第1話 深夜のデスマーチ
「――山城君。これ、明日の朝一までに終わらせておいてね」
ドサリ、と鼓膜をすり潰すような重苦しい音。
山城創のデスクに置かれたのは、鈍器と見紛うほどの分厚い資料の山だった。
「……え? あ、はい」
「若いんだからさ、これくらい頑張れるでしょ? 期待してるよ」
上司はそれだけ言い残すと、創の返事を待つこともなく、そそくさと自分のタイムカードを押して帰宅していった。
すでにオフィスには、創一人しか残っていない。
壁に掛けられた時計の針は、夜の十時を無情にも回ったところだった。
彼の日常は、いつからかこの蛍光灯の光だけで満たされた、乾いたオフィスビルの中にしかなかった。
「はい……って、言うしかないんだよなぁ、結局」
誰もいないフロアに、ぽつりと愚痴がこぼれる。
本当は、心臓が痛いくらいに疲れていた。
足だって、鉛でも仕込まれているように重い。
限界なんて、とっくの昔に通り過ぎていた。
でも、自分が断れば他の誰かにしわ寄せがいく。
いや、それ以前に「君の代わりなんていくらでもいるんだよ?」と冷笑されるのが怖かった。
ただ、それだけのために、創は死んだ魚のような目で、再びパソコンの液晶画面に向かい続けた。
結局、会社を出られたのは日付が変わる直前、終電ギリギリの時間だった。
最寄り駅のホームに滑り込んできた電車に揺られ、地元に着く。
深夜の冷たい空気の中、自販機で買った缶コーヒーを一口すする。
喉を通り抜ける苦味が、疲弊しきった脳を少しだけ覚醒させた。
今日の晩ご飯は、コンビニの棚の隅に残っていたパサパサの鮭おにぎり一個だ。
「今日も……何も終わらなかったな……」
ふと見上げた夜空には、都会のネオンに掻き消されて星一つ見えない。
重苦しい曇り空が広がっているだけだった。
その時、ポケットの中でスマホが震えた。
画面を見ると、未読メールの数字は「27」を示している。
開くまでもない。
一番上にあるのは、さっき別れたばかりの上司からのメールだ。
【件名:明日の朝までに要確認。よろしく】
「朝までって……今、何時だと思ってるんだよ、クソ上司」
乾いた笑いが口元から漏れた。
笑うしかない。
創はスマホをポケットに放り込み、すっかり静まり返った午前一時の夜道を、幽霊のようにふらふらと歩き出した。
家への近道として、創は普段から小さな神社の境内を突っ切ることにしていた。
街灯もまばらで、いつもなら誰もいない不気味なほど静かな場所だ。
しかし、今夜は違った。
(……あれ? なんだこれ)
鳥居の向こう側が妙に明るいのだ。
風に乗って聞こえてくるのは、どこか懐かしく、それでいて聞いたこともない不思議な旋律の祭り囃子。
パチパチと爆ぜる灯火の明かりと、大勢の――けれど、人間のものとは少し違う響きを持った笑い声。
「こんな時間に、お祭り……? 地域振興か何かか?」
連日の徹夜による疲労のせいで、思考が完全に鈍っていたのだろう。
怪しむよりも先に、妙な好奇心が勝ってしまった。
吸い寄せられるように鳥居へ近付き、その結界を一歩、跨ぎ越える。
その瞬間だった。
「――っ!?」
足元の石畳に、見たこともない複雑な幾何学模様の光が走った。
視界が爆発的な純白に染まる。
同時に重力が消失し、身体がふわりと宙に浮く。
「え? なに、これ――」
抗う間もなく、強烈な目眩が創を襲った。
次の瞬間、彼は見たこともない「空」から、地面へと派手に叩きつけられていた。
「ぶふっ……! げほっ!」
口の中に生々しい草の味が広がる。
痛む身体を押さえながら、創はゆっくりと目を開けた。
「……夢、だよな? 疲れすぎてついに幻覚を……」
そこは、彼の居た街ではなかった。
どこまでも抜けるように青い空。
その空に、まるで島のようにぽっかりと浮かぶ、巨大で荘厳な神殿群。
巨木をそのまま削り出したかのような圧倒的な太さの柱。
遥か見上げる天空へと突き刺さる黄金の千木。
天国――いや、教科書で見た「日本古事記」の世界そのものの光景だった。
「お、おい! 来たか!? 成功か!?」
突然、背後から切羽詰まった声が響いた。
バッと振り返る。
そこに立っていたのは、一人の若い男だった。
神々しい刺繍の入った衣装を身にまとってはいるものの、その姿は一言で言えば「限界」を迎えていた。
抱えきれないほどの紙束や巻物を抱え、髪はボサボサ。
何より、その目の下には、創が鏡で毎日見ている自分の顔とそっくりな、色濃い隈が刻まれている。
お世辞にも神様らしい威厳は微塵も感じられない、親近感溢れる社畜オーラを放っていた。
「よかったぁぁぁ! 成功した、成功したぞ! これで不備を突かれずに済む!」
「……あの、どちら様ですか? ここ、どこですか?」
「俺か? 俺は今回の召喚を担当した神だ!」
「召喚……何の?」
「あ」
若い神が、ピタリと動きを止めた。
気まずい沈黙が流れる。
「……あ?」
「えっと……ちょっと待って。ええっと、手引書、手引書……」
神様は慌てて抱えていた書類をめくり始めた。
その拍子に数枚の紙がハラハラと地面に落ちる。
彼はさらにパニックになりながら、地面に這いつくばって書類を回収すると、創を上から下まで凝視した。
「確認だ! お前、神職か!?」
「違います。ただのシステム営業のサラリーマンです」
「じゃ、じゃあ陰陽師!? 安倍晴明の末裔とか、そういう裏の稼業の!?」
「普通の一般人です。週休一日です」
「まさか、霊験あらたかな巫女……!?」
「見ての通り、ただの成人男性です」
「あっ」
若い神の顔から、みるみる血の気が引いていくのが分かった。
彼はもう一度書類を見て、創を見て、さらに遥か彼方の天を仰いで、ガタガタと震え出した。
「……間違えた」
「何をですか」
「召喚先を」
「は?」
「いや違う! 召喚先じゃない、召喚する人間を盛大に間違えたァァァァ!」
「もっとダメだろ!!」
初対面の神様に、元社畜である創の鋭いツッコミが炸裂した。
「あー、もう終わりだ……今月の仕事が……始末書が……減給処分が……」
頭を抱えてブツブツと生々しいワードを呟く神様に、創は呆れ果てながらも、とりあえず現状を把握するために自己紹介をすることにした。
「まぁ、来てしまったものは仕方ないですし。とりあえず僕は山城創って言います。そちらのお名前は――」
「本名を言うな愚か者!!」
「うおっ!?」
突然、鼓膜が破れんばかりの大声で怒鳴られた。
「な、なんで怒るんですか!? 挨拶くらい普通でしょう!」
「いいか人間! 神界で安易に『本名(真名)』を明かすな! 名前ってのはな、存在を縛る最大の呪なんだよ! もしここが性格の悪い強い神の神域だったら、一瞬で名前を奪われて、一生タダ働きさせられる眷属にされてるところだぞ!」
「えっ……じゃあ、アンタも僕を眷属にできるの?」
「俺じゃ無理」
「無理なんだ」
「圧倒的に神格が足りない。悲しいことに、俺の権限じゃ無理!」
「……神様の世界も、役職と権限の壁が世知辛いな」
はぁ、と深いため息をついた神様は、めんどくさそうに書類に筆を走らせた。
「お前の通称はどうする? 本名をもじって……『ソウ』でいいか?」
「え、あ、はい。少し考えさせて――」
「よし、今日からお前は『ソウ』だ。俺の名前は弥彦。よろしくな、ソウ」
強引にネームプレートを書き換えられ、創が「今日からって……」と口を挟もうとした、まさにその時だった。
『――やーひーこーぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!』
美しく澄み渡っているはずなのに、背筋が凍りつくような、恐ろしくも凛とした女性の声が、巨大な神殿の奥から響き渡った。
その声を聞いた瞬間、隣にいた弥彦がビクゥッ! と文字通り垂直に跳ね上がって完全硬直した。
『提出期限の過ぎた報告書はどこかしら!? 今回の異世界召喚は当然、成功したのよね!? さっさと進捗を出しなさぁぁぁい!!』
「ひっ、ひいいいいい……! 来た、お出ましだ……!」
弥彦の顔が、恐怖で一瞬にして真っ白に染まっていく。
「な、何ですか今の声……誰なんですか、あの拡声器みたいな人」
「やばい……うちの最高経営責任者(最高神)、天照様だ……!」
「アマテラス!? 日本神話の頂点に立つ、あの太陽神!?」
「そうだよ! 太陽のように眩しく、そして逆らう者を一瞬で熱線で塵にする、うちの最恐女神だよ!!」
「ああ……」
創はすべてを察した。
その理不尽なまでの「進捗への圧」と「期限への脅迫」。
それには、彼も胃がキリキリするほど聞き覚えがあった。
「逃げるぞ、ソウ! 捕まったら『お天道様が見てるわよ?』って極上の慈悲スマイルを浮かべられながら、天岩戸に監禁されて三日三晩お説教と残業三昧だ!」
「ちょっと待って! 神様の世界の最高権力者から逃げるの!?」
「当たり前だろ! 命が惜しければ走れぇ!」
弥彦は創の腕をガシッと掴むと、神としての誇りも威厳もかなぐり捨てて、全速力で走り出した。
背後からは「逃がさないわよぉ! 進捗を出すまで地の果てまで追うから!」という、可憐ながらも山を割らんばかりの威圧を放つアマテラスの声が追いかけてくる。
青い空、浮かぶ島、必死の形相で追ってくる神々しい美貌の最高経営責任者。
風を切りながら全力疾走する中で、創は限界を迎えた頭で、激しく心の中でツッコミを入れずにはいられなかった。
――おい、ちょっと待て。
神隠しにあって神界に来たはずなのに、なんでここも会社みたいなんだよ!!




