を弥彦一柱が背負っているのですか。筋の通るご説明をお願いします」
沈黙が流れる。
神使たちは気まずそうに視線を彷徨わせ、やがて一人が蚊の鳴くような声で言った。
「だって……あの御方に頼んだら、嫌な顔一つせずに引き受けてくださるから……」
「それをこちらの世界では何と呼ぶか知りませんが、私のいた世界では『搾取』、あるいは『都合のいい利用』と言います」
ソウは深くため息をついた。
やはり彼らに悪意はない。ただ、便利だから使っていただけ。
だからこそタチが悪く、性質が悪い。
「高天原の円滑な運営のためにも、今から業務を本来の担当へ強制返却します。異論は受け付けません」
ソウはホワイトボード代わりの大きな木札に、墨で容赦なく線を引いていった。
現代の緻密なシステムを今すぐ神々に理解させるのは無理がある。
だからソウが今回やったのは、高度な業務改善などではない。ただの「徹底的な割り振りと、弥彦の完全なタスク拒否」だ。
弥彦の机にあった書類を、本来の担当部署ごとに無理やり分類し、「これはお前らの仕事だ、持って帰れ!」と力技で突き返したのである。
「な、なぜ我々がこんな面倒なことを……。今まで弥彦様がやってくださっていたのに……」
「皆様の本来の職務でしょう。これ以上、彼に一文字たいとも書類は書かせません」
神使たちは不満をタラタラと漏らし、慣れない実務の書類を抱えて、おろおろと各部署へ戻っていった。
ひとまずは、弥彦のラインを完全に空けること(休ませること)だけに成功した形だ。
各部署が自力で仕事を処理できるかという問題は、完全に先送りにされたままであったが――。
それからさらに数日後。
ようやく、弥彦が目を覚ました。
「……ん、ここは……」
「起きたか、仕事中毒神」
寝台の横で椅子に座り、リンゴを剥いていたソウが声をかける。
弥彦はまだ少しおぼつかない様子で身体を起こすと、周囲を見回し、そして――ガタガタと震え出した。
「ソ、ソウ! 僕、どのくらい眠ってた!? 皆は!? 業務は!? 滞って皆が困ってない!?」
開口一番、それだった。
自分の身体のことよりも、まず他人の心配、組織の心配。
ソウは心の底から呆れ、苦笑しながら、剥き終わったリンゴを弥彦の口に突っ込んだ。
「もぐっ!?」
「いいから黙って食え。お前、まず自分の心配をしろよ。お前が倒れてる間、高天原は何一つ困らなかったぞ。全部きれいに回してやったからな」
「え……? でも、僕がやらないと……」
弥彦は信じられないといった風に、自分の手を見つめた。
その表情は、どこか寂しそうで、酷く怯えているようにも見えた。
ソウはリンゴを剥いていた小刀を置き、真剣な目を弥彦に向ける。
「……なぁ、弥彦。なんであそこまで言われて、断らなかったんだ? 神の体力が無限じゃないことくらい、お前自身が一番分かってだろ」
「それは……」
部屋の中に、重い沈黙が流れる。
長い沈黙の後、弥彦は膝の上でぎゅっと拳を握りしめ、ポツリと小さく呟いた。
「……怖かったんだ。必要とされなくなるのが、怖かった。僕には、他の高位の神々みたいな強い力や輝かしい権能がない。だから……皆の役に立って、必要とされないと、ここにいてはいけないような気がして。忘れられてしまう気がして。だから、断れなかったんだ……」
それは、傲岸不遜な「神」の言葉ではなかった。
自分の居場所を失うことを恐れる、不器用で繊細な若者の告白だった。
ソウは何も言わず、ただ弥彦の頭にぽんと手を置いた。
「バカだな。仕事がなくても、お前はお前だよ。……まぁ、少しは俺を頼れ。そのために俺がここにいるんだろ」
「……うん。ありがとう、ソウ……」
それからまた幾日か経った。
業務改善の甲斐あって、弥彦は神生始まって以来の「初めての休日」を迎えることとなった。
高天原の美しい緑が広がる丘の上。
ソウと弥彦は二人で並んで草の上に寝転がり、のんびりと流れる雲を眺めていた。
「……なぁ、弥彦。お前、さっきから一分おきに寝返り打ってるけど、何してるんだ?」
「……分からないんだよ。僕……休み方なんて、知らないから。休む時って、何をすれば正解なの?」
大真面目に深刻な顔で尋ねてくる弥彦を見て、ソウは盛大に吹き出した。
「はははは! なんだそれ! 休み方の正解って!」
「笑わないでよ! 本気で悩んでるんだから!」
「いや、悪い。……でも安心しろ、実は俺も、まともな休み方なんて知らないんだ」
「なんだ、ソウも同類じゃないか」
二人で顔を見合わせ、声を上げて笑う。
心地よい風が丘を吹き抜けていく。
初めて、この世界に来てから穏やかな時間が流れた、その時だった。
パサパサパサ……。
不穏な羽音を立てて、空からまたしても「紙の鳥」が飛んできた。
しかも、今回はいつもの白ではない。眩しいほどの金色に輝く紙鳥だ。
「……げっ」
ソウの顔が引きつる。
「差出人は……天照様だ」
弥彦が緊張した面持ちで鳥を開き、そこに書かれた内容を見た瞬間、文字通り石のように固まった。
「おい、どうした。何て書いてある」
「……『農政課より至急の応援要請。至高の穀物地帯にて、深刻な問題発生。至急現地へ向かえ』……」
ソウは深くため息をついた。
「……チッ。どうやら、お前の初めての休日は、開始一時間で終了したみたいだな」
「あはは……。神様の役目からは、なかなか逃げられないみたいだね」
弥彦が苦笑しながら立ち上がろうとした時、ソウは木札の端に、小さく書き加えられた追伸の文字を見逃さなかった。
『追伸:ソウも同行のこと。拒否権は認めない。――天照』
「……って、なんで俺も連帯責任なんだよぉぉぉ!?」
ソウの絶叫が高天原の丘に響き渡る。
同時に、二人の背後の空間がぐにゃりと歪んだ。
そこから現れたのは、あの前編の冒頭で弥彦が倒れた際に現れた、あの白狐の神使であった。
しかし、その雰囲気は以前のすましたものとは全く違う。
ピンと立っていた白い耳をぺたりと寝かせ、豊かな尾を直立不動のまま細かくガタガタと震わせているのだ。
「ソウ様、弥彦様……! 大変でございます、お上が、天照大御神様が直々に、今回の穀物地帯の問題についてお怒りで……! 私の報告書の書き方が悪かったのかと、もう、肝が冷える思いでございます……!」
丁寧語こそ崩さないものの、その声は完全に余裕をなくし、顔面蒼白になっているのがありありと伝わってくる。
どうやら、最高神の逆鱗に触れるのを恐れるあまり、ソウたちを強制連行するために直々に案内(見張り)に遣わされたらしい。
白狐は、ソウに対して個人的に親しいわけでもない。
ただ単に「これ以上自分の評価を下げないでくれ、これ以上上司が怒るようなトラブルを起こさないでくれ」という必死な人間臭さ全開で、ソウたちの背中をせかすのだった。
「……お、お急ぎください! 主の御心がこれ以上荒れる前に、どうか……っ!」
最高神の圧倒的な存在感、そして、それに怯えて敬語のまま半泣きになる白狐。
ソウは、雲一つないはずの青空を見上げ、本日一番の深い、深いため息をついた。
こうして二人は、次なる問題――高天原の胃袋を支える、穀物と豊穣を司る気難しき神、「宇迦之御魂神」のもとへと強制連行されることになるのだった。




