第30節 叡智きらめくとき
「オラ、とっとと歩けよ」
後ろからケツを蹴られ、転びそうになるのをなんとか踏みとどまる。
くそっ……マズい。
俺と彩乃は“顔を貸せ”と体育館の敷地の外へ連れ出されようとしていた。
背後から遠雷みたいに聞こえていた歓声が、どんどん小さくなっていく。
前に茶髪ポニテ、後ろに黒ロン毛と丸刈り、両側に真田と金髪のツンツン頭。これでは逃げるのは難しい。大声で助けを呼ぶにも、試合中で人通りがない。この状況で騒いでも逆効果だ。
「びびんなくても、へーきだって。ちょっと付き合ってもらうだけだからさ」
彩乃の隣を歩く金髪が、なれなれしく肩を抱いた。彩乃が一瞬、ピクッと背筋を伸ばす。
汚ねー手で彩乃に触んな!
血が逆流しそうになるのを、かろうじて堪える。落ち着け。動くのは策を立ててからだ。
「なあなあ、なんでこんなバカと付き合ってんの? こいつ、さっきもひとりで大騒ぎして、チョー痛いやつじゃん」
前を歩く茶髪ポニテが振り返り、俺を指さす。
コイツらまで会場にいたのか。ってことは――。
バカ! バカ! バカ! 真田から彩乃のことを聞いて来たに決まってる。なのに俺はあんな目立つ真似をして、みすみす絡まれる機会を作っちまった。
『後悔』が頭の中で渦を巻き、思考をすべて支配する。
もし、あんな騒ぎを起こさなければ。
もし、やつらの顔を見た時点で会場に逃げ込んでいれば――。
わかってる。タラレバは意味がない。それでも、自分の迂闊さを呪わずにいられない。一番大事な女の子を危険にさらすなんて。彩乃の身にもしものことがあったら……俺は一生、自分を許せない。どうして、俺はこんなにもバカなんだ。
爪が食い込むくらい固く握った拳に、柔らかな彩乃の手が触れた。
ハッとして横を見る。彼女は俺の拳をそっとほどき、精一杯の微笑みを向けてくる。
女の子のほうが、どれだけ怖いか。こんな時まで、俺を気遣ってくれるのか。
彩乃の手をぎゅっと握り返し、微笑み返す。
大丈夫。君は俺が守る――。
うじうじ後悔するのは後回しだ。やることをやってから、いくらでもすればいい。
脳内の軍師たちに集合をかける。
孔明、仲達、周瑜、郭嘉、法正……。今こそ、俺の中のすべての叡智を結集するとき――。
「この窮地から彩乃を逃がす策を考えてくれ!」
「はっ!」
軍師たちは拝礼し、軍議が繰り広げられた。
――軍議が終わり、孔明が代表して進み出る。
「殿。この状況を打破する策はございます。ただし、殿には危険を冒していただかなくてはなりません。それだけのご覚悟はございますか?」抑揚のない声で問う。
「愚問だ。俺のことを考慮する必要はない。もったいぶらずに教えてくれ」
「では――」
孔明は、口元を白羽扇で隠しながらそっと耳うちする。
「……なるほど。よし、それでいこう」
「この策は仕掛け時がもっとも重要です。早くても遅くてもいけません」
「わかっている。上手くやるさ、失敗は許されないんだからな」
連中の注意は俺と彩乃の動向より、まわりの通行人に見咎められないかという点に向けられている。
隙さえ作れば……。
上着のポケットに左手を突っ込む。まずは指紋解除。
敷地の外に出て、歩道を左に進むと、前を歩く茶髪ポニテがズボンのポケットからジャラジャラと大量の鍵束を取り出した。
輪に指を通し、クルクル回しながら、反対車線のほうに小走りで向かう。
その姿を目で追いつつ、ポケットの中で親指がLINEの位置をなぞる。
やつが向かった先には黒いバン。こいつら車で来てたのか! まずい、あれに乗せられたら脱出は絶望的。恐らく連れて行かれる先に助けは来ない。
だが、これは千載一遇のチャンスでもあった。包囲が弱まったのだから。
ポケットの中で慎重にタップを続け、準備完了。あとはタイミングだけだ。
茶髪ポニテが向こう側の車線まで渡りきり、スライドドアをガラリと開く。暗がりが見えて、やつが半身を乗り出す。
それを見計らって、孔明が白羽扇を掲げた。
「今です!」
頼む! ちゃんと操作できていてくれよ! 祈るような気持ちで最後のボタンをタップした。
鳴らない? ミスった? それともマナーモード!?
そう思ったその刹那。彩乃のカバンの中からクラシックの着メロが弾けた。
連中の注意が音の発信源である彩乃の鞄にそそがれた。
俺はポケットから手を抜き、スマホの角で左にいる真田の鼻梁をぶち抜いた。
「ぐあっ」とやつは短い悲鳴を上げ、鼻を押さえる。
「走って!」その隙をついて、彩乃の手を引き駆け出す!
「あっ、テメエ!」
「まて! ゴラァ!!」
待てと言われて待つバカがいるかよ! チラリと後ろを見ると、やつらも必死だ。鬼の形相で追ってくる。捕まったら、マジで半殺しにされかねない。
「怖い?」
走りながら彩乃に尋ねると、彼女は頭を振った。
「拓也くんと一緒だもの。平気だよ」
「ならよかった」
まずは第一関門突破。大変なのはこっからだ。
まっすぐ進んだ先の一つ目の十字路を抜け、二つ目で左折。
この先にあったはず……。
走り続けるうちに幅の狭い歩道橋が見えてきた。
俺たちはスピードを上げて、歩道橋の階段を一気に駆け上がった。上りきったところで俺は足を止める。
「えっ、拓也くん!?」
それに気づいた彩乃も足を止め、戸惑いの表情で俺を見た。
「行って! ここで俺がやつらを足止めするから!」
「ダ、ダメ! 一緒じゃなきゃ!」
「いいから行け! 少しは自分のことも考えろ!」
チラリと下を見ると連中も歩道橋の下まで差し掛かろうとしていた。くそっ追いつかれる!
なおも彼女は逡巡していたが、意を決して俺の胸に飛び込んできた。
「バカ! なにをやっ――」
喋ろうとした俺の口を彩乃の唇がふさいだ。
え――!?
一瞬、時が止まったみたいな感覚にとらわれる。こんな状況だってのに夢心地になって、近づいてくる怒声も、別世界の出来事みたいに感じられた。
「どうか……無事で」
彩乃はそっと俺の胸元から離れる。
そして、今度こそ脇目も振らずに彼女は走り出した。
彩乃とキスしちまった……。
ヤベ、メッチャクチャ嬉しい。
だが、階段を駆け上がる音が、俺を現実へと呼び戻す。
「どけぇ!」先頭は金髪。
俺は向き直り、腹に蹴りを叩き込む。よろめいた体を黒ロン毛が支える。
「て、てめぇ!」
金髪が憎憎しげに睨んでくる。
ビビらねーぞ。
ここの幅なら、二人同時に襲い掛かっては来れない。高さの利もある。彩乃が無事に逃げきるまでの時間、絶対に死守してみせる。
すでに過分な褒美を貰っちまったんだからな。
唇に触れると、自然に笑みがこぼれた。
今日の俺は天下無双――。
ここが俺にとっての長板橋だ!




