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悩みは積もった。塵も積もれば山となるとは聞いたことがあるが、悩みは積もってしまったら絶望となってしまうので困る。部屋の隅に追いやって自分の脳裏から新しい悩みの存在を消す。今まで無意識にそうすることで、今の悩みに愚直に向きあえて来たのだろう。
夏休み前の登校最終日。先ほどから惰性で口を動かす担任の声が聞こえていた。私はそれを理解しようとはせず、ただ片耳で聞いていた。二階のこの窓から眺める景色は、幾分見慣れていた。狭い民家の一帯が把握できる。あの家の洗濯物はこれ、あの家の庭には遊具があるから子どもがいる。
「小笠原くん」
そう呼ぶ声がして見てみると、前の席の生徒がプリントを回してきたみたいだった。軽く頭を下げ無言で受け取った私は、貰ったものをそのまま後ろへと逸らす。
木目が見えるはずの私の机に、白いものが割り込んでいた。取ったはずのないプリントが、置かれている。
「小笠原くん、プリント取ってないでしょ。バレバレだから」
バレバレ。その言葉が今の悩みの癇に障った。私のどこがバレバレなのだろう。私が思っていたことが誰かに伝わったか? どうでもいいことは伝わった。大事なことは声に出さないと伝わらない。もっと別のことを読み取って欲しいくらいだった。
午前中の倦怠感といったら、ペンを持つことすら拒まれる億劫さ。頭を回転させると他のことが手につかない。二つのことを器用にこなすことはできないが、二つのことを浅くこなすことならできる。だがこのときは、それができなかった。一つのことに集中していて、誰かの声が耳に入ることもままならなかった。
視覚とは、人間の印象だ。見ることで感じ、見ることで安息。聞こえるだけの電話や、文字列だけのメールではわからないような印象をもたらす。少しの言葉遣いで相手の心を不安にさせ、少しの文体で、今相手がどんな雰囲気でメールを打っているのかと感じさせてしまう。
視覚情報は偉大だ。ほぼ絶対的に近い信頼性。根拠。だから、目の前に梓が現れたとき、自分の内側の声が止んで、彼女の声が聞こえ出す。
「おーい。聞こえてるのー」
「ごめん。ちょっと聞いてなかった。何?」
「別になんてことはないけどさ。もうみんな帰っちゃったから」
部屋を見渡すと、確かに人影は見られなかった。
「もう帰りの学級終わった?」
「とっくに」
それすら気付かないほどの集中力。若しくは阻害力。それだけ部屋の隅に追いやりたかったのか。
彼女は窓際にもたれかかった。
「顔がこわばってるけど、どうかした?」
見透かされたが、悪い気はしなかった。話すかどうかは別の話だが、逡巡する。
「妊娠したことある?」
「何よ急にー。まだしたことないよー。ぴちぴちの女子高生だからね」
「望まない妊娠でもさ、産みたいと思う?」
「どうかなー。お金の問題じゃない?」
「どの男の子どもかもわからないような子を無条件で愛してやれたりする?」
「んーー。まあ自分のお腹から生まれてくればできるんじゃない?」
梓はお腹を摩るようなしぐさを見せた。
窓の淵に腰掛けていた彼女だったが、するすると尻を壁に沿うように落として床に着ける。体育座りのような状態になった。制服の隙間からベージュの何かが見えたが、それを部屋の隅に追いやる。
「姉弟の愛とかは信じる人?」
「ああ! 憧れるよね。私ひとりっ子だけど、お兄ちゃんとか憧れてたー。なんか楽しそうだよね。もう一人家族がいたら、もっと違う人間になってた気がする」
私も……そう思う。
もっと違う人間になれていたような気がするのだ。もっとわがままな人間になっていたような気がする。もし姉がいたら、それも優しい姉であったら、もっと縋って泣いて、もっと心の底まで信頼できる関係が築き上がっていた気がする。一人だったから逃げようなんて毛頭なかった。日常の隣に誰かがいたら、弱音を吐けたかもしれない。
「歪くんって兄弟いたの?」
「いないよ」
血が繋がっているから姉弟。小さい頃から側に居なかったとしても姉弟。どうしてだろう。それでもどこか動脈の向こう側で血が騒いでいる。疼いている。この人には、彼女の隣に居るときには、血液が沸騰し始めるように沸々と泡玉が次々に膨らんで消える。
家族とは。
姉弟とは。
愛するとは。
慈悲とは。
刹那に狂って酔いしれて、何かにがむしゃらに欲を発散させる対象。雨曝しの僕の充実した日常のどこか不確かな違和感を追いやって、必死にしがみつく。
それは、素性が知れぬ人だから……なのか。素性が知れた人は、また別次元の愛を持って貴しとなす。
その分別に、心を燃やす。
あの頃から常に部屋の隅に追いやってできた褥瘡が消えない。
次はもっと大事にする。それぐらい簡単な事情だったら、きっとこんなに悩みもしない。生きる術だと思っていたものが崩れそうになるのは、思春期特有の作用か。詭弁だ。




