第2話 休まない神
高天原へ来て三日。
山城創――いや、今は「ソウ」と名乗っている彼は、与えられた小さな宿舎で目を覚ました。
「……まぶし」
顔に差し込む光に、ソウは思わず腕で目を覆った。
窓の外に広がるのは、見渡す限りの純白の雲海。
さらにその上の青空には、物理法則を無視して巨大な島々がいくつも浮かんでいる。
まさに神の世界、高天原。
アニメやラノベで見たような現実離れした光景にも、人間の適応力というやつか、少しずつ目が慣れてきている自分がいた。
――本当は、慣れたくなどなかったのだが。
「帰れないんだよな、元の世界に……」
天井を見上げ、ぽつりと呟いた声は、遮音性の低い宿舎の室内に虚しく響くだけだった。
もちろん、答える者など誰もいない。
ただ一人、あの「お人好し」を除いては。
「おはよう、ソウ。よく眠れた?」
前触れもなく宿舎の木製の扉が開き、一柱の神がひょっこりと顔を出した。
この高天原でソウの世話役を買って出てくれている神――弥彦だ。
「おはよう、弥彦。って……おい、なんだその顔」
ソウは寝台から跳ね起きると、思わず弥彦の顔を凝視した。
目の下には、炭でも塗ったかのような濃い隈。
いつもは整っているはずの髪は爆発したように乱れ、衣服の袖には墨の汚れがついている。
何より、その腕に抱えられている木札や巻物の書類の山は、昨日見た時よりも明らかに増殖していた。
「お前、ちゃんと寝たか?」
「寝たよ。バッチリ!」
「……嘘つけ。何時間だ?」
「ええと……二時間、くらい?」
「それを世間では『寝てない』って言うんだよ!」
ソウの鋭いツッコミに、弥彦は「あはは……」と力なく困ったように笑うだけだった。
その日、ソウは弥彦に高天原を案内してもらうことになっていた。
ただの観光ではない。
この世界の構造を知り、元の現代日本へ帰る方法を見つけるための、切実な調査だ。
しかし、宿舎を出て歩き始めてすぐ、ソウは強烈な異変に気付くことになった。
「あ! 弥彦様ぁぁぁ!」
前方から、神使の白い狐が文字通り泥を跳ね上げながら猛ダッシュで走ってくる。
「農政課の長から伝言です! 今年の一等田の作付け計画書、数値の辻脄が合わなくて皆が混乱しています! 助けてください!」
「わ、分かった! 後でそっちに行くから、長にはそう伝えて!」
弥彦が書類を抱え直しながら叫ぶ。
狐が去り、ようやく一歩を踏み出した、その瞬間だった。
「弥彦さぁーん! ちょっといいですか!」
今度は逆方向から、豪奢な衣装をまとった祭祀課の神が息を切らせてやってきた。
「今週末の大祭に使う神具の搬入が、人手不足で全然終わりません! 弥彦さんの力が必要なんです!」
「了解! 昼までにはそっちの手伝いに行くよ!」
「おいおい……」とソウが呆れる暇もなく、さらに数歩進んだところで、今度は強面の武神風の男が道を塞いだ。
「弥彦殿! ちょうど良いところに!」
「今度は何ですか、天路管理課の先輩」
「先月の門の点検報告書、上層部から修正指示が来てな。俺たちじゃ書き直せという通達の意味が分からんのだ。頼む!」
「置いていって! すぐに目を通しておくから!」
全部、笑顔で引き受ける。
その様子を横で見ていたソウは、ついに我慢できずに足を止め、弥彦の肩を掴んだ。
「……待て。失礼を承知で聞くが、今のご近所トラブル解決マルチタスクみたいなの、全部お前の本来の仕事なのか?」
「え? 違うよ?」
「違うのかよ……」
ソウは思わず頭を抱えた。
弥彦はきょとんとした顔で、腕の中の書類を見つめた。
「うん。僕の本来の担当は、もっと別の……地味な事務作業なんだけど」
「じゃあなんで、他の神々の仕事まで全部引き受けてるんだ」
「だって……皆、本当に困ってるみたいだったから。僕が少し無理をすれば、皆が助かるでしょう?」
「困っているみたいだから」
その言葉を聞いた瞬間、ソウの胸の奥がキリキリと痛んだ。
嫌な既視感だった。
それは、かつて元の世界で社畜としてすり潰されていた頃の、自分自身の姿そのものだった。
『山城君にしか頼めなくてさ』
『これ、ちょっとだけの量だからさ』
『優秀な君なら、すぐできるでしょ?』
上司や同僚のそんな甘い言葉を真に受け、断れずに笑顔で引き受け続けた結果、気付けば全ての業務を一人で抱え込み、心を病みかけた。
(こいつ……危なすぎる)
ソウは、弥彦の細い背中に、かつての自分の影を見ていた。
昼餉の刻。
弥彦の案内で、ようやく神々が集う食堂へとたどり着く。
「……やっと飯だな。ほら、さっさと座って食え」
「うん、ありがとうソウ。なんだか今日はお腹が空い――」
弥彦が木製の椅子に腰を下ろした、まさにその瞬間。
窓からヒラヒラと、白い折り紙の鳥が不気味な速度で飛んできた。
鳥は正確に弥彦の頭の上に不時着すると、パサリと開く。
そこには、朱色の墨でデカデカと【至急】の二文字が躍っていた。
「……っ!」
弥彦の身体が、条件反射のようにガタッと立ち上がる。
「どこ行くんだよ」
ソウの低く冷めた声が、弥彦の動きを止めた。
「……祭祀課、かな。神具の搬入、やっぱり間違いがあったみたいで」
「飯は?」
「後で食べるよ」
「お前、それ絶対食わないパターンの奴だろ」
ソウのジト目での指摘に、弥彦は返す言葉を失ったように、ただ心苦しそうに、けれどやっぱり、無理に作った笑顔を浮かべるだけだった。
夕暮れ時。
ソウは神殿の回廊で、ようやく弥彦と合流した。
だが、一目見て異常だと分かった。
弥彦の足取りは、まるで泥沼を歩いているかのように重い。
「弥彦」と声をかけても、こちらを振り向くまでに数秒のラグがある。
焦点が合っていない目で、幽霊のようにふらふらと歩いていた。
「おい、大丈夫か?」
「……え? ああ、ソウか。うん、大丈夫。全然、平気だよ」
即答だった。
けれど、その声は掠れていて、今にも消え入りそうだ。
ソウは深いため息をついた。
「あのな。本当に大丈夫な奴は、そんな今にも消えそうな顔をしないんだよ」
弥彦は何も答えなかった。
いや、答える気力すら残っていなかったのかもしれない。
ただ、弱々しく微笑むだけだった。
そして、夜。
ようやく全ての「お手伝い」を終えた帰り道。
本殿へと続く長い石階段を上っていた時だった。
前を歩いていた弥彦の身体が、大きく右へふらついた。
「おっと……」
弥彦は踏みとどまろうとして膝が折れた。
「――っ、弥彦!?」
糸が切れた人形のように、弥彦の身体が崩れ落ち、石段を転がり落ちそうになった。
ソウはとっさに駆け寄り、その細い身体を間一髪で抱きとめる。
「おい! しっかりしろ! 弥彦!」
叫んでも、揺さぶっても、返事はない。
弥彦は完全に意識を失っていた。
月の光に照らされたその顔は、神とは思えないほど、青白く、疲れ果てていた。




