第35節 見知らぬ天井
気がついたとき、目の前には白い天井があった。
たぶんここは会場の医務室。周囲はカーテンで区切られ、パイプベッドの上に寝かされている。横を見ると壁掛けのハンガーフックに俺の上着がかかっていた。
気を失ってたのか。脳がブレーカーを落としたってとこだろう。無理もない、相当ムチャをしたからな。
痛っつぅうう。
意識がはっきりすると同時に、痛みもはっきりしてくる。上体を起こすと、肋骨の下あたりが針でつつかれたみたいにズキッと来る。息を浅くしてごまかしながら、痛む肩や腹をさする。
眠っているあいだに手当てをしてくれたようで、体のあちこちに湿布や絆創膏が貼ってあった。道理で消毒液の匂いがすると思った。
「よかった。気がついたんだね」
カーテンが開き、彩乃が顔を覗かせる。
「気分はどう? 先生は、倒れたのは怪我というより疲労が原因だろうっておっしゃっていたけど……」
「大丈夫、もうぜんぜん平気。それよりごめん、なんか迷惑かけたみたいで」
「そんな、迷惑だなんて! それに、拓也くんがこんな目に遭ったのは全部わたしのせいだもの――」
彩乃は泣きそうな顔をする。
「いやいやいや! 別に彩乃のせいなんかじゃないから、そもそも俺が――」
そう口にしかけて、そこから先のセリフを飲み込んだ。
「やめやめ! どっちのせいとかナシ! ノーカン、ノーカン! 今日のことは犬にでも噛まれたと思って!」
彩乃はくすっと笑った。「うん。そうだね」
「ところで、俺、どれくらい眠ってたの?」
「うーんと、一時間半くらいかな。そうそう、なっちゃんと美咲ちゃんも少し前に来てくれたよ。また後で様子を見に来るって」
「え、そうなの?」
――マズいな。この怪我、どう説明したもんか。
「それでね……。ごめんなさい。なっちゃんたちには、怪我のこと、階段から落ちたって嘘ついちゃった。心配かけると思って――」
「いや、そう言ってくれてよかった。騒ぎがでかくなるし、それにB組の連中は運動部だから迷惑をかけたくない」
「……拓也くんは本当に優しいね。いつもほかの人のことばかり心配して」
「べ、べつにそんな優しいとかじゃ」
「ううん。優しいよ」
彩乃は小さく首を振った。「それに引きかえ、わたしは……」となぜか悲しげに呟く。な、なんだろう。おかしな雰囲気になってきた。
「そっ、そうだ! 太田たちから連絡は?」
「えっ、うん。安心して、みんな無事だって。太田くんは車を乗り捨てて逃げ切ったってさっき連絡があったし、梶原くんたちも近くにパトカーが来たからみんな逃げ出したんだって。大した怪我はないそうだよ」
「そうか、よかった」
「それに拓也くんのスマートフォンも見つけて拾ってくれたんだって」
「おおっ! それは、ありがたい」
スマホ自体もそうだが、彩乃とのやり取りしたメッセージを見返すことができるのが、なによりもうれしい。
しかし、あの連中はまた今日みたいに絡んでくるかもしれない。これからはもっと用心しないと……。
「大丈夫。あの人たちには、もう二度と手出しさせないから――」
眉がきゅっと寄り、瞳が一瞬だけ氷みたいに冷たく光った。
「心配しないで、任せて」
俺の視線に気が付いて、すぐにいつもの柔らかい表情に戻って微笑む。いったい、どうするつもりなんだろう。
コンコン、とノック。ドアが開く。「失礼しまーす」
夏希に美咲、そして萩原さんが姿を見せた。
「なんだ、もう気がついてたんだ」美咲はちょっと安心した顔をする。三人は顔を見合わせ、ベッドに近づいてくる。
「どう? 調子は?」と夏希。
「いいわけねーだろ」ぶっきらぼうに答える。
「ほら、夏希センパイ、やっぱり出直してきたほうが……」
萩原さんが控えめに言う。初めて聞く彼女の声は意外にもアニメ声の高音だ。クールな低音を想像してたのだが。
「階段から落ちたんだって? ホント、ドジねえ。一応、母さんには連絡しといたから」美咲が呆れ声で言う。
「……なんて言ってた?」
「すぐ迎えに来るって」
「げっ。そんな大層な……」
「そーいうと思ったから、あたしが連れてかえるって言っておいた。タクシー代、潤子ちゃんから借りたし」
美咲はスカートのポケットから万札を広げてみせる。
「小早川先輩のおうちはどのあたりですか? せっかくだから、途中までご一緒しません?」
美咲の申し出に、彩乃は丁寧に首を振った。
「なあ、駅まで寄ってもらうから、そこまでは乗っていかないか?」
今日は一人歩きはさせたくない。そうしてくれと視線で訴える。
「心配しないで。お父さんに迎えを頼むから」
彩乃が小さく微笑む。そっか。お父さんが来るのなら安心だ。
身支度を済ませ、医務室の先生に礼を言って外へ。
潤子先生が手配してくれたタクシーに乗り込もうとすると、萩原さんがそっと近づいてきた。
「先輩、今日は応援ありがとうございました。勝てたのは――先輩が夏希センパイにハッパをかけてくれたからです」
そんなことを言われるとは思っていなかったので、言葉が出なかった。彼女は俺の返事を待たず、ぺこりとして下がっていった。
後部座席に俺、美咲、夏希という並びで座る。
「それじゃあ、拓也くん。お大事にね」
「うん、また明日学校で」
「みんな、拓也くんのことよろしくお願いします」
「バッチリ任せといて。ちゃーんと送り届けるからさ」
彩乃と萩原さん、潤子先生に見送られながら、タクシーは発車した。
ぐぅーーーーすぅーー。
なにがちゃんと送り届けるだ。ものの数分で、夏希は大口を開けて爆睡し始めた。
まあ、今日のこいつは大車輪だったからな。仕方ないか。
「アニキも寝ていいよ。あたしは起きてるから」スマホをいじりながら美咲が言う。
「そっか、すまねーな」
「それと、この間はごめん……」
「は? 謝られるようなことあったか?」
聞き返すと、美咲はひどく言いにくそうだ。
「えっと、その……ひどいこと言ったでしょ。夏希ちゃんのことを何も考えてないとか、バカとか、マヌケとか、ヘタレとか、三国志オタクきも、とか」
照れ隠しにしても罵倒が多くないか妹よ。
「べつに気にも留めてねーよ。いつものことだろ」
「ううん。結局、何も考えてなかったのはあたしのほうだった。だから……ごめん。今日はアニキのこと――」
最後のほうはぼそぼそっとしていて、よく聞き取れなかった。「えっ、なんだ?」
「その……見直した。カッコよかった」
そう言う美咲は耳まで真っ赤だ。スマホで顔を隠した。我が妹ながら、なんというツンデレぶりだ。なんか俺のほうまで恥ずかしくなってきたじゃないか。
うっ、やめて運転手さん。そんな微笑ましそうな目で見つめないでくれ。
バックミラー越しの視線に耐えられず、俺は疲れたから寝ると宣言して瞼を閉じた。狸寝入りのつもりだったのだが、どうも本当に疲れていたらしい。あっという間に意識は薄れていき、泥のような眠りへ落ちていった。




