【私たちの居場所】
煙草は精神病者の幻覚症状を和らげると高一の頃、保健の先生から聞いたことがある。一度だけ過労で倒れたことがあり、その際に世間話の一つとして聞いた覚えがある。手先の器用さが求められる細かい作業、編み物や将棋、麻雀もその類の一つだそうだ。
私には思い当たる節があった。妙に授業中、字を書きたくなる瞬間があった。握ったペンを離したくない。衝動に駆られたとでも言おうか。一身に集中して文字を殴り書きたくなる瞬間があった。
そんなことを保健の先生に話したら、「まあ誰にでもあることだから」と一蹴されてしまったのだが。
「友達に聞きなさい」
「友達がいない人はどうすればいいですか」
授業後に、そんな教師との会話をしたことがあった。課題があったはずなのだが、私はそのとき一心不乱に教科書の文字を書き写していたために、課題の詳細を聞きそびれてしまった。
授業後聞きに行ったのだ。「課題って何ですか? よく聞こえなくて」。私がそう言うと、教師は、「聞こえなかったんじゃなくて、聞いてなかったんでしょ? 言い訳は見苦しいわよ」
私は、すみませんと言って数秒待つのだが、一向に教えてくれる気配がない。教卓の上で、教科書やらプリントやらを整理し、挙句、横から入って来た生徒の相談に乗っていた。
その生徒も去り、私は声を掛けた。
「あの、それで課題を教えていただけませんか」
「あれ、あんたまだいたの。そんなの友達に聞けばいいじゃない。私に聞くことじゃないでしょ?」
「友達がいない人はどうすればいいですか?」
「そんなことないでしょ。一人ぐらいいるでしょ」
そう言って、教卓の上の資材をまとめて去って行く。
友達がいない人はいない。そんなことを思っているようだった。今回の課題は別にいいかと結論付けたとき。そんなときだった。梓と出会ったのは。
「ごめん。盗み聞きしちゃった。私でよければ課題教えようか?」
初めて見たときの印象は、私とは正反対の人間なのだろうと思っていた。自分の言いたいことを言うだけの、透明な法則性によって紡がれていくコミュニケーションを駆使する者。まず風貌が違う。地味じゃないのだ。日常生活の纏っている空気が違うという意味でも芸能人と冴えない一般人。それぐらい私にもわかった。
それからずっと繋がりがあったわけではない。たまに顔を出して「最近調子どーおー?」と聞いてくるぐらいで、別に気にするほどでもなかった。強いて言えば、偶々した雑談で誕生日が同じだと発覚したことに驚いたことぐらいで、強歩大会の前日がちゃんと話した初めての日だった。
そんなことを思い出しながら、私はいつか父に落とされた墓地に来る。あのとき私が目覚めた場所。視界や周りの風景を確認して、今まさしくその記憶の地点にいた。
寝転がってみる。仰向けになると、シャツを通してとはいえ、背中のごわごわした感触を握った。空はどこまでも広がっていきそうに見えるのに、ここら一帯は並木道に囲われているせいでそうは思えなくもなかった。
日差しが照っている。私が立ちどまっているだけで、腕の表面が熱い。墓参者がちらほらと見かけられ、私がいようがいなかろうがどちらでも世界は回っていくような気がした。時を刻むごとに成長する自分の姿。それと対照的に朽ち果てていく環境の中。それでもこの世界に希望を感じた。私が朽ちようと、この世界は成長していく。太古から忌み嫌われてきたことを撤廃して現れた生きやすさ。簡便化され続けるツール。忌むべきものは、もっと別のことに変遷していく。
顔の知らない人間の墓標。隙間を縫って歩いていく。そこにはよくわからない文字が印字されていて、傍らに花束が挿されている。そういうことは消えないのに、どうでもいいと見出されたことは消えた。
移ろう時代と移ろう景色、墓標と面映ゆい人間の尊重。しぶとい人間は今も生き残っている。この霊園の上を、私を嘲りながら漂って、肉体が欲しいと乞うている。成仏できずに美徳を歩めず、自身の子どもが手を合わせる姿を見て、「何をしているんだろう」と逡巡する。
そんな亡霊が現れそうな夏。明かりの灯らない盆提灯。黒く影を宿す闇。花火も、歩行者天国の両側に連なる屋台も、浴衣も、人だかりも、蝉時雨も、何も感じられそうにない夏。
夏風が私を運んでいった。
両側に連なっていた墓石から、文字は消えていた。甚平を着てもいいくらい暑いのに、暑くない。参拝者は、見られない。風は蝉の声は、聞こえない。何かを感じられそうな夏。
何もなくなった世界のようだった。生気が感じられない。驚きよりも先に、侘び寂びを感じた。きっと昔は、車のエンジン音も信号の音も綺麗な花火すらなかった。
そんな何も感じられない霊園を歩いた。多分、道に迷っていた。段々になっている墓石の上を行ったり、下を行ったり。やっと抜けた先にあったのは、枯れた花を捨てるゴミ箱のような大きな木作りの箱だった。
そこだけが不穏だった。こんな何も感じられない世界だ。それぐらいはっきり感じられる。私はそこに近づいて、蓋を開ける。
真っ白な肌の赤子が声も出さずに鳴いていた。
私はそっとすくい上げる。枯れた花をベッドにして寝ていた赤子は、口を開くのだ。
「お母さんを助けて欲しいんだ」
「え?」
「ぼくはいいんだ」
不思議だった。短手短足二頭身で口を開いて言葉を話す赤子。きっと君は、賢いんだろう。これからもっともっと賢くなるんだろう。
「それは違うよ」
「お母さんは誰?」
返事はない。不敵な薄気味悪い笑みは、私にこう口走らせた。
「殺される……」
呟くと、赤子は腕の中でサラサラになった。
夏風が生まれた。私を運んでいった。
雑音が戻る。
視線の奥に墓参者が見える。
鴉が墓石の上の饅頭に集っている。
ベビーカーを押す母親が見える。
ああ、と思った。あなたもそうやって生まれてきたんだね。自慰行為の後で感じる愚行の所作。こんな感情の元で新しい命は生まれる。そんな感情を忘れぬまま、私はこれから大人になっていくであろう子どもを愛することができるのだろうか。いつの日からか感じた違和は、積もりに積もってこの年になるまで感じ続けていた。
だからこそ、他人の赤子や子どもを見たときにこの上ない温もりや慈悲の心が消えないのであろう。
きっとこれは夢じゃない。しゃべる赤子も、助けるべき母親も、貴調の告白したことも。この間もそうだったから。




