2,静かな城の騒がしい一日
目が覚めた。
静かすぎる。
これが俺の地下室。
うん、悪くない。
むしろ、これほど心地よい目覚めは生まれて初めてかもしれない。
病院の天井は、もっと白かった。
消毒液の匂いが染みついた、均一に明るい白。
点滴のチューブが腕に刺さって、モニターが規則正しく音を立てて、廊下からは看護師の足音が絶え間なく聞こえてくる。
静かにしたくても、静かにできない場所だった。
そんなことを考えていると、控えめなノックの音が響いた。
返事をしないでいると、扉が静かに開いた。
セバチャだった。
───
「おはようございます、カキンオー様」
俺は黙って体を起こした。
「少々、ご報告がございます」
セバチャが一呼吸置いた。
「食料の備蓄が、残り三日分ほどとなりました」
俺は無言でセバチャを見た。
「城の転移に際して、備蓄の大半が消費されたようです。早急に補充が必要かと」
なるほど。
食料がなければ飯が食えない。
飯が食えなければ腹が減る。
腹が減るのは嫌だ。
だが外に出て人と関わるのも嫌だ。
「ライラが近隣の村への買い出しを申し出ております」
ああ、それなら話が早い。
問題は交換するものだ。
俺は指輪に意識を集中させた。
収納リストの中で、最も安い部類の短剣を一本引き出す。
無言でセバチャに差し出した。
それだけだ。
それ以上の意図は何もない。
しかしセバチャがそれを受け取った瞬間、老執事の目つきが変わった。
短剣を両手で捧げ持ち、刀身を光にかざして、食い入るように見つめている。
長い沈黙があった。
「……カキンオー様」
セバチャがゆっくりと顔を上げた。
「これを、ライラに持たせると」
俺は頷いた。
それだけだ。
しかしセバチャは頷かなかった。
じっと短剣を見つめたまま、何かを考えている。
その目が、静かに、しかし確実に何かを組み立てていくような光を帯びていた。
沈黙があった。
「……なるほど」
セバチャが静かに言った。
「カキンオー様は、わざとこれを選ばれた」
俺は天井を見た。
わざと?安いから選んだだけだ。
「なるほど、そういうことですか」
セバチャが一人で何やら理解した。
「つまりカキンオー様は、村に対して力を測っておられる。この短剣一本への反応を見て、外の世界の水準を把握しようとされているのです」
違う。
「さらに言えば、これは試金石です。村がこの短剣をどう扱うか。適切に評価するか、あるいは見くびるか。その反応によって、今後の村との関係を決めるおつもりなのでしょう」
全然違う。
セバチャが深く、深く頭を下げた。
「御意のままに。ライラに申し伝えます」
俺は何も言わなかった。
言える言葉がなかった。
そもそも、違うと言ったところで、セバチャが信じるかどうかも分からない。
セバチャが部屋を出ていく背中を見ながら、俺はただ天井を見上げた。
一切合切が、全力でズレていた。
───
城門を出るライラを、セバチャが見送った。
「くれぐれも穏便に」
「分かってます」
「カキンオー様の試金石であることを忘れず」
「……試金石?」
「村がその短剣をどう扱うかを観察してください。カキンオー様はそれを知りたがっておられます」
ライラが首を傾げた。
「でも食料が欲しいだけでは」
「表向きはそうです」
セバチャが静かに、しかし確信に満ちた声で続けた。
「カキンオー様が、ただ食料のためだけにあれほどのものを渡されるはずがない」
ライラはしばらく考えてから、深く頷いた。
「さすがカキンオー様……」
セバチャが静かに息を吐いた。
「……お気をつけて」
ライラはにこりと笑って、沼地の外へと歩き出した。
───
北へ向かって半刻ほど歩いたところに、小さな村があった。
村の入口で、ライラは立ち止まった。
畑仕事をしていた村人が、見慣れない人影に気づいて手を止める。
「あの、どちら様で」
「こんにちは」
ライラが深々と頭を下げた。
「南の城からまいりました。食料の買い出しに伺いたいのですが」
村人の顔が、みるみる強張った。
南の城。
一週間前から噂になっている、あの黒い城だ。
「……少々お待ちを」
村人が早足で村の奥へと消えた。
ライラは村の入口で、にこにこしながら待った。
───
しばらくして、村の長老格の老人が数人の村人を連れて現れた。
老人はライラを頭のてっぺんからつま先まで眺めてから、無表情のまま口を開いた。
「何が要る」
警戒を隠す気もない、剥き出しの声だった。
ライラが買い出しのリストを取り出した。
「小麦粉と塩、乾燥豆、干し肉を少々、根菜を幾つか。こちらと交換していただければ」
ライラが腰の布袋から短剣を取り出した。
老人がそれを受け取り、ぐるりと眺めた。
村人たちが後ろから覗き込む。
使い古した短剣に見えた。
特別高価そうにも見えない。
老人が値踏みするように目を細めた。
「これ一本で、そのリストの全部は難しい」
「そうですか」
ライラが静かに頷いた。
「では交換できるものだけで構いません」
老人が村人たちと目を合わせた。
ひそひそと声が交わされる。
まあ、短剣でも武器には違いない。
食料ならいくらでもある。
悪い取引ではないだろう。
「小麦粉ひと袋と塩、乾燥豆少々でどうだ」
リストの半分にも満たない。
「分かりました」
ライラがにこりと笑った。
老人がわずかに眉を上げた。
値切ると思っていたのか、あるいは怒ると思っていたのか。
ライラはそのどちらでもなく、ただにこにこしていた。
そのとき、村人たちの後ろから、子供が一人顔を出した。
短剣を指差して、母親の袖を引いた。
「ねえ、あれ、すごい。刃のところ、光ってる」
「しっ」
母親が素早く子供の口を塞いだ。
老人は何も言わなかった。
ただ、手の中の短剣を、もう一度だけ静かに眺めた。
それからライラに向き直り、顎をしゃくった。
「食材を持ってこい」
村人が渋々と食材を集め始めた。
───
取引が終わって、ライラが深々と頭を下げた。
「ありがとうございました。また来週伺います」
老人が素っ気なく顎をしゃくった。
村人たちは誰も手を振らなかった。
子供たちは親の陰に隠れたまま、遠巻きにライラを見ていた。
ライラは振り返らずに歩き続けた。
その背中は、いつもと変わらず真っ直ぐだった。
───
城に戻ったライラが地下の扉をノックしたのは、日が傾きかけた頃だった。
返事がないまま扉が開く。
ライラが食材の入った籠を抱えて入ってきた。
「ただいま戻りました」
俺は天井から視線を外して、ライラを見た。
籠の中身は少なかった。
短剣一本にしては、明らかに少なかった。
ライラが籠をテーブルに置いた。
「皆さん、とても慎重な方たちでした」
一拍置いてから、ライラが続けた。
「カキンオー様」
俺は天井を見たまま、動かなかった。
「次からは私が何とかします。ご主人様のお手を煩わせません」
俺は何も言わなかった。
言えなかった。
ただ、ライラの声が少しだけ硬かったことは分かった。
部屋に静かな時間が流れた。
───
夜が更けた頃、城の外で気配がした。
人間だ。
一人、沼地の外縁を、慎重な足取りで動いている。
木々の影から城をじっと観察しているようだった。
城の範囲内だ。
俺はそれに気づいていた。
だが、起き上がる気にはなれなかった。
面倒だった。
俺は目を閉じた。
───
その男、ゴルドは茂みの影から城を見つめていた。
依頼は単純だった。
昨日逃げた自分を情けなく思った元締めのバッハが、もう一度だけ確認してこいと言った。
遠目に見るだけでいい。
城があるかどうかだけ確認すればいい。
そう言われて来たはいいが、城は確かにそこにあった。
黒く、巨大に、沼地の中央に鎮座していた。
ゴルドが踵を返そうとしたとき、気がついた。
いつから、そこにいたのか。
城門のそばに、人影があった。
白いエプロンを纏った、女性だ。
動いていない。
音もない。
ただ、こちらを見ている。
暗闇の中でなぜかはっきりと表情が見えた。
笑っていた。
最初から、ずっと笑っていたのかもしれない。
ゴルドは自分が息をしていないことに気づいた。
いつから止まっていたのかは、分からなかった。
声も出ないまま、来た道を全力で引き返した。
翌朝、報告書にはこう書かれていた。
「城は実在する。近づくな。以上」




