5,ステーキが食べたい
朝、目が覚めた瞬間から、なぜかステーキが食べたかった。
理由は分からない。
ただ、猛烈に食べたかった。
肉だ。
厚くて、焼き目のついた、柔らかい肉だ。
俺はしばらく天井を眺めながら、その欲求の出処を探った。
見つからなかった。
人間の欲求というのは、時として理由なく湧いてくるものらしい。
問題は、どうすれば手に入るかだ。
ライラに頼めばいい。
頼む方法が問題だ。
声が出ない。
正確には、出せない。
扉を開けてライラを呼ぶことはできる。
しかし呼んだ後に「ステーキが食べたい」と言えるかどうかが、全く自信がなかった。
俺は天井を眺め続けた。
肉が食べたかった。
どうしようもなく、肉が食べたかった。
そこにノックの音が響いた。
───
城の二階、広間では。
セバチャとライラが向かい合って座っていた。
今朝のセバチャの表情は、いつもより少し硬かった。
「本題に入ります」
セバチャが静かに口を開いた。
「ここ数日、城の周辺に魔狩人と思われる人物が複数確認されています」
ライラが頷いた。
「私も見ました。遠巻きにうろついてますよね」
「宝箱の件が広まったのでしょう。素材目当て、好奇心、あるいは国や組織からの依頼。理由は様々かと思われますが」
セバチャが一呼吸置いた。
「いずれにせよ、カキンオー様の領土への侵入者です」
ライラの目が真剣な光を帯びた。
「確保しますか」
「確保します」
セバチャが静かに続けた。
「カキンオー様の領土に無断で踏み込んだ者です。確保の上、情報を聞き出す必要があります。カキンオー様のご意向を鑑みれば、拷問も許容範囲かと」
ライラが少し首を傾げた。
「拷問、ですか」
「必要であれば」
「ご主人様はそういうことをお望みでしょうか」
セバチャが少し考えた。
「カキンオー様は何もおっしゃっていません」
「つまり」
「つまり、我々の判断に委ねられているということです」
ライラがまた少し考えた。
「では、穏便に確保して、お話を聞くくらいでいいのでは」
「穏便に」
「はい」
「魔狩人を穏便に確保する方法が、ライラにはあるのですか」
ライラがにこりと笑った。
セバチャが静かに息を吐いた。
「……分かりました。ただし」
「はい」
「情報収集は私が行います。ライラは確保だけにしてください」
「分かりました」
ライラが頷いてから、少し間を置いた。
「あの、一つ聞いてもいいですか」
「何でしょう」
「肉って、どこで手に入りますか」
セバチャが眉をひそめた。
「……肉、ですか」
「はい。最近、食料が野菜と豆ばかりで。ご主人様にちゃんとしたお肉を食べていただきたくて」
「それは確保した魔狩人に聞けということですか」
「聞けるなら聞いてほしいです」
セバチャが長い沈黙の後、静かに口を開いた。
「……情報収集の項目に加えます」
───
その日の午後、ライラは城の外縁を歩いていた。
にこにこしながら。
沼地の茂みの中で、ライラはすぐに目当てのものを見つけた。
革鎧を着た男が、茂みに身を潜めて城を観察していた。
魔狩人だ。
男はライラが近づいてくるのに気づいた瞬間、立ち上がった。
あの笑顔だ。
ゴルドから聞いていた、あの笑顔の女だ。
「こんにちは」
ライラが深々と頭を下げた。
「少々よろしいですか」
男は逃げようとした。
しかし、気づいたら城の応接室の椅子に座っていた。
いつの間に連れてこられたのか、まったく分からなかった。
───
セバチャが男の向かいに静かに腰を下ろした。
机の上には羽根ペンと羊皮紙が用意されている。
男は椅子に座ったまま、ドアを確認した。
遠くない。
逃げられるかもしれない。
しかし目の前の老執事が、静かにこちらを見ていた。
なぜか、逃げてはいけない気がした。
「いくつか質問させていただきます」
セバチャが羽根ペンを手に取った。
「お名前は」
「……ダグ」
「ダグ殿。この城の周辺を調査していた理由をお聞かせください」
ダグは少し考えてから答えた。
「宝箱の噂を聞いた。中身を確認したかっただけだ」
「なるほど」
セバチャが書き留めた。
「次の質問です」
ダグが頷いた。
「カキンオー様の噂を初めて耳にされた時、どのようなお気持ちでしたか」
ダグが固まった。
「……は?」
「恐怖でしたか。それとも畏怖でしたか。あるいは崇敬に近いものでしたか」
「え、あ、まあ、怖いとは思ったが」
「恐怖ですね」
セバチャが書き留めた。
「その恐怖は、カキンオー様の存在そのものに対するものでしたか。それとも城という象徴に対するものでしたか」
「……どっちだろう」
「どちらとも言えないということですか」
「そうなるか」
セバチャが頷きながら書き留めた。
「カキンオー様の沈黙についてはどう思われますか」
「沈黙?」
「カキンオー様は滅多にお言葉を発されません。その沈黙を、外の世界の方々はどのように受け取っていますか」
ダグはしばらく考えた。
「……余裕があるように見える」
「余裕」
「何でも知ってるから、わざわざ喋る必要がないっていうか」
セバチャが深く頷きながら書き留めた。
「なるほど。非常に参考になります」
ダグは自分が何の情報を提供しているのか、よく分からなかった。
そのとき、隣の部屋からライラが顔を出した。
「あの、すみません」
ダグがライラを見た。
「お肉って、この辺でどこで手に入りますか」
ダグが固まった。
「……肉?」
「はい。牛でも豚でも。ちゃんとしたお肉が食べたくて」
ダグはセバチャを見た。
セバチャが静かに頷いた。
「お答えいただければ幸いです」
「……北の街道を三時間行ったところに、牧場がある。そこで直接買えるはずだ」
「ありがとうございます!」
ライラが深々と頭を下げた。
それから、少し考えるような顔をした。
「もう一つ聞いてもいいですか」
「……なんだ」
「魔物って、お金になりますか」
ダグが少し目を細めた。
急に話が変わった。
「なる。種類によるけどな」
「どんな部位が高く売れますか」
ダグは椅子に座り直した。
なぜか、こちらの方が答えやすかった。
「牙とか爪は基本的に需要がある。薬の材料になるから。あとは魔核だな」
「魔核、ですか」
「魔物の体の中心にある核だ。魔道具の材料になる。小さくても高く売れる」
「この辺の沼地の魔物にもありますか」
「ある。ただ」
ダグが少し間を置いた。
「この辺の沼地の魔物、全部逃げちまってるんだよな。城が来てから」
ライラが首を傾げた。
「逃げてるんですか」
「ああ。城の外縁には少しいるみたいだけど、以前に比べたら激減してる」
ライラが静かに考え込んだ。
「つまり、城から遠い場所に行けば魔物がいると」
「そうなる」
「そこで素材を取って、どこに売ればいいですか」
「街の買取屋か、魔狩人の組合だな。どの街にもある」
ライラがにこりと笑って、深々と頭を下げた。
「とても参考になりました。ありがとうございます」
ダグは脱力した。
拷問があると思っていたのに、肉の産地と魔物の部位の相場を聞かれた。
よく分からなかった。
───
夕方、地下の扉がノックされた。
返事がないまま扉が開く。
ライラが銀のトレイを持って入ってきた。
トレイの上に、厚みのある肉が一枚、湯気を立てて置かれていた。
「ご主人様、今日は特別なお食事をご用意しました」
俺は天井から視線を外した。
肉だ。
焼き目のついた、分厚い肉だ。
「牧場から直接仕入れました。街よりずっと新鮮で、美味しいと聞いております」
俺は起き上がってトレイを受け取った。
一口食べた。
悪くない。
というか、かなりいい。
肉汁が口の中に広がった。
朝から食べたかったのは、これだ。
ライラが部屋の隅で、にこにこしながら立っていた。
「お口に合いましたか」
俺は何も言わなかった。
でも、もう一口食べた。
ライラが静かに笑った。
───
同じ頃、城の外縁に向かう道で。
解放されたダグが、早足で沼地を抜けていた。
隣を歩く魔狩人仲間が声をかけた。
「どうだった。捕まったんだろ」
「……ああ」
「拷問か」
「肉の産地を聞かれた」
仲間が黙った。
「あと、魔王の沈黙についてどう思うかも」
また沈黙があった。
「……生きて帰れたんだな」
「ああ」
ダグは空を見上げた。
正直、何が起きたのか、まだよく分からなかった。
───
城の二階では。
セバチャが報告書を書き続けていた。
本日、城周辺の侵入者一名を確保し、情報収集を行った。
外の世界における、カキンオー様への認識は概ね把握できた。
恐怖。
余裕への畏怖。
沈黙への崇拝。
カキンオー様の評価は、すでに外の世界で確固たるものになりつつある。
セバチャはそこで一度ペンを止めた。
侵入者を確保して解放した。
これはカキンオー様のご意向に沿ったものだったのだろうか。
しかし、カキンオー様は何も仰らなかった。
沈黙は肯定である。
セバチャは静かに結論を出した。
今夜のステーキが、カキンオー様のご機嫌を良くしたなら、すべては正しかったのだ。
なんと深謀遠慮な御方か。
セバチャは報告書の末尾に、丁寧な字でそう書き添えた。
一切合切が、全力でズレていた。




